第14話「歪んだ共依存の夜」
暖炉の薪が燃え尽き、部屋が深い静寂と青白い月明かりに沈む時間。
セレンは広いベッドの端で、規則正しい呼吸を繰り返していた。
睡眠という生理現象は維持されているものの、そこに夢を見るような脳の活動はない。
ただ休息のために目を閉じ、体の機能を最小限に抑えているだけだ。
ふと、厚い絨毯を踏む微かな足音が近づいてくるのを感知した。
セレンが静かにまばたきをして目を開けると、ベッドの脇にイグニスが立っている。
彼の顔色は月明かりの下で死人のように蒼白く見え、目の下には濃い疲労の影が張り付いている。
魂の呪いを力技で封じ込めている後遺症か、あるいは精神的な重圧によるものか、彼の赤い瞳には凄絶な不眠の痕跡が刻まれていた。
「……セレン、起きているか」
ひどくかすれた声が、暗闇を震わせる。
「はい。何かご用命でしょうか」
セレンが体を起こそうとするより早く、イグニスがベッドの上へと崩れ落ちるように倒れ込んできた。
絹のシーツが擦れる音とともに、マットレスが重みで深く沈み込む。
イグニスはセレンの腰に腕を回し、その腹部に顔を強く押し当ててきた。
彼の体は高熱を出したように熱く、微かに汗の匂いが漂っている。
「眠れない。目を閉じると、お前が黒い灰になって崩れ落ちる情景ばかりが浮かぶんだ」
恐怖で震える声でつぶやきながら、イグニスはさらに腕の力を強める。
かつて王立魔術院で誰もが恐れ、敬った傲慢な天才の面影は、そこには微塵も残っていなかった。
ただ一人の従者の存在にすがりつき、その体温を確かめなければ呼吸すらままならない弱い男の姿だけがある。
セレンは主人の状態を分析し、過去の記憶の残滓から最適な対応行動を導き出した。
かつて書庫の古い医学書で、極度の不安や不眠に対する身体的な鎮静方法を読んだことがある。
セレンはゆっくりと手を伸ばし、イグニスの背中へと乗せた。
そして、一定の速度と適度な圧力で、上から下へと規則正しく撫で始める。
一、二、三。
メトロノームのように正確で、寸分の狂いもないリズム。
感情の伴わない機械的な動作であったが、今のイグニスにとってはそれが唯一の救いだった。
「……あたたかいな。お前の手は」
イグニスが、熱に浮かされたような声でつぶやく。
実際にはセレンの手は氷のように冷え切っていたが、イグニスの錯乱した脳はそれを温かい愛情の証明として変換しているようだった。
やがて、イグニスの強張っていた筋肉が少しずつ弛緩し、浅かった呼吸が深くなっていく。
背中を震わせていた恐怖の波が治まり、重い寝息が部屋に響き始めた。
それでも、セレンの手は止まらない。
主人が完全に深い眠りに落ちるまで、あるいは停止の命令を下すまで、この動作を継続することが今の自分の任務だからだ。
窓から差し込む冷たい光の中、セレンは空っぽの青い瞳を開いたまま、一定のリズムで腕を動かし続ける。
どれほど夜が深くても、心に闇が訪れることはない。
イグニスはこの歪んだ関係性にのみ己の存在価値を見出し、セレンはそれをただの日常のタスクとして処理し続ける。
逃げ場のない狂気の夜は、こうして静かに、そして永遠のように繰り返されていくのだった。




