第16話「暗い至福の泥濘」
いつものようにイグニスがセレンの着替えを手伝い終えた、静かな朝のことだった。
セレンが窓辺の長椅子に腰掛けていると、イグニスがその足元に静かにひざまずいた。
彼の手には、細く精巧な銀の鎖が握られている。
それは王都の宝飾店に並ぶような華やかな装飾品ではなく、確かな魔力を帯びた束縛の魔術具だった。
微かに青白い光を放つ金属の表面には、複雑な術式がびっしりと刻み込まれている。
イグニスはセレンの右の足首にそれを巻きつけ、小さな留め金で慎重に固定した。
冷たい金属の感触が皮膚に密着し、微かな重みが足首に加わる。
「これは、何ですか」
セレンが平坦な声で尋ねると、イグニスは足首に深く口づけを落としてから顔を上げた。
「お前が迷子にならないための、道標だ」
その声には、以前のような後悔や焦燥の響きはなかった。
見上げたイグニスの赤い瞳は、ひどく澄み切っている。
かつての天才魔術師としての傲慢な誇りも、失われたセレンの心を取り戻そうという無意味な足掻きも、そこにはもう存在しなかった。
彼はついに、過去のセレンが二度と戻らないという逃れようのない絶望を、己の魂の底まで飲み込んだのだ。
その上で、ただの空っぽの器となったセレンを、自分のものとして永遠に閉じ込めておくことに暗い至福を見出していた。
「私は、どこにも行きません」
セレンは記憶の引き出しから適切な言葉を探り出し、顔の筋肉を動かして微笑みを作った。
両側の口角を引き上げ、目元を少し細めるだけの、完璧な模造品。
イグニスはその作り物の微笑みを見て、ゆっくりと柔和な笑みを浮かべた。
絶望の底まで沈みきったからこそ辿り着いた、泥濘のように深く、甘く、そして決定的に狂い果てた愛情の形だった。
「ああ、知っている。お前は私だけのものだ。私の手で飾り立て、私の手で生かし続ける、私だけの美しい鳥だ」
イグニスはセレンの膝に顔を乗せ、満ち足りたように深く息を吐き出す。
もはや彼は、セレンからの自発的な愛情など求めてはいなかった。
ただこの空間にセレンが存在し、自分の与えるものをすべて受け入れ、機械的に微笑んでくれればそれでよかった。
痛みを伴う愛憎の葛藤は終わりを告げ、底なしの狂気だけが静かに二人の世界を包み込んでいる。
セレンは足首に繋がれた物理的な鎖の重みと、目に見えない執着の重みを感じながら、ただ静かにまばたきを繰り返していた。
イグニスはこの地獄のような永遠を至上の幸福として受け入れ、セレンはそれを日常のタスクとして処理し続ける。
この冷たい石の塔の中で、二人の狂った世界は誰に邪魔されることもなく、完全に一つの形として完成したのだった。




