第7話 元凄腕騎士ルナの過去
秋の涼しい風が吹き始め、読書や二度寝には最高の季節がやってきた。
ウツノ都の一等地にある『賢者の相談所』のリビングで、俺は巨大な黒猫、おはぎを枕代わりにして、ソファで優雅にゴロゴロとしていた。
ルナの作ってくれるご飯は日に日に進化しており、俺の胃袋と怠惰な心は、すでに彼女なしでは一日も生きていけないレベルで飼い慣らされていた。
だが、そんな平和な午後、メイド服姿のルナが、トレイを持ったまま俺の前に深刻な表情で立ち尽くした。
その美しい顔には、いつもの穏やかなメイドの微笑みはなく、かつて最前線で戦っていたという『凄腕の女騎士』としての、悲壮な覚悟が宿っていた。
「お嬢様、そして先生……どうか、私に暇をいただきたく存じます」
「ええっ!? ルナ、急にどうしたというのですか!? 何か不満でもありますの!?」
隣でイチゴのタルトを食べていたエレナお嬢様が、驚いてスプーンを落とした。
エレナはルナの手をぎゅっと握りしめた。
「ルナ、行かないで! わたくし、あなたを単なるメイドではなく、かけがえのない親友だと思っていますわ! あなたを失うなんて、絶対に嫌ですわ!」
エレナの美しい瞳から大粒の涙が溢れ出した。彼女は泣きじゃくりながらルナに懇願する。
俺は内心で、本日最初の大絶叫を上げた。
(はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?!? ちょっと待てルナ! 暇をいただくって、要するに退職するってことか!? お前がいなくなったら、俺のこの全自動お世話ライフはどうなるんだよ! 掃除は? 洗濯は? 何より毎日三食のあの天国のような飯は誰が作るんだよ!?)
パニックで脳内が沸騰しそうだったが、俺の顔面はいつものように凍りついた無表情を維持していた。俺はゆっくりとソファから上半身を起こし、感情を極限まで殺した低音ボイスで問いかけた。
「……ふぅ。何があった」
「先生、お嬢様……申し訳ありません……。実は先ほど、都の近郊に『暴風龍』が飛来しつつあるという確かな情報が入りました」
「暴風龍……! あの、かつて大陸の南半分を一夜にして焦土と化し、一つの国家を滅ぼしたという、伝説の古龍ですか!?」
エレナが顔を真っ青にして立ち上がる。
その横で、ルナはゆっくりと頷き、メイドの掃除用モップではなく、普段はクローゼットの奥に封印していた、自身の身の丈ほどもある重厚な長大な大剣を引き抜いた。
「はい。あの古龍は……かつて私が騎士団の副団長を務めていた頃、多くの仲間たちの命を奪い、私自身にも消えない古傷を負わせた憎き仇なのです。あの龍の目的は都の破壊。このままでは、先生の安らかな生活も、エレナお嬢様の命も、すべて風となって消え去ってしまいます」
ルナの豊かな胸元が、悔しさと怒り、そして悲しみで激しく上下していた。
薄手のメイド服の生地越しでも、彼女の『規格外の巨乳』が大きな意思を持っているかのようにダイナミックに揺れる。
(うおっ、デカっ! いや、悲壮なシーンなのにその大剣を構えたポーズは胸元が強調されすぎて目のやり場に困るわ! ……って、そんなことより古龍だと!? ヤバいじゃん! ここを壊されたら俺の植物ライフが台無しになる!)
「……ルナ、一人で行く気か」
「はい。私の個人的な過去の因縁に、先生やお嬢様を巻き込むわけにはまいりません。あの龍の起こす嵐『テンペスト・ウインド』は、すでに都の外周結界を揺らし、この屋敷にも強い突風を呼び込んでいます。私が外で奴を食い止め、刺し違えてでも討伐いたします。先生、お嬢様……今まで、本当にありがとうございました」
ルナの瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、彼女は深く頭を下げて玄関へと歩き出した。
その背中は、死を覚悟した騎士そのものだった。
(いやいやいや! ちょっと待て! そんな感動的な自己犠牲の退職は認めんぞ! ルナがいなくなったら、今日の夕飯の予定だった『極上デミグラスハンバーグ』がお預けになるじゃないか! 俺のハンバーグを置いてどこへ行く気だ!)
