第12話「指先からこぼれる過去」
塔の下層階に広がる円形の書庫には、床から天井まで届く本棚が壁に沿って隙間なく並んでいる。
古い紙とインクの匂いが漂う中、大きなマホガニーの机に向かってセレンは座っていた。
机の上には、基礎的な魔力操作について記された古い魔道書が広げられている。
背後からイグニスの腕が伸びてきて、机に置かれたセレンの両手を柔らかく包み込んだ。
「魔力回路を、こうして指先に集めるんだ」
イグニスの高い体温が、セレンの冷たい手に重なる。
かつて、幼いセレンが魔術の基礎を学ぶとき、イグニスはよくこうして後ろから手を取って教えてくれた。
それはイグニスにとって、失われた過去をもう一度この手でなぞり直すための、ひどく不毛な足掻きだった。
セレンの特異な魔力親和性は、記憶を失った今でもその体に深く刻み込まれている。
イグニスの誘導に従い、セレンは体内の魔力を指先へと集中させた。
空気が微かに震え、セレンの掌の上に青白い光の球がふわりと浮かび上がる。
「……できたな。美しい光だ」
イグニスが、耳元で吐息のような声をつぶやく。
かつてのセレンなら、ここで柔和な笑みを浮かべ、イグニス様のおかげですと嬉しそうに語りかけたはずだった。
少しだけ誇らしげに目を輝かせ、彼からの賞賛を求めるように顔を上げたに違いない。
しかし、今のセレンは掌の上に浮かび上がった光の球を、感情のない瞳でただ見つめているだけだった。
「魔力の出力、安定しました。指定された現象の再現に成功しています」
事実だけを述べる平坦な声が、書庫の静寂に落ちる。
イグニスはセレンの手を包み込んでいた指先から、ゆっくりと力を抜いた。
彼の顔が激痛に耐えるように歪み、赤い瞳の奥で何かが限界を迎えて決壊する。
熱を帯びた一筋の水分が、彼のまつ毛を濡らして頬へとこぼれ落ちた。
涙はイグニスの顎を伝い、机の上の羊皮紙に落ちて小さな暗い染みを作る。
セレンは掌の上の光の球を消し、ゆっくりと振り返った。
主人の顔から流れ落ちる水分を見て、セレンは静かに手を伸ばす。
親指の腹で、イグニスの頬を濡らす液体をそっと拭い取った。
「眼球から水分が漏れています、イグニス様」
それが悲しみという感情の発露であることを、セレンの脳は理解していない。
ただ、主人の体に生じた物理的な異常を報告し、対処しただけだ。
イグニスは拭われた涙の冷たさに耐えかねるように、セレンの手を両手で強く握りしめた。
同じ手で同じ魔法を使っても、あの頃の温かい時間は二度と戻らない。
教えれば教えるほど、過去のセレンが完全に失われたという事実を突きつけられるだけだった。
「ああ……そうだな。少し、目が疲れたらしい」
イグニスは震える声をごまかすように、セレンの手のひらに顔を押し当てた。
そのまま声なき嗚咽を喉の奥で噛み殺し、肩を震わせて泣き続ける。
天才と呼ばれ、すべてを意のままに操ってきた男が、ただ一人の従者の前で無様に崩れ落ちている。
セレンは主人の涙が自分の手のひらを濡らしていく感覚を、ただの温かい液体の付着として受け入れていた。
どれほど彼が泣き叫ぼうと、セレンの心が共鳴することはない。
永遠に交わることのない平行線の上で、二人はただお互いの体温だけを頼りに寄り添い続けていた。




