#15 血の涙
その町の聖堂は、石の継ぎ目から草が生えていた。
金のない教区だ。窓の硝子は三枚のうち一枚が板で塞がれ、燭台は鉄。それでも、身廊の奥に据えられた聖像の前だけは、床の石が磨り減って白く光っていた。人が膝をつく場所は、どんなに貧しい聖堂でも、そこだけ滑らかになる。
像は、若い女の姿をしていた。目を伏せ、両手を胸の前で合わせている。その目尻から、赤い筋が二本、頬を伝って顎の先で止まっていた。
「血の涙」と、この町の人間は呼んでいた。
*
仕掛けは、半日で分かった。
俺は、シエラに抱えられて像の周りを三度回り、四度目に、髪の彫りを見た。
像の髪は、額から後ろへ流れる細い彫りで表されている。その彫りの底に、一本だけ、他より深く、そして真っ直ぐな溝があった。彫刻家は、髪をこんなに真っ直ぐには彫らない。人の髪は、必ずどこかで揺れる。
溝は、目尻の少し上で消えていた。消えている場所を、指で撫でた。蜜蝋だった。表面だけ、石の色に合わせて土を練り込んである。
溝は、像の後頭部から背面へ抜け、壁との隙間へ入っていた。
「後陣の小部屋に、繋がってる」とシエラが言った。彼女は、壁の外側から石を叩いて、音の変わる場所を数えていた。「三尺ごとに継ぎ目。管が入ってる」
「中身は」
「明日、涙が出る前に取る」
彼女は、翌朝の暗いうちに、後陣の壁際から、ごく少量の液を掬ってきた。
小皿に垂らすと、薄い黄色だった。水よりわずかに粘る。
「地衣類だと思う」とシエラは言った。「北の岩に生える、黄色いやつ。染料屋が使う。ただ、これだけじゃ赤くならない」
彼女は、その皿を、両手で包んだ。
しばらくして手を開くと、黄色は、赤に変わっていた。
俺は、その皿を、長いこと見ていた。
「体温」
「うん。人肌くらいで変わる。冷えるとまた戻る」
俺は、身廊を振り返った。
参拝者は、像の前で膝をつき、そして額を、像の足元の台座に寄せる。長く祈る者ほど、長く寄せる。石は、人の熱を吸う。
「シエラ」
「うん」
「この仕掛けを作った人間は」と俺は言った。「信心の深い者ほど、涙が濃く見えるように作った」
シエラは、皿を伏せた。
「趣味が悪いね」
「いや」と俺は言った。「うますぎる」
俺は、この30年、仕掛けというものを見て生きてきた。感心したことは何度もある。だが、うますぎて気分が悪くなったのは、これが初めてだった。
*
仕掛け人は、その日の夕方に分かった。
後陣の小部屋の鍵を持っていたのは、この教区の下級司祭だった。ヨナスといった。26歳。前任者が三年前に死んで、そのまま居着いている。手が荒れていた。聖職者の手ではなく、水仕事の手だった。
俺は、彼が一人になるのを待って、扉の陰から声をかけた。
彼は、腰を抜かした。それから、俺が何者かを尋ねる前に、こう言った。
「……いつから、ご存じでしたか」
聞き方が、逃げる人間のものではなかった。俺は、少しだけ、予定を変えた。
「帳簿を、見せてもらえるか」
彼は、迷わなかった。奥の櫃から、麻紐で綴じた冊子を出してきた。三冊あった。三年分だ。
俺は、それを読んだ。
寄進の額は、細かく書かれていた。銅貨一枚まで。そして支出も、同じ細かさで書かれていた。
薪、四十束。毛布、二十二。靴、十九足。麦、六袋。医者への謝礼が二件。うち一件には、横に小さく「マレン、快復せず」と書き添えてあった。
孤児院の名前は、聖堂の裏の、あの平屋だった。俺は昼間、その前を通っていた。子どもが七人、外で遊んでいた。全員、靴を履いていた。この教区の貧しさで、七人全員に靴があるというのは、そういうことだった。
三冊を最後まで見た。ヨナスの名前は、一度だけ出てきた。
