第7話「切り捨てられた婚約と塔への道」
高い天蓋のついたベッドの上で、セレンは静かに目を開けた。
絹のシーツは滑らかで肌触りが良く、部屋の中は暖炉の火で心地よい温度に保たれている。
壁に掛けられた振り子時計が、微かな音を立てて時を刻んでいた。
視界の端で、漆黒のローブが衣擦れの音を立てて揺れる。
イグニスが、ベッドの脇に置かれた椅子に深く腰掛けていた。
彼はセレンが目を覚ましたことに気づくと、手にしていた厚い文献を無造作に机へと投げ出す。
「起きたか。気分の悪いところはないか」
低く、どこか焦りを帯びた声が空気を震わせた。
セレンはゆっくりと体を起こし、平坦な声で答える。
「はい。特に不調はございません、イグニス様」
「そうか。無理はしなくていい、そのまま横になっていろ」
イグニスは立ち上がり、サイドテーブルに用意されていた温かいスープの器を手に取った。
彼が自らスプーンを持ち、琥珀色の液体をすくってセレンの口元へと運んでくる。
かつてなら、恐れ多くて受け入れられなかったであろうその過保護な振る舞いを、セレンは疑問を抱くことなく受け入れた。
喉の奥へ流し込まれたスープは、確かな温かさと複雑な香りを放っていた。
しかしセレンの舌は、それをただの物理的な熱としてしか認識しない。
味が美味しいとも、嬉しいとも思わなかった。
ただ栄養を取り込むための作業として、静かに飲み込むだけだ。
イグニスが二度目のスプーンを差し出そうとしたとき、部屋の重い扉が乱暴に開かれた。
甘く強い花の香水が、室内の静かな空気を強引に塗り潰す。
「イグニス様。無事にご回復されたと聞いて、飛んでまいりました」
ルシアン・エルフォードが、芝居がかった手つきで涙を拭うような仕草を見せながら駆け寄ってくる。
しかしイグニスはスプーンを器に戻し、ルシアンに向かって氷のように冷たい視線を向けた。
「誰が許可した。ここは部外者が立ち入る場所ではない」
「部外者だなんて、ひどいお言葉です。私はあなたの婚約者ではありませんか」
「私が倒れた直後に、呪いが伝染すると喚き散らして逃げ帰った男がよく言う」
イグニスの低い声が、部屋の温度を急激に下げていく。
ルシアンは一瞬だけ言葉に詰まり、顔を引きつらせた。
「そ、それは違います。私はただ、優秀な魔術師を連れてくるために屋敷へ戻っただけで……」
「黙れ。貴様がどう動こうが私には何の興味もない。エルフォード家からの申し出通り、婚約はすでに白紙に戻した」
きっぱりと告げられた言葉に、ルシアンの顔が屈辱と怒りで赤く染まる。
彼は信じられないものを見るような目でイグニスを睨みつけ、次いでベッドに座るセレンを指差した。
「そんな……この、記憶もなくなった抜け殻のような男のために、私を切り捨てるというのですか」
その甲高い声を聞いても、セレンの胸には何の感情の波も立たなかった。
抜け殻。
その表現は、今の自分を正確に表しているように思える。
イグニスの周囲の空気が急速に冷え込み、目に見えない強大な魔力の重圧が部屋を満たした。
窓ガラスが制御を失ったように小刻みに震え、暖炉の炎が青白く変色する。
「この口を永遠に塞がれたくなければ、二度と私の前に姿を見せるな」
本物の殺気を帯びた言葉に、ルシアンは呼吸を乱し、恐怖で顔をひきつらせて後ずさった。
彼は命からがらといった様子で扉まで逃げ戻り、逃げるように廊下の奥へと姿を消していく。
静寂が戻った部屋で、イグニスは深く息を吐き出し、セレンに向き直った。
魔力の重圧はすでに消え去り、そこにあるのはひどく脆く、傷ついたような瞳だけだった。
「セレン。ここには煩わしい虫けらが多すぎる。私たちは、王都を出るぞ」
「どちらへ行かれるのですか」
「北の領地の果てにある塔だ。あそこなら、誰の目も届かない」
イグニスの手が伸び、セレンの冷たい頬をそっと撫でる。
その指先が小刻みに震えているのを、セレンはただ静かに見つめ返していた。
「はい、イグニス様。ご命令のままに」
それが、セレンの口から紡がれる唯一の正解だった。




