第4話「崩壊の空と死の呪い」
その日の朝は、空気がひどく淀んでいた。
肌に張り付くような嫌な湿り気と、微かに鼻をつく焦げたような匂い。
セレンは店先の掃き掃除をしながら、不吉な色の空を見上げた。
普段なら王都の空を舞っているはずの白い鳥たちが、一羽残らず姿を消している。
灰色の雲が渦を巻き、大気の流れが奇妙にねじ曲がっているのが肌感覚でわかる。
セレンの持つ魔力親和性が、空間に満ちる異常な緊張を微細に感じ取っていた。
何か、巨大な歯車が狂い始めたような悪寒が背筋を這い上がる。
◆ ◆ ◆
昼を過ぎた頃、その予感は最悪の形で現実のものとなった。
足元から、微かな振動が伝わってくる。
遠くで巨大な岩が砕け散るような低い音が響き、大気が小刻みに震える。
店先の棚に並べられていたガラスの小瓶が、立て続けに擦れ合って乾いた音を立てた。
市場にいた人々が足を止め、不安そうに王城の方向へと視線を向ける。
「なんだ、今の音は」
「あっちの方角は……王立魔術院じゃないか」
誰かのつぶやきが引き金となり、ざわめきが波紋のように広がっていく。
セレンの視界の先で、王城の奥にそびえる魔術院の塔から、不自然な紫色の煙が立ち昇るのが見えた。
それは通常の火災によるものではない。
高密度の魔力が暴走し、物理的な現象として大気に干渉している証拠だった。
胸の奥で、冷たい不安が渦を巻く。
イグニスの身に、何か起きたのではないか。
そんな根拠のない焦燥感が、セレンの呼吸を急激に浅くしていく。
そのとき、人だかりをかき分けるようにして一人の少年が転がり込んできた。
息を切らし、顔面を蒼白にさせたその姿には見覚えがある。
公爵家の工房で、雑用や使い走りを担当していた見習い魔術師のテオだった。
「セレンさんっ……よかった、ずっと探して……」
テオはセレンの姿を認めるなり、足をもつれさせてその場にへたり込んだ。
額には大粒の汗が浮かび、肩で激しく息をしている。
「テオ、どうしたの。魔術院で何があった」
セレンは箒を放り出し、テオの肩を支えるようにしてしゃがみ込んだ。
「イグニス様が……実験中に、術式を暴走させて……っ」
テオの口から紡がれた言葉に、セレンの全身の血液が凍りつく。
「暴走した魔力が反転して、イグニス様の魂に直接呪いを刻み込んだんです。全身の皮膚がひび割れて、高熱で意識が戻らなくて……」
テオは恐怖に震える手で、セレンの服の袖を強く握りしめた。
「筆頭魔術師様が何人も集まって解呪を試みていますが、まったく歯が立ちません。あれは、魂そのものを削り取る死の呪いです」
「ルシアン様は。婚約者の彼が、傍についているんじゃないの」
セレンの問いに、テオは顔を歪めて首を横に振った。
「あの人は、呪いがうつると言って悲鳴を上げ……屋敷を飛び出していきました。エルフォード家は、公爵家との関わりを断つとすでに使いを出してきたそうです」
イグニスが、一人で死の淵に立たされている。
その事実が、セレンの思考を白く染め上げていく。
誰の言葉にも耳を貸さず、自信に満ちた表情で美しい術式を紡いでいた彼が、一人で苦しんでいる。
「セレンさん、お願いです。あなたのその特殊な魔力なら、少しでも痛みを和らげられるかもしれない。イグニス様を助けてください」
テオの懇願を聞き終えるよりも早く、セレンの体は動いていた。
店主に一言だけ短い謝罪を残し、市場の群衆を縫うようにして駆け出す。
靴底が石畳を強く蹴り、冷たい空気が肺を焼き切るように入り込んでくる。
自分が屋敷を追い出されたことなど、もはやどうでもよかった。
彼に冷たい言葉を投げつけられたことも、不要だと切り捨てられたことも、すべては些末なことだった。
ただ、彼を助けたい。
息が切れ、足の筋肉が悲鳴を上げても、速度を緩めることはできない。
自分の特異な魔力親和性ならば、他者の魔力に深く干渉し、その状態を書き換えることができる。
しかし、暴走した死の呪いを鎮めるためには、己の存在を代償として差し出さなければならない。
命か、それに等しい何かを。
セレンはその結末を理解しながらも、少しの迷いも抱かなかった。
遠くに見える魔術院の塔の影に向かって、ただひたすらに走り続ける。
自分のすべてを失うことになっても構わない。
どうか間に合ってほしいという一つの願いだけを胸に抱き、セレンは崩壊しつつある空の下を駆け抜けていった。




