碧の日々 その1
──雨は嫌いだ。理由はわからないけど、昔から嫌いだった。"生理的に無理"と云う奴だろうか?とにかく雨が嫌いだ。急に降ってくるのも本当に腹が立つし、オールバックにした髪も湿気で少し浮いてる気がする。折角手に入れたスーツもダメになる。
シャッターが閉まってる店の軒先で雨が止むのを待つ事にした。ため息が出る程うんざりする。
ガラガラガラ…
背にしたシャッターが開き、女の人と目が合った。
「すみません。雨宿り…させてもらってます。」
こんな事を言わされているのも腹が立つ。本当に居心地が悪い。これも雨のせいだ。
「よかったら、入りますか?」
透き通った声をした彼女からそんな提案をされて、俺は一も二もなく飛び付いた。
店内は言うまでも無くガランとしていた。扉の側に"橘"と書かれたネオン看板が置いてあった。
そうか、ここがあの喫茶店だったか。
前に何かで特集されていたのをチラッと見た記憶があった。
「これ、使ってください。」
俺の濡れた肩に気付いて彼女がタオルを渡してくれた。
「…いいんですか?」
「その、風邪とか引いたら大変だし…」
「すみません。ありがとうございます。」
どうやら良い人のようだ。
「コーヒー、飲みますか?」
「そんな、お構い無く…」
「私も飲むので、ついでです。」
「じゃあ…一杯だけ。」
店の雰囲気なのか、彼女が醸し出す空気感なのか、俺は流されていく感覚を心地よく思っていた。
髪を拭いていると、湯が沸く音と煎った豆の香りがしてきた。
「へぇ…豆からですか。」
「はい。そうなんです…」
慣れた手付きで煎った豆をミルに入れて、ガリガリと挽いていく。
「いつもやってるんですか?」
「いえ、普段は店主の姉がやってて…」
「お姉さんの店なんですね?」
「はい。私も手伝いしてて、それで練習がてらコーヒーは煎れるようにしてて…」
「なるほど…そういう事ですか。」
挽いた豆をドリッパーに置かれたフィルターに入れ、お湯を少しずつ注いでいく。普段、自分でやらない行程を見てるのは楽しい。
フィルターを通して少しずつ下に置かれたサーバーへ見覚えのある液体が溜まっていく。
「こうやって煎れるんですね。」
「はい。やってみると案外面白いですよ。」
「へぇ~…」
カウンター席に座り、フィルターから滴る液体をじっと眺める。こういう時間は好きだ。街の慌ただしさみたいなものを忘れられる。
「できました。」
そう言って彼女はカップにコーヒーを注いで俺の前に運んでくれた。
湯気と共にコーヒーの香りが鼻を抜けていく。何となく、"大人"って感じがする。
「じゃあ、いただきます。」
大人な振る舞いとして、ゆっくりとカップを口へ運ぶ。さっきまで鼻から抜けていた大人な香りが口の中で一気に広がり、直後にレモンのような鋭い酸味とオイリーなコクが口の中に纏わりついて…ん?なんだコレ…?
「うえっ…やっぱり不味い…」
指摘するかどうかを含めた感想を考える前に本人が答えを口走り、俺は噎せてしまった。
「ゴホッゴホッ…」
「あの、大丈夫ですか…?」
「す、すいません。つい…」
「いえ、こちらこそ…こんな不味いものをお出ししてしまって…」
申し訳無さそうにする彼女を見て、ひとつ疑問が湧いた。
「もしかしてですけど、確信犯ですか?」
「え?何が?」
「不味いってわかってて、俺に飲ませたんですか?」
「あっ…その、えっと…すみません。」
「いや、謝られても…」
「その…誰かに出した方が、上手くできるかな~…って、思って…」
「中々ロックな事しますね。」
「す、すみません…」
反省しているのか、すっかり意気消沈としていた。
「まぁ、いいですよ。雨宿りとタオルの恩もありますし。」
「ありがとうございます…!」
ふたり分の飲み掛けのコーヒーからは良い香りがしている。
「う~ん…香りは悪くないのになんでだろ…?」
彼女は再びカップに口をつけたり、香りを確かめたりしながら何かを呟いていた。
「素人知識ですけど、焙煎や抽出のタイミングとかで変わるって聞いた事ありますよ?」
「あっ…じゃあ、焙煎しすぎなのかな…?」
「その辺の事はお姉さんが詳しいんじゃないですか?」
「えっと…前に教えてもらった気がしない訳でもないと言うか~…」
「…聞き流したんですね?」
「…はい。すみません。」
「いえっ!こういう試行錯誤って見てて楽しいし…俺で良ければ付き合いますよ!」
「…!本当ですか!?」
「はい。」
「じゃ、じゃあ…その、もう少しだけ…」
「構いませんよ。雨も止みそうに無いし。」
「ありがとうございますっ!」
彼女の笑顔は俺の雨に対する苛立ちを和ませていた事に気付いた。
──雨脚が途絶える所か強まる一方で、庇や雨樋は悲鳴の音を立てていた。もう何杯作ったのか、カウンターにはカップが幾つも置かれていて、雨に反応するかのようにコーヒーの湖面が揺らいでいた。
