第3話「色を失った街と遠い空」
王都の東側に広がる下層区。
入り組んだ路地裏にある安宿の一室で、セレンは静かに目を開けた。
隙間風が吹き込む木枠の窓からは、灰色の空が切り取られたように見えている。
薄い毛布から這い出すと、床の冷たさが足の裏から全身へと這い上がってきた。
洗面台の蛇口をひねり、手のひらにすくった冷たい水を顔に叩きつける。
水滴がまつ毛から滴り落ち、冷えた頬を伝って古いシンクへと吸い込まれていく。
鏡に映る自分の顔は、ひどく血の気が引いて青白かった。
ヴォルデリア公爵家を去ってから、すでに半月が経過している。
イグニスの影として生きてきた十年以上の年月が、まるで長い夢だったかのように感じられた。
荷物をまとめる時間はほとんど与えられず、小さな鞄一つで屋敷を追い出された。
行く当てもなく王都をさまよい、ようやく見つけたのがこの薄暗い部屋だった。
セレンは硬いタオルで顔を拭き、簡素な麻の服に袖を通す。
部屋の隅に置かれた小さなテーブルには、昨日買った硬い黒パンが半分だけ残されていた。
それを手にとり、乾いた表面を少しだけかじる。
口の中の水分が奪われ、ざらついた感触だけが舌の上に残った。
味などどうでもよかった。
ただ、生命を維持するための作業として胃に流し込む。
セレンは水差しから直接水をあおり、深く息を吐き出してから部屋を出た。
◆ ◆ ◆
建物の外に出ると、冷たい朝の空気が肺を満たす。
石畳の路地を抜け、活気にあふれた中央市場へと足を向けた。
今のセレンの居場所は、市場の片隅にある小さな薬草店だった。
店主は人の良い初老の男性で、ふらりと現れたセレンの過去を深く詮索することなく裏方の仕事を与えてくれた。
店の裏手にある薄暗い作業場に座り、籠いっぱいに積まれた薬草の葉を仕分けていく。
セレンの指先が植物の表面に触れると、微かな魔力の波長がその生命力を読み取る。
良質なものは右の籠へ、魔力が抜け落ちて枯れかけているものは左の籠へ。
特異な魔力親和性を持つセレンにとって、それは目を閉じていてもできるほど容易な作業だった。
単純な動作の反復は、空っぽになった心をやり過ごすのにちょうどいい。
何も考えず、ただ目の前の葉の色と魔力の波長だけに向き合う。
そうしていれば、胸の奥で燻り続ける痛みを一時だけ忘れることができた。
「セレン、悪いが表の荷受けを手伝ってくれないか」
店主の穏やかな声に呼ばれ、セレンは静かに立ち上がった。
店の前には、近郊の農村から運び込まれた木箱が積み上げられている。
セレンはそれらを抱え上げ、一つずつ店内の棚へと運んでいった。
市場は多くの人々が行き交い、さまざまな声が空気を震わせている。
商人の威勢のいい声、値切り交渉をする主婦の声、荷馬車の車輪が石畳を擦る音。
その中で、ふと耳に飛び込んできた会話があった。
「ヴォルデリア公爵家の次期当主様、いよいよ来月ご婚約の儀を行うらしいぞ」
「相手はエルフォード伯爵家の令息だとか。王都の貴族がこぞって参加する、豪華な儀式になるだろうねえ」
手元にあった薬草の茎が、小さな音を立てて折れた。
セレンは小さく息を吸い込み、折れた茎を店の隅にあるくずかごへと静かに捨てる。
見上げれば、建物の隙間から王都の中心にそびえる高い塔の先端が見えた。
あの冷たい石壁の奥で、イグニスは今も術式の構築に没頭しているのだろうか。
夜遅くまで文献を読み漁り、疲労で目頭を押さえているのではないか。
喉が渇いたとき、誰が彼にお茶を淹れるのだろう。
ルシアンが連れてきたという優秀な世話係は、彼の気難しい沈黙の意味を正しく理解し、彼が求める温度で紅茶を提供できるのだろうか。
不必要な疑問が、泥濘に足を取られるように思考を絡め取っていく。
セレンはぎゅっと目を閉じ、頭を振った。
もう、自分には関係のないことだ。
あの冷たくも美しい工房の情景を脳裏から追い出すように、セレンは再び木箱に手を伸ばす。
指先が微かに震えているのを、誰にも気づかれないように深くうつむきながら。
色を失った街の片隅で、セレンの心臓だけが空虚な音を立てて拍動を続けていた。




