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感情と記憶を失った空っぽの従者なのに、次期公爵のヤンデレ天才魔術師が「永遠に俺のそばにいろ」と狂気の愛で迫ってくる  作者: 月夜 闇花


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第5話「魂の身代わり」

 王立魔術院の最深部、厳重な結界で封鎖された特別隔離室の周囲は、異様な緊張感に包まれていた。

 冷たい石造りの廊下には焦げたような異臭が立ち込め、高位の魔術師たちが疲労困憊した様子で壁際に座り込んでいる。

 重厚な鉄の扉の表面には、幾重にも封印の術式が青白い光を放ちながら浮かび上がっていた。

 しかしその隙間からは、どす黒い魔力の淀みが冷たい瘴気となって微かに漏れ出している。

 セレンは乱れた呼吸を整える間もなく、魔術師たちの群れをかき分けて扉の前へと進み出た。


「下がりなさい。中は致死レベルの呪いが充満している」


 年老いた魔術師が杖を構え、行く手を阻むように立ち塞がる。

 その顔には深い疲労と、どうにもならない諦めの色が濃くにじんでいた。


「中に入れば、数分であなたの命も削り取られます。彼を助ける手立ては、もう残されていないのです」


 セレンは杖の先端を静かに見つめ、それから老魔術師の目に向かって深く頭を下げた。


「私なら、中の魔力に干渉できます。どうか、通してください」

「無茶を言うな。筆頭魔術師でさえ跳ね返された呪いだぞ」

「私の魔力親和性は、他者の魔力に同調し、術式を内部から書き換えることができます。彼を助けられるのは、私だけです」


 セレンの声には、少しの揺らぎもなかった。

 静かで平坦な声の奥にある決して曲げられない意志を感じ取ったのか、老魔術師はかすかに顔を曇らせ、ゆっくりと杖を下ろした。

 重い扉が鈍い金属音を立てて開かれると、息が詰まるほどの濃密な呪いが冷たい風となってセレンの頬を打つ。

 部屋の内部は、かつての美しい工房とは似ても似つかない惨状だった。

 床の石畳は高熱でひび割れ、四方の壁には魔力暴走の爪痕が黒く焦げ付いている。

 部屋の中央に描かれた防護陣の中に、簡素なベッドが置かれていた。

 そこに横たわっているのは、かつて誰よりも誇り高く、傲慢なまでに自信に満ち溢れていたイグニスの姿だ。

 セレンは音を立てないように歩み寄り、ベッドの傍らにひざまずく。

 イグニスの肌には、魂を侵食する呪いの紋様が黒いあざとなって不気味にうごめいていた。

 呼吸はひどく浅く、胸の上下運動は今にも止まってしまいそうだ。

 額には脂汗が浮かび、高い熱が周囲の空気さえも歪ませている。

 セレンは震える指先を伸ばし、イグニスの胸の中央にそっと触れた。

 皮膚越しに伝わってくるのは、燃え盛るような熱と、生命を食い破ろうとする呪いの脈動。

 イグニスの命の灯火が、今まさに消え去ろうとしているのがわかる。

 セレンは小さく息を吸い込み、自身の特異な魔力親和性を解放した。

 彼の魔力は透明な水のように柔らかく、どんな形の術式にも同調し、受け入れる性質を持っていた。

 通常であれば他者の魔力暴走を外側から鎮めるために使うその力を、セレンは自分自身を器とするための引力へと反転させる。


「……大丈夫です。私が、すべて引き受けますから」


 乾いた唇からこぼれた小さな声は、呪いの気配に溶けて消えた。

 セレンの指先から柔らかな光が放たれ、イグニスの胸の奥で暴れる黒い瘴気へと絡みつく。

 次の瞬間、強烈な拒絶反応がセレンの腕を跳ね返そうとした。

 しかしセレンは両手でイグニスの体を強く押さえ込み、術式をさらに深く同調させる。

 黒いあざがイグニスの肌から浮き上がり、セレンの腕を伝って体内へと流れ込んできた。

 焼けるような痛みが、全身の血管を逆流していく。

 鋭い氷の刃で内臓を細切れにされるような痛覚が脳を激しく揺さぶった。

 それでも、セレンの唇から悲鳴がこぼれることはない。

 奥歯を強く噛み締め、口の中に血の味が広がるのを感じながら、ただひたすらに呪いを吸い上げていく。

 イグニスの呼吸が、少しずつ深さを取り戻し始めていた。

 黒いあざが薄れ、高熱に苦しんでいた表情が微かに和らぐ。

 それと引き換えに、セレンの意識は深い泥の底へと引きずり込まれようとしていた。

 魂の代償として呪いを引き受けることは、己を形成するすべての記憶と感情を失うことを意味している。

 視界が白く明滅する向こう側で、セレンの脳裏に過去の情景が浮かび上がっては、熱を帯びて黒く崩れ去っていった。

 幼い頃、魔術の基礎を教えてくれたイグニスの横顔。

 彼が初めて美しい術式を完成させたときの、得意げな瞳。

 誰の目にも触れない地下の工房で、二人きりでお茶を飲んだ静かな時間。

 理不尽な命令に振り回されながらも、彼のために動くことが喜びだった日々。

 婚約を告げられたときの、胸が張り裂けそうになる痛み。

 それらすべての記憶が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく。

 彼を愛おしいと思っていた感情そのものが、白く塗り潰されて消えていった。

 最後に残ったのは、彼が穏やかな日常に戻れるならそれでいいという、静かな諦観だけだった。

 セレンの視界が急速に狭まり、周囲の音が遠ざかっていく。

 イグニスの顔が白くぼやけ、もはや彼が誰なのかもわからなくなり始めていた。

 自分の腕に広がる黒いあざを見つめながら、セレンはゆっくりと目を閉じる。

 もう、痛みすら感じない。

 ただ深く、温かい暗闇が、空っぽになった心と体を優しく包み込んでいった。

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