第10話「模造品の微笑み」
塔の最上階、磨き上げられた鏡の前に立ち、セレンは自分の顔をじっと見つめていた。
銀色の髪は整えられ、上質な絹の衣服が細い体を包んでいる。
空の青を溶かした瞳の奥には、光を反射するだけの暗闇が広がっていた。
セレンはゆっくりと、顔の筋肉を動かしてみる。
両側の口角をわずかに引き上げ、目元を少しだけ細める。
主人の呼吸が乱れ、苦しそうに顔を歪める回数を減らすための、最も効率的な表情の形。
これは「微笑み」と呼ばれる状態だと、かつて読んだ本に記されていた。
鏡の中の自分は、確かに微笑んでいるように見える。
何度か筋肉の動かし方を確認し、元の平坦な表情へと戻した。
背後で、重い木扉が開く音がする。
鏡越しに、漆黒のローブをまとったイグニスの姿が見えた。
彼の手には、華やかな装飾が施された小さなベルベットの箱が握られている。
「セレン。これを、お前に」
イグニスはセレンの背後に立ち、鏡越しに視線を交わしながら箱を開いた。
中には、銀色に輝く三日月の形をしたブローチが収められていた。
表面には細かな宝石が埋め込まれ、光を浴びて冷たい輝きを放っている。
それはかつて、セレンが王都のショーウィンドウの前で足を止め、いつか手に入れたいと密かに憧れていた品と瓜二つだった。
イグニスはそれを箱から取り出し、わずかに震える指先でセレンの胸元へと留める。
「お前によく似合う。ずっと、渡したかったんだ」
セレンは鏡の前で練習した通りに、顔の筋肉を動かした。
口角を上げ、目を細め、静かに息を吐き出す。
「ありがとうございます、イグニス様。とても嬉しいです」
抑揚を調整し、少しだけ高い音程で紡がれた言葉。
表情と音声が組み合わさった、完璧な模造品だった。
イグニスはその顔を見た瞬間、息を詰まらせて大きく目を見開いた。
歓喜の光が、赤い瞳の奥で弾ける。
彼の手が伸び、愛おしげにセレンの頬を包み込もうとした。
しかし次の瞬間、イグニスの顔色は死人のように青ざめていく。
空中で止まった彼の手が、恐怖に打たれたように小刻みに震え出した。
イグニスは気づいてしまったのだ。
目の前で浮かべられているその微笑みが、かつて自分に向けられていた温かな愛情の顕現ではないことに。
それはただ、主人の望む反応を学習し、顔の筋肉を機械的に操作しただけの、人形の動作でしかなかった。
瞳の奥には何の光もなく、ただ虚無だけが広がっている。
絶望がイグニスの体を物理的な衝撃のように貫き、彼は膝から崩れ落ちそうに体をよろめかせた。
自分が奪い去ったものの大きさと、二度と取り戻せないという残酷な真実。
セレンは表情を崩さないまま、ただ静かにイグニスの瞳を見つめ返していた。
「イグニス様。どうかされましたか」
「……いや。なんでもない」
かすれた声で絞り出し、イグニスは床に這いつくばるのを必死に堪えた。
彼は大きく息を吸い込み、凄絶な後悔を喉の奥へと強引に飲み込む。
そして、狂ったような強さでセレンの細い体を抱きしめた。
「ああ……美しいな、セレン。本当に、美しい」
イグニスは偽物の微笑みに顔を寄せ、その冷たい唇に深く口づけを落とした。
偽物でも構わない。
心が永遠に失われていたとしても、もうどうでもよかった。
こうして自分の腕の中で微笑んでくれるのなら、永遠にこの地獄を這いずり回ることを彼は選んだ。
セレンは主人の行動を受け入れ、何も感じないままそっと目を閉じる。
二人の歪んだ共依存は、逃げ場のない塔の中で静かに完成の時を迎えようとしていた。




