第8話「見えない鎖と冷たい献身」
王都から遠く離れた、北の辺境。
深い針葉樹の森に囲まれた古い石造りの塔は、外界の音を一切寄せ付けない深い静寂の中にあった。
最上階の広々とした部屋には、イグニスの魔術によって快適な環境が整えられている。
足が沈み込むほど柔らかな絨毯、常に最適な温度を保つ魔法の暖炉、そして窓辺に置かれた座り心地の良い長椅子。
セレンはその長椅子に腰掛け、鉛色の重い空をただ見つめていた。
背後で、布の擦れる微かな音がする。
イグニスが銀色のブラシを手に持ち、セレンの後ろに立っていた。
「動かないでくれ。少し、髪が絡まっている」
イグニスの長い指がセレンの銀髪をすくい上げ、ゆっくりとブラシを通していく。
かつて、公爵家の工房で暮らしていた頃は、セレンが彼の身支度をすべて整えていた。
服のしわを伸ばし、書類を揃え、誰よりも早く起きて朝の支度をするのが日常だった。
しかし今、その役割は完全に逆転している。
イグニスは毎朝セレンの着替えを手伝い、髪を梳き、食事の世話を焼いた。
王立魔術院の頂点に立つはずの天才が、魔術の研究をすべて放棄し、ただ一人の世話係のためにすべての時間を使っている。
ブラシの先がもつれた毛先に引っかかり、セレンの頭がわずかに後ろへと引かれた。
頭皮に鈍い痛みが走るが、セレンは顔色一つ変えずにじっとしている。
「痛かったか。すまない」
イグニスが焦ったように手を止め、セレンの頭にそっと触れた。
「いいえ、問題ありません」
セレンの平坦な答えに、イグニスは痛みを堪えるように小さく息を吐き出した。
髪を梳き終えると、イグニスは小さな丸テーブルにティーセットを用意する。
ティーカップの縁から、白い湯気が細く立ち昇っていた。
イグニスが自ら淹れた紅茶を、セレンは何も言わずに受け取る。
口に含むと、上質な茶葉の香りと温かい液体の感触が舌の上を通り過ぎていった。
それはただの物理現象の連続であり、心に安らぎをもたらすものではない。
「セレン。お前は、ここでの暮らしをどう思っている」
イグニスが、対面の椅子に座って探るような視線を向けてくる。
セレンはカップをソーサーに戻し、静かにまばたきをした。
「静かで、快適な場所です。イグニス様がそう望まれるなら、私はここにいます」
「私が望むからではなく……お前自身は、どうしたいのだ。何をしたい、何がほしい」
苦しげに絞り出された声だった。
セレンはその言葉の意味が正しく理解できず、小首をかしげた。
記憶と感情を失った自分に、自発的な欲望など存在しない。
従者である自分が、主人である彼の命令以外に何かを望む必要があるのだろうか。
「私には、わかりません。ご命令をいただければ、その通りに動きます」
淡々と事実だけを告げるセレンの声に、イグニスの顔が苦痛に歪んだ。
彼の手が伸びてきて、テーブル越しにセレンの頬を強く包み込む。
その指先はひどく冷たく、まるで何かにすがりつくように小刻みに震えていた。
痛いほどに頬を押さえつけられても、セレンはただ虚空を見つめ続けている。
イグニスの赤い瞳の奥には、凄絶な後悔と、底なしの執着が渦巻いていた。
この塔には、目に見えない鎖が何重にも張り巡らされている。
イグニスはセレンを外界から完全に隔離し、同時に自分自身をもこの狂った箱庭に閉じ込めていた。
「……それでいい。何も望まなくていい。ただ、私のそばにいろ」
イグニスは囁くように言葉を落とし、セレンの銀髪に深く顔をうずめた。
セレンは冷たい石像のように動かず、彼が落ち着くまでただ静かに待ち続ける。
窓の外では、音もなく細かい雪が降り始めていた。
白い膜に覆われた森は、二人の閉ざされた世界をさらに深く外界から切り離していくかのようだった。




