表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
感情と記憶を失った空っぽの従者なのに、次期公爵のヤンデレ天才魔術師が「永遠に俺のそばにいろ」と狂気の愛で迫ってくる  作者: 月夜 闇花


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/20

第6話「空っぽの器と遅すぎる後悔」

 ◇イグニス視点


 深い眠りから覚めるようにして、イグニスはふっと現実に引き戻された。

 目を開けると、見慣れない白い天井が視界に入る。

 全身を支配していたあの焼けるような痛みと、魂が削り取られる悪寒はどこにもない。

 指先を動かすと、シーツの乾いた感触が伝わってくる。

 魔力回路を探ってみると、以前と変わらず清浄な魔力が満ちているのがわかった。

 体を起こすと、ベッドの傍らに立っていた筆頭魔術師が目を見開いた。


「イグニス殿……お目覚めになられましたか」


 老いた魔術師の声には、安堵よりも深い戸惑いが混じっていた。

 イグニスは周囲を見渡し、自分が魔術院の救護室にいることを理解する。


「実験はどうなった。術式が反転して、死の呪いを受けたはずだが」


 かすれた声で尋ねると、筆頭魔術師は深くうつむいて顔を曇らせた。


「暴走した魔力は完全に鎮まりました。あなたの体から、呪いの痕跡は消え失せています」

「エルフォード家の令息はどうした。彼がそばにいたはずだが」

「……ルシアン様は、呪いが伝染することを恐れて屋敷へと逃げ帰られました。すでにエルフォード家からは、婚約を白紙に戻すという書状が届いております」


 その報告を聞いても、イグニスの心には何の感情も湧かなかった。

 美しいだけで中身のない相手に、多くを期待してはいなかった。

 問題はそこではない。


「では、誰があの呪いを解いた。高位の魔術師を何人集めても不可能な規模だったはずだ」


 イグニスの問いに、筆頭魔術師は重い口を開いた。


「……あなたのかつての従者が、己の魔力親和性を利用して術式を反転させました」


 その言葉の意味を理解するのに、イグニスは数秒の時間を要した。

 かつての従者。

 その単語が指し示す人物は、世界にただ一人しかいない。


「セレンが、来たというのか」

「はい。彼は自らの命に等しいものを器にして、あなたの呪いをすべて引き受けました」


 心臓が痛みを伴って激しく拍動し、視界がぐらりと揺れた。

 セレンが、あの何の取り柄もないただの世話係が。

 自分から切り捨て、冷たく追い出したあの男が、身代わりになったというのか。


「彼は今、どこにいる」

「隔離室の奥の病室に収容されています。一命は取り留めましたが、その代償は……」


 筆頭魔術師が言葉を終えるよりも早く、イグニスはベッドから跳ね起きていた。

 体がふらつき、床に倒れ込みそうになるのも構わず、裸足のまま病室を飛び出す。

 冷たい石の廊下が足の裏の熱を奪っていくが、そんなことはどうでもよかった。

 息が切れ、肺が痛みを訴えても、足を止めることはできない。

 なぜ、彼を追い出したのか。

 彼がいつも影のように寄り添い、自分を支え続けていたことを、なぜ当たり前のこととして片付けていたのか。

 失って初めて、自分の日常が彼の献身の上に成り立っていたことに気づく。

 心臓を素手で握り潰されるような凄絶な後悔が、鋭い刃となってイグニスの胸をえぐる。

 長く冷たい廊下の突き当たりにある扉を、乱暴に押し開けた。

 部屋の中には、青白い月明かりが差し込んでいる。

 窓辺の小さなベッドの上に、薄い寝巻きを着た人影が座っていた。


「セレン……」


 イグニスは音を立てずに歩み寄り、その名前を呼んだ。

 ベッドに座るセレンの銀髪が、冷たい月明かりを吸い込んで白く透けている。

 イグニスは震える手を伸ばし、その細い肩にそっと触れた。

 セレンはゆっくりと振り返った。

 しかし、その顔を見た瞬間、イグニスの心臓は冷たく凍りついた。

 空の青を溶かしたような瞳は、焦点が合っていない。

 イグニスの顔を通り越し、虚空のどこかをさまようように見つめている。

 表情筋は完全に弛緩し、そこに感情の波は一切存在していなかった。


「セレン、私だ。わかるか」


 イグニスの問いかけに対し、セレンはゆっくりとまばたきを一つ落とした。


「ごきげんよう、イグニス様」


 抑揚のない平坦な声だった。

 かつて自分を呼んでいた、あの温かな響きや、控えめな愛情の色は、そこにはもうない。

 精巧に作られたからくり人形が、ただプログラムされた音声を再生しているかのようだった。


「セレン……お前、記憶が」

「はい。私は、イグニス様のお世話をするためにここにいると伺っております」


 セレンの言葉には、過去の記憶も、イグニスへの感情も、彼自身を形成していた自我すらも残っていなかった。

 ただの空っぽの器として、イグニスのためだけに呼吸を続けている。

 イグニスは奥歯を強く噛み締め、呼吸の震えをごまかすようにセレンの細い体を抱き寄せた。

 腕の中に収まる体はひどく冷たく、張り詰めたような硬さだけが伝わってくる。

 自分がすべてを奪ったのだ。

 彼が大切にしていた感情も、温かな記憶も、何もかもを。

 激しい後悔が、喉の奥からせり上がってくる。


「ああ、いい子だ。ずっとここにいればいい」


 冷たい頬に唇を落とし、イグニスは誰にも聞こえない声でつぶやいた。

 もう二度と、彼を手放すことはしない。

 たとえ彼がただの空っぽの人形になってしまったとしても、この腕の中に閉じ込めておく。

 イグニスの胸の奥で、決して後戻りのできない狂気の種が、静かに芽吹き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