第6話「空っぽの器と遅すぎる後悔」
◇イグニス視点
深い眠りから覚めるようにして、イグニスはふっと現実に引き戻された。
目を開けると、見慣れない白い天井が視界に入る。
全身を支配していたあの焼けるような痛みと、魂が削り取られる悪寒はどこにもない。
指先を動かすと、シーツの乾いた感触が伝わってくる。
魔力回路を探ってみると、以前と変わらず清浄な魔力が満ちているのがわかった。
体を起こすと、ベッドの傍らに立っていた筆頭魔術師が目を見開いた。
「イグニス殿……お目覚めになられましたか」
老いた魔術師の声には、安堵よりも深い戸惑いが混じっていた。
イグニスは周囲を見渡し、自分が魔術院の救護室にいることを理解する。
「実験はどうなった。術式が反転して、死の呪いを受けたはずだが」
かすれた声で尋ねると、筆頭魔術師は深くうつむいて顔を曇らせた。
「暴走した魔力は完全に鎮まりました。あなたの体から、呪いの痕跡は消え失せています」
「エルフォード家の令息はどうした。彼がそばにいたはずだが」
「……ルシアン様は、呪いが伝染することを恐れて屋敷へと逃げ帰られました。すでにエルフォード家からは、婚約を白紙に戻すという書状が届いております」
その報告を聞いても、イグニスの心には何の感情も湧かなかった。
美しいだけで中身のない相手に、多くを期待してはいなかった。
問題はそこではない。
「では、誰があの呪いを解いた。高位の魔術師を何人集めても不可能な規模だったはずだ」
イグニスの問いに、筆頭魔術師は重い口を開いた。
「……あなたのかつての従者が、己の魔力親和性を利用して術式を反転させました」
その言葉の意味を理解するのに、イグニスは数秒の時間を要した。
かつての従者。
その単語が指し示す人物は、世界にただ一人しかいない。
「セレンが、来たというのか」
「はい。彼は自らの命に等しいものを器にして、あなたの呪いをすべて引き受けました」
心臓が痛みを伴って激しく拍動し、視界がぐらりと揺れた。
セレンが、あの何の取り柄もないただの世話係が。
自分から切り捨て、冷たく追い出したあの男が、身代わりになったというのか。
「彼は今、どこにいる」
「隔離室の奥の病室に収容されています。一命は取り留めましたが、その代償は……」
筆頭魔術師が言葉を終えるよりも早く、イグニスはベッドから跳ね起きていた。
体がふらつき、床に倒れ込みそうになるのも構わず、裸足のまま病室を飛び出す。
冷たい石の廊下が足の裏の熱を奪っていくが、そんなことはどうでもよかった。
息が切れ、肺が痛みを訴えても、足を止めることはできない。
なぜ、彼を追い出したのか。
彼がいつも影のように寄り添い、自分を支え続けていたことを、なぜ当たり前のこととして片付けていたのか。
失って初めて、自分の日常が彼の献身の上に成り立っていたことに気づく。
心臓を素手で握り潰されるような凄絶な後悔が、鋭い刃となってイグニスの胸をえぐる。
長く冷たい廊下の突き当たりにある扉を、乱暴に押し開けた。
部屋の中には、青白い月明かりが差し込んでいる。
窓辺の小さなベッドの上に、薄い寝巻きを着た人影が座っていた。
「セレン……」
イグニスは音を立てずに歩み寄り、その名前を呼んだ。
ベッドに座るセレンの銀髪が、冷たい月明かりを吸い込んで白く透けている。
イグニスは震える手を伸ばし、その細い肩にそっと触れた。
セレンはゆっくりと振り返った。
しかし、その顔を見た瞬間、イグニスの心臓は冷たく凍りついた。
空の青を溶かしたような瞳は、焦点が合っていない。
イグニスの顔を通り越し、虚空のどこかをさまようように見つめている。
表情筋は完全に弛緩し、そこに感情の波は一切存在していなかった。
「セレン、私だ。わかるか」
イグニスの問いかけに対し、セレンはゆっくりとまばたきを一つ落とした。
「ごきげんよう、イグニス様」
抑揚のない平坦な声だった。
かつて自分を呼んでいた、あの温かな響きや、控えめな愛情の色は、そこにはもうない。
精巧に作られたからくり人形が、ただプログラムされた音声を再生しているかのようだった。
「セレン……お前、記憶が」
「はい。私は、イグニス様のお世話をするためにここにいると伺っております」
セレンの言葉には、過去の記憶も、イグニスへの感情も、彼自身を形成していた自我すらも残っていなかった。
ただの空っぽの器として、イグニスのためだけに呼吸を続けている。
イグニスは奥歯を強く噛み締め、呼吸の震えをごまかすようにセレンの細い体を抱き寄せた。
腕の中に収まる体はひどく冷たく、張り詰めたような硬さだけが伝わってくる。
自分がすべてを奪ったのだ。
彼が大切にしていた感情も、温かな記憶も、何もかもを。
激しい後悔が、喉の奥からせり上がってくる。
「ああ、いい子だ。ずっとここにいればいい」
冷たい頬に唇を落とし、イグニスは誰にも聞こえない声でつぶやいた。
もう二度と、彼を手放すことはしない。
たとえ彼がただの空っぽの人形になってしまったとしても、この腕の中に閉じ込めておく。
イグニスの胸の奥で、決して後戻りのできない狂気の種が、静かに芽吹き始めていた。