『ヨナス、外套一、売却、銀二。薪代へ充当』
俺は、顔を上げた。彼は、外套を着ていなかった。祭服の下に、麻の下着を二枚重ねているだけだった。この町の冬は、まだ二か月先だ。
「一枚も、懐に入っていない」
「入れるものが、ありませんので」
彼は、笑おうとして失敗した。
「あの染料は」と俺は聞いた。「誰に教わった」
「祖父です。染物屋でした」彼は下を向いた。「三年前の冬に、子どもが二人死にました。薪が足りなくて。……次の秋に、思いつきました」
「暴かれると思わなかったのか」
「思いました。毎日」彼は、はっきり言った。「毎日思いながら、毎日、管を通していました」
*
俺は、暴かなかった。
理由を、いくつも並べることはできる。この町に、この教区の代わりになる仕組みはない。奇跡管理院の施療院は、街道で四日離れている。孤児院を回しているのは、この男の嘘一つだ。それを剥がせば、七人の靴が消える。
だが、正直に言えば、俺は、あの帳簿の「外套一、売却、銀二」の一行を読んだ時点で、もう手が止まっていた。
俺は、彼の耳元で言った。他に誰もいなかったから、耳元である必要もなかったが、それでも近づいて言った。
「二つ、頼みがある」
「はい」
「一つ。染料を薄めろ。今の半分。来年はさらに半分」
「……はい」
「二つ。三年後に、涙を止めろ」
彼は、顔を上げた。
「奇跡が暴かれた形で終わらせるな。『涙が止まった』という形で終わらせろ。人は、暴かれた嘘は憎むが、終わった奇跡は悼む。悼まれた記憶は、後から掘り返されない。その三年で、寄進以外の口を作れ。畑でも、写本でも、なんでもいい」
ヨナスは、長いこと黙っていた。それから、深く頭を下げた。
頭を下げたまま、彼は聞いた。
「上には、どのように報告すればよろしいでしょうか」
俺は、そこで、答えを間違えた。
いま思えば、あの一瞬に、答えは三つあった。報告するなと言うこともできた。俺の名を出すなと言うこともできた。俺は、そのどちらも選ばなかった。
「正直に書け」と俺は言った。「そのほうが、あんたは長く保つ」
彼は、もう一度頭を下げた。律儀な男だった。
俺は、その律儀さが、半年後に何を生むかを、まったく想像していなかった。
*
町を出る朝、俺は残量計を見た。
針は、38のままだった。一人に囁いただけだから、髪の毛一本ぶんも動いていない。
「安上がりだったね」とシエラが言った。
彼女は、それきり何も言わなかった。
俺は、その沈黙を、責められていると受け取った。だが後になって考えると、あれはたぶん、責めていたのではなかった。彼女も、判断がつかなかったのだ。
聖堂の裏を通ると、子どもが七人、外に出ていた。一人が、こちらを見て手を振った。腹話術の人形に手を振ったのだ。俺は、シエラの膝の上で、木の手を振り返した。
これは、あの聖水の村と同じことなのだろうか。
あの村では、俺は司祭に囁いて、粉を薄めさせた。ここでは、俺は司祭に囁いて、染料を薄めさせた。並べて書けば、同じ一行になる。
だが、あの村の粉は、本部から送られてきていた。ここの染料は、この男が自分で煮ている。あの村の司祭は、言われたとおりに撒いていた。この男は、外套を売っていた。
同じなのか、違うのか。
俺は、その日、一日中考えて、答えが出なかった。
出ないまま、次の町へ向かった。
あとで分かることだが、この判断は、記録に残った。
ヨナスは、俺に言われたとおり、正直に書いた。「巡回の者より指導を受け、しるしの量を減ずることとせり。三年をもって畢わる予定」。
彼の几帳面な字は、上へ、上へと送られていった。
そして、王都の机で、それを読んだ男がいた。