「…凄い音してますね。」
「古い建物なので、私は仕方ないかなーと思うんですけど、お姉ちゃ…姉は、建材?を買いに行きましたね。」
「だから貴女しか居なかったんですね。」
「そうなんです!」
「それでコーヒー研究かぁ…」
「…あっ!」
「どうしました?」
「申し遅れましたっ!私、橘碧って言います!」
「ぷっ…今更ですか…w」
「だって…なんだかんだタイミングを逃してた事に今気付いたんですもん…!」
「フフッ、そうですね…なんか、自然な流れでコーヒー研究が始まりましたしね。じゃあ俺も…」
俺は気持ち、姿勢を正す。
「『天野力也』と申します。よろしくお願いします。」
「ご丁寧にありがとうございます。」
素人知識を披露したり、あーだこーだと言い合ってた事もあって、改まっているのが照れくさかった。
──天野力也さん。中性的な顔立ちに不釣り合いな頼りがいのありそうな身体…もしかして介護士かな…?だとしたら話が合いそうだけど…
私、橘碧は元介護士。お姉ちゃんが一流企業を辞めてお店を始めたと聞いて、心配で手伝っている内に喫茶店の方が楽しくなって仕事を辞めました。セクハラされる事は減ったのは嬉しいけど、ナンパされる事が増えたのは上手くいかないな~って感じです。
この人は私の目を真っ直ぐ見てくれる。ちょっと照れちゃうくらい。普段のお客さんだったらもう少し視線が下を向いてて、仕方ないなーと思いつつ、ちょっと嫌。男の人ってみんなそうなのかな?
天野さんはビシッとスーツで決めてて…あっ、スーツって事は看護師じゃないか…
うーん…スーツの人にはどんな話をすればいいんだろ…?
コーヒーの研究はちっとも進まない。
お姉ちゃんみたいに何でもできたらいいのに…
珠ちゃんみたいに自分にしかできない事を見付けられたらいいのに…
…私には、何ができるのかな……
「橘さん?もしもーし。」
「あっ…す、すみませんっ!ボーッとしてて…」
「危なく溢れる所でしたよ。」
「ハァ…私、本当にダメで…」
「そうなんですか?」
「姉が…あっ、2人居るんですけど、どっちも凄く格好よくて…私は、そうじゃなくて…」
「姉妹って比べちゃうものなんですか?」
「ふたり共『そんなことないよ!碧が一番だよ!』って言ってくれるんですけど、そんな風には思えなくて…」
「なるほど…」
「天野さんは、そういう事って無いですか?」
「う~ん…目標のような存在は居ますよ。けど、目標は目標です。その通りになれるとは限りませんし、全然違う姿になるかもしれない。だけど、それが"自分"ってものだと思うんですよ。」
「"自分"…ですか?」
「そうです。"自分"には、誰もなれませんから。」
「誰も…なれない…」
「世の中の常識が色んな型に嵌めようとしますけど、自分は自分ですよ。多様性って云うか、生き方って云うか…」
「でも、それって迷惑じゃ…」
「迷惑だと言われたんですか?」
「言われてませんけど…」
「だったら良いじゃないですか。」
「良いのかな…」
「それに、追い続けていれば、いつか答えは出ますよ。」
「追い続ける…?」
「俺自身、そう言われて目が覚めたんです。だから、貴女もきっと。」
「私も、変われるのかな…」
「変われますよ。」
──雨音が少しずつ小さくなっていき、雲の切れ間からは日差しも出始めていた。
「止みそうだな…」
俺は外を伺いつつ呟いた。再び湯が沸いた音とミルの豆を挽く音が雨音を完全に消した。
「…できました。」
恐らく最後となりそうな研究成果が目の前へ運ばれた。香りは悪くない…燻製ナッツのような香り。
…問題は味だ。俺はカップに口をつけた。
それまでのレモンのような鋭い酸味や纏わりつくようなオイリーなコクは無かった。酸味は抑えられて仄かに広がり、キメの細かいサラッとしたコクに、長いけど嫌みの無い後味が余韻として残った。
「飲みやすくて、良いと思いますよ。」
「本当ですか!?やったー!」
碧さんは満面の笑みを浮かべ喜んでいた。俺も一安心と云った風に安堵した。
「これなら何かと一緒に頼みやすいと思いますよ。」
「良かったぁ…本当に、ありがとうございます!」
──雨はすっかり止み、彼女の心を現すように晴れ渡っていた。
「それじゃあ、そろそろ行きますね。」
「あの、天野さん…」
「ん?なんですか?」
「また、来てくれますか?」
「勿論です。次は、お客さんとして来ますよ。」
「ふふっ…ありがとうございますっ!」
喫茶店を後にした俺は大学を目指して歩いた。この辺りに奴が居るはずだ。確か、名前は"ハルナ"だったか…?そんな感じの名前の奴。とにかく、会わねばならない。
簡単な登場人物の紹介
・天野力也…身体が大きい。オールバック。雨が嫌い。




