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感情と記憶を失った空っぽの従者なのに、次期公爵のヤンデレ天才魔術師が「永遠に俺のそばにいろ」と狂気の愛で迫ってくる  作者: 月夜 闇花


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第9話「記憶のない庭と消えない呪縛」

 塔での生活が始まってから、何度目の月が満ちたのか。

 セレンの中には、時間という概念すら曖昧に溶け出していた。

 外の世界は常に厚い雪雲に覆われ、昼夜の区別すら定かではない。

 塔の中層階には、イグニスの魔術によって維持されている広大な温室が存在していた。

 ガラス張りの天井からは白く柔らかな光が降り注ぎ、人工的な熱が室内の空気を湿らせている。

 土の匂いと、咲き乱れる花々の強い香りが混ざり合っていた。

 イグニスはセレンの腕をそっと引き、色鮮やかな花壇の前に立たせる。


「これは青い薔薇だ。お前が昔、古い図鑑を見て珍しいと言っていたものだ」


 イグニスは慎重な手つきで一輪の花を摘み取り、セレンの手のひらへと乗せた。

 花びらはベルベットのように柔らかく、微かな冷気を帯びている。

 セレンはそれを視界に収めたものの、美しいと感じることはなかった。

 ただ青い光の波長を反射し、特有の香りを放っているだけの植物だった。


「ありがとうございます、イグニス様」


 用意された台本を読むように、抑揚のない声で答える。

 イグニスは痛みを堪えるように眉間にしわを寄せ、花を持つセレンの指先を両手で包み込んだ。


「……他にもある。あの奥には、お前が好きだった南国の果樹を植えた。少し休んだら、一緒に見に行こう」

「はい、ご命令のままに」


 イグニスの体温が伝わってくるはずの手のひらは、氷のように冷え切ったままだった。

 どれほど美しい花を与えられても、かつて好きだったものを目の前に並べられても、セレンの心に波紋が広がることはない。

 その無関心さが、イグニスの胸を鋭い刃で切り裂いていることをセレンは理解していなかった。


 ◆ ◆ ◆


 その日の夜、イグニスは珍しく体調を崩してベッドに横たわっていた。

 過酷な魔術の連続行使と、削られた魂の残滓が熱となって表れたのだろう。

 暖炉の火が静かに爆ぜる中、セレンはベッドの脇にひざまずいている。

 冷たい水で絞った布を、イグニスの額へとそっと乗せた。


「セレン……」


 熱に浮かされたイグニスが、ひどくかすれた声で言葉をこぼす。

 彼の呼吸は浅く荒れ、赤い瞳は高熱で微かに潤んでいた。


「どこにも行くな。私のそばから、いなくなるな」

「私はここにいます、イグニス様」

「違う……そうじゃない」


 イグニスは苦しげに顔を歪め、セレンの腕を強く掴んだ。

 その力はひどく弱々しく、彼が抱えている内面の脆さを如実に表していた。


「お前は……私を、愛していると言ってくれ」


 懇願するような声が、静まり返った部屋に虚しく響く。

 セレンはまばたきを一つ落とし、記憶の引き出しから適切な言葉の組み合わせを探り出した。

 主人が最も求めている音声を、正確に組み立てて出力する。


「愛しております、イグニス様」


 言葉の意味など、欠片も理解していなかった。

 そこに熱はなく、ただの空気の振動でしかない。

 しかしイグニスは、その言葉を聞いた瞬間に泣き出しそうな顔になり、セレンの冷たい手を自身の頬へと押し当てた。


「ああ……私もだ。私も、お前だけを愛している」


 熱を持ったイグニスの頬と、死人のように冷たいセレンの手のひら。

 交わることのない温度差が、二人の間に横たわる決定的な断絶を示していた。

 イグニスは決して届かない愛情をセレンに注ぎ続け、セレンはそれをただの物理現象として処理し続ける。

 閉ざされた塔の中で、イグニスの執着という見えない鎖が、二人を永遠の呪縛へと繋ぎ止めていた。

 セレンは何も感じないまま、主人の呼吸が落ち着くまでただ静かにひざまずき続けていた。

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