第2話「美しい令息と引き裂かれた糸」
数日後。
工房の重い扉が開く音が、静寂に包まれた空間に響き渡った。
甘く、ひどく人工的な花の香りが冷たい空気に混ざり込む。
セレンは魔力石の調整をしていた手を止め、入り口へと視線を向けた。
そこに立っていたのは、美しい金糸の髪を持つ青年だ。
ルシアン・エルフォード。
上質な絹で仕立てられた華やかな衣装が、薄暗い工房の中で異彩を放っている。
彼の青い瞳は部屋の中をぐるりと見渡し、机に向かっているイグニスの姿を捉えると、甘く媚びるような光を帯びた。
「イグニス様。こんな暗くて埃っぽい場所におられたのですね」
軽やかな足音が、石の床を叩きながらイグニスへと近づいていく。
セレンは無意識のうちに一歩後ずさり、壁の影へと身を隠すように立った。
自分の着ている飾り気のない地味な衣服が、ルシアンの存在によってひどくみすぼらしく感じられる。
「ルシアンか。何用だ」
イグニスは文献から顔を上げず、眉間にしわを寄せる。
しかしルシアンは気にする素振りも見せず、イグニスの座る椅子の背もたれにそっと手を添えた。
「お父様から、婚約の儀の衣装について打ち合わせをするようにと言いつかりまして。お忙しいのは承知しておりますが、少しだけお時間をいただけませんでしょうか」
距離が近い。
ルシアンの細い指が、イグニスの漆黒のローブに触れている。
セレンは胸の奥が冷たく凍りつくような感覚を覚え、視線を床へと落とした。
見たくない。
見せつけられたくない。
「衣装など何でもいい。適当に見繕っておけ」
「まあ、冷たいお言葉。一生に一度の晴れ舞台ですのに」
ルシアンはくすくすと笑いながら、ふと部屋の隅に立つセレンの存在に気づく。
値踏みするような鋭い視線が、上から下までセレンを舐め回した。
「イグニス様、あの方は……」
ルシアンは鼻先でふっと笑い、見下すような視線をセレンに突き刺す。
「ただの世話係だ。気にするな」
イグニスの冷ややかな声が、セレンの胸を鋭い刃で切り裂いた。
呼吸が止まり、肺の中の空気がすべて奪われたような錯覚に陥る。
ただの世話係。
その冷酷な一言が、セレンという存在の価値を無残に決定づけていた。
「ただの世話係、ですか。それにしては随分と長くお仕えしているようですが」
ルシアンはイグニスの肩に寄りかかりながら、甘えるような声を出す。
「私がこちらに参りましたら、専属の世話係はエルフォード家から優秀な者を連れてまいります。ですから、そのような……冴えない者はもう不要でしょう」
ルシアンの言葉が、冷たい石の壁に反響する。
セレンは指先が小刻みに震え出すのを止められなかった。
どうか、否定してほしい。
幼馴染だと言ってほしい。
自分にはセレンが必要なのだと、ほんの少しでもいいから言葉にしてほしい。
懇願するような思いで、セレンはイグニスの横顔を見つめた。
しかし、イグニスはルシアンの提案に何の興味もないというように短くうなずく。
「好きにしろ。もとより、身の回りの雑事をさせるためだけに置いていたにすぎない」
その言葉が、セレンとイグニスを繋いでいた細い糸を無残に断ち切った。
耳の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちるのがわかる。
「よろしいのですか。では、彼には実家へお引き取り願いましょう」
ルシアンが勝ち誇ったような笑みを浮かべ、セレンへと冷酷な視線を向ける。
「聞いた通りです。あなたはもう用済みです。すぐに荷物をまとめて出て行きなさい」
セレンはゆっくりとまばたきをした。
視界がひどくぼやけて、目の前の景色が歪んで見える。
喉の奥から込み上げてくる熱い塊を、痛みをこらえて強引に飲み込む。
すべてが終わったのだ。
自分の役目は、ここで終わった。
天才魔術師の影として生きることも、彼を密かに愛し続けることも、もう許されない。
「……かしこまりました」
ひどくかすれた声が、自分の唇からこぼれ落ちる。
セレンは深く頭を下げた。
床の冷たい石の模様を見つめながら、せめて最後まで彼の負担にならないようにと、必死に取り繕う。
「今まで、ありがとうございました。イグニス様」
その言葉に、イグニスからの返事はなかった。
彼にとってセレンが消えることは、机の上の古びたペンを新しいものに交換する程度の意味しか持たないのだろう。
セレンは顔を上げず、背を向けて立ち去る。
重い扉に向かって歩き出す足取りは、ひどくふらついていた。
一歩進むごとに、心の中に積み上げてきた大切な思い出が足元から崩れていく。
冷え切った指先で真鍮のドアノブを握り、ゆっくりと押し開ける。
工房の外には、見慣れた薄暗い廊下が続いていた。
扉を閉める直前、最後にもう一度だけ振り返る。
イグニスはすでに視線を文献に戻し、ルシアンがその隣で親しげに笑いかけている。
二人の世界に、もはやセレンの入る隙間はない。
重い扉が閉まり、鈍い音とともに鍵が掛かる。
セレンは冷たい壁に背中を預け、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
誰の目もない薄暗い廊下で、ついにせき止められていた涙があふれ出す。
声を殺し、両手で顔を覆いながら、セレンは一人で震え続けた。
彼を失った絶望と、これから続く果てしない孤独。
今はただ、心の奥底で静かに血を流し続けるしかなかった。
これが自分に与えられた結末なのだと、冷たい床の感触だけが教えてくれていた。




