エピローグ「永遠に続く静かな呼吸」
窓の向こうの景色は、あの日から一度も変わっていない。
厚い雲が灰色の空を覆い、時間が完全に凍りついたような静寂だけが塔を包み込んでいた。
外の世界でどれだけの歳月が流れたのか、セレンがそれを知る術はない。
イグニスは自身の魔力回路を外界の時間経過から切り離す禁忌の術式を完成させ、自分たちの肉体が老化する機能を強制的に停止させていた。
すべては、この箱庭の光景を永遠に維持するためだ。
セレンは暖炉の前の長椅子に腰掛け、膝の上で両手を揃えている。
背後にはイグニスが立ち、銀色のブラシを使ってセレンの髪を丁寧に梳いていた。
「……美しい。何度見ても、お前は本当に美しいよ、セレン」
イグニスが、仄暗い熱を帯びた瞳でセレンの銀髪を見つめながら囁く。
彼の声にはかつての焦燥も、心を取り戻してほしいという不毛な足掻きも、すでになかった。
セレンは記憶の奥底から主人が最も喜ぶ反応を検索し、顔の筋肉を機械的に動かす。
両側の口角をわずかに引き上げ、目元を少しだけ細めた。
「ありがとうございます、イグニス様」
声帯を震わせて出力されたその言葉に、感情の波が宿ることは永遠にない。
自分がかつてどれほど深くこの男を愛し、命を懸けて呪いを引き受けたか。
その切実な思いすらも、すべては空っぽの器の底へと消滅している。
ただ、主人が自分を飾り立て、愛の言葉を囁き、見えない鎖で縛り付けることを、セレンは事実として受け入れ続けていた。
イグニスはセレンの隣に腰を下ろし、その細い体を壊れ物を扱うように抱き寄せる。
そして、セレンの右の足首に繋がれた銀の鎖にそっと触れた。
「お前は、私だけのものだ。この塔の扉が開くことは、二度とない」
イグニスは満ち足りたように息を吐き出し、セレンの冷たい唇に深く口づけを落とした。
過去の罪と後悔を永遠に抱き抱えながら、何も望まない人形を愛し続ける。
この冷たくて美しい地獄こそが、彼らが辿り着いた唯一の、そして永遠の平穏だった。
セレンはされるがままに目を閉じ、一定のリズムで呼吸を繰り返す。
暖炉の火が微かな音を立てて爆ぜ、二人の絡み合った影を大理石の床に長く伸ばしていた。
狂気と喪失の上に成り立った箱庭の中で、永遠に続く静かな時間が、今日もただ穏やかに積み重なっていくのだった。




