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感情と記憶を失った空っぽの従者なのに、次期公爵のヤンデレ天才魔術師が「永遠に俺のそばにいろ」と狂気の愛で迫ってくる  作者: 月夜 闇花


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第1話「影として寄り添う日々」

登場人物紹介


◇セレン・アークライト

穏やかで献身的な性格の青年。

平凡な家柄だが、他者の魔力に干渉できる特異な魔力親和性を持つ。

幼馴染のイグニスを誰よりも深く愛し、影から支え続けてきた。

のちにイグニスの呪いを肩代わりした代償として、過去の記憶とすべての感情を失い、空っぽの人形のような存在となる。


◇イグニス・ヴォルデリア

類まれなる魔力と才能を持つヴォルデリア公爵家の次期当主。

自信に満ち溢れ、他者を見下す傲慢な性格。

セレンの献身を鬱陶しいと感じて冷たい言葉で突き放すが、自身が死の淵から救われた真実を知り、心臓を素手で握り潰されるような激しい後悔に苛まれる。

すべてを失ったセレンに対し、己の全存在を懸けた狂気的な執着と独占欲を抱くようになる。


◇ルシアン・エルフォード

エルフォード伯爵家の令息。

イグニスの新たな婚約者として選ばれた、美しく華やかな青年。

家柄と外見の良さだけが取り柄であり、イグニスに対して打算的な感情しか抱いていない。

のちにイグニスの執着の対象がセレンに移ったことで、冷酷に婚約を破棄される。

 冷たい石造りの床を、薄い革靴の底が微かな音を立てて擦れる。

 外の光が一切届かない地下深く。

 分厚い壁に囲まれたヴォルデリア公爵家の専用魔術工房は、墓所のように静まり返っている。

 壁面に等間隔で埋め込まれた魔力石が、青白い光を静かに放つ。

 その冷涼な光に照らされながら、セレン・アークライトは息を潜めて部屋の中央を見つめていた。

 そこには、一人の青年が立っている。

 漆黒のローブを身にまとった彼の名は、イグニス・ヴォルデリア。

 ヴォルデリア公爵家の次期当主であり、誰もが認める才気にあふれた魔術師だった。

 空気が微かに震える。

 イグニスの周囲の空間が歪み、虚空から幾何学的な光の紋様が次々と浮かび上がる。

 それらは瞬く間に複雑な術式へと組み上がり、部屋全体を青白い光で満たしていった。

 イグニスの深紅の瞳が、宙を舞う光の軌跡を冷ややかに追う。

 彼の指先がわずかに動くたび、膨大な魔力がうねりを上げて形を変える。

 息を呑むほどに美しい。

 部屋の片隅で待機していたセレンは、その光景から目が離せなかった。

 銀色の髪が、術式の放つ光に照らされて微かに透ける。

 セレンは両手で銀製の盆を抱えたまま、呼吸の音さえ立てないように静止していた。

 イグニスの魔術構築は、繊細なガラス細工を素手で組み上げるような緻密さを要求される。

 少しのノイズも許されない空間で、セレンはただ彼の邪魔にならない影として存在し続けていた。

 やがて、最後の一筆を描き終えるようにイグニスが指を弾く。

 宙に浮いていた光の紋様が一斉に弾け、細かな魔力の粒子となって石の床へと溶けていった。

 工房内に張り詰めていた熱が、ゆっくりと引いていく。


「……終わった」


 低く冷たい声が響いた。

 セレンは小さく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜く。


「お疲れ様でした、イグニス様。お茶を淹れてあります」


 盆の上に置かれたティーカップから、白い湯気が細く立ち昇っている。

 セレンが静かな足取りで近づくと、イグニスは振り返りもせずに革張りの椅子へと腰を下ろした。

 漆黒のローブが衣擦れの音を立てて波打つ。

 イグニスは投げ出されたように背もたれに寄りかかり、長い指で目頭を押さえた。


「置いておけ」

「はい」


 セレンは重厚なマホガニーの机の上に、音を立てないようにカップを置いた。

 イグニスの視線はすでに、机の上に散乱した古い文献へと向けられている。

 幼い頃からずっと、彼にとってセレンがそばにいることは、空気がそこにあるのと同じくらい当たり前のことだった。

 セレンもまた、それでいいと思っていた。

 特別な才能を持たない自分が、天才であるイグニスのそばにいるためには、誰よりも有能な影であり続けるしかない。

 冷めた紅茶を取り替え、散らかった資料を分類し、魔力暴走の兆候があれば自身の特異な魔力親和性でそっと鎮める。

 誰の目にも触れない地下の工房で、二人だけの静かな時間が流れていく。

 それだけで十分だった。


「そういえば」


 文献のページをめくる音が止まる。

 イグニスは視線すら上げず、抑揚のない声で告げた。


「来月、婚約の儀を行うことになった」


 その言葉の意味を理解するのに、セレンは数秒の時間を要した。

 心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように、痛みを伴って大きく跳ねる。

 呼吸が浅くなり、喉の奥がカラカラに渇いていくのを感じた。


「……婚約、ですか」

「ああ。相手はエルフォード伯爵家の令息だ。父上が勝手に決めたことだが、血筋も魔力量も申し分ないらしい」


 イグニスは他人事のように淡々と告げる。

 そこに喜びも照れもなく、ただの業務連絡を読み上げているかのようだった。

 セレンは冷え切った指先を、背中の後ろで強く握りしめる。

 爪が手のひらに食い込む感覚だけが、今ここにある唯一の現実だった。


「おめでとうございます、イグニス様。素晴らしい良縁ですね」


 自分の口から出たとは思えないほど、平坦で穏やかな声だった。

 表情筋が引きつりそうになるのを必死に抑え込み、セレンは静かに微笑む。

 イグニスはセレンの顔を見ようともしなかった。


「くだらない。儀式のための時間が惜しい。あの術式の解明にはまだいくつもの検証が必要だというのに」


 吐き捨てるように言い放ち、イグニスは再び文献へと視線を戻す。

 紙の擦れる音が、静まり返った工房に虚しく響いた。

 セレンは静かに一歩下がり、影の中へと身を溶け込ませる。

 幼い頃から抱き続けてきた密かな熱情は、誰にも知られることなく冷たい石の床へとこぼれ落ちていった。

 どれほど長くそばにいても、どれほど心を砕いて世話を焼いても。

 彼にとって自分は、都合の良い雑務係にすぎない。

 その事実が、鋭い氷となってセレンの胸の奥を冷たく突き刺す。

 それでも、セレンは何も言わなかった。

 ただ深くうつむき、彼を照らす光の邪魔にならないように、息を殺して立ち尽くしていた。


「セレン、次の資料を出せ」

「はい、ただいま」


 呼ばれればすぐに応じ、求められればすべてを差し出す。

 それが、セレンに許された唯一の居場所だった。

 冷たい壁に囲まれたこの空間で、いつか終わりが来るその日まで。

 セレンは自分の心がゆっくりと摩耗していくのを、ただ静かに受け入れていた。

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