胃袋を人質に取られたような絶望感の中、俺は反射的に声を張った。
「……待て。どこへ行く」
「先生……お止めにならないでください。私は行かねばならないのです」
「お前の行く場所などどうでもいい。……俺が今、最も憂慮している問題がわかるか」
俺はゆっくりと立ち上がり、ルナの前に静かに歩み寄った。
そして、彼女の瞳を冷徹な無表情で見つめ、一切の感情を排した声でこう告げた。
「……もうすぐ夕飯の時間だ。ハンバーグの仕込みはどうする。俺の飯の準備をサボるな」
「え……?」
「お前がいないと、俺の夜の食卓が荒れる。……お前の仕事は、トカゲの相手ではない。キッチンでハンバーグを捏ねることだ」
あまりにも自分勝手でスケールの小さい怠惰な本音。
しかし、俺の「死んだ魚の目」と「絶対的な強者感」を漂わせる低音ボイスのせいで、それはルナの耳にまったく異なる響きとして届いてしまったらしい。
(『暴風龍ごとき、俺にとってはただのトカゲに過ぎない。そんな雑魚のために、俺の愛するお前の手料理の準備を中断するなど、到底許し難いことだ。お前はただ、安全なキッチンで俺の飯を作っていればいい。外のトラブルは、俺が全て片付けてやる』……という意味ですね!?)
ルナの顔がみるみるうちに赤くなり、その瞳に感動の炎が灯った。
「せ、先生……! 私などのために、あの天災とまで称される暴風龍をただの『トカゲ』と切り捨て、私の作る食事の方に価値があると言ってくださるのですね……! おお……何という絶対的なご信頼、深い慈悲……!」
(いや、ただ単に腹が減ってるだけだから! 深読みの角度が急上昇しすぎだろ!)
「ですが先生、あの龍が巻き起こす暴風は、すでにこの屋敷の窓ガラスを激しく揺らし、冷たい突風を室内に侵入させています。このままでは、お料理どころか……」
ヒュー、ヒュー……。
ルナの言う通り、窓の隙間から、冷たくて鋭い突風が室内に吹き込み始めていた。
その風の冷たさと不快な音に、ソファで丸くなっていたおはぎが「ふにゃあ……」と不機嫌そうな声を上げ、寒さを避けるために俺の背後に回り込み、その巨体で俺を押し潰すようにして密着してきた。
(重っ!? おはぎ、寒がるのはいいけど俺の背中に全体重を乗せるな! 息の根が止まるわ! ……それに、この隙間風、普通に足元が冷えてめちゃくちゃ不快だな。こんな突風が吹き荒れていたら、昼寝のクオリティが著しく下がる。……うざい。今すぐこの風をシャットアウトする!)
俺の「寒がり」と「安眠したい」というワガママな怒りが、頂点に達した。
俺はため息をつきながら、窓の外の荒れ狂う空へと視線を向けた。
都の上空では、都の防衛大結界が龍の嵐によってビキビキと不気味なひび割れ音を立て、都の最強騎士団ですら「も、もう持ちこたえられん!」「ブレスが直撃すれば都は一瞬にして消滅するぞ!」と絶望的な叫び声を上げていた。
しかし、俺の頭の中にあるのは、そんな都の危機ではなく、ただただ「足元の寒さ」だけだった。
前職の『王立魔法構築ギルド』時代、俺のデスクは、常に強風が吹き抜ける「風属性の魔導書庫」の真隣にあった。
毎日毎日、冷たい風に吹かれて肩こりと冷え性に悩まされていた俺は、仕事中に快適に居眠りをするため、極秘裏に防風結界を開発した。
名付けて『極小・超指向性・暴風遮断反射結界』。
これは、特定の方向から飛んでくる一定以上の風圧を感知した瞬間、その風のエネルギーを瞬時に圧縮し、来た方向へと寸分狂わず一点に反射して跳ね返すという、寒がりの結界師が居眠りするために作った防風カーテンである。
(これであの不快な隙間風とヒューヒュー音を遮断してやる。……出力調整? そんな面倒な計算はパスだ。古龍の嵐だか何だか知らんが、最大出力で窓の外に張っておけばいいだろ)
俺は無表情のまま、窓枠に向かって手をかざし、指先から魔力を「カチッ」と流し込んで結界を起動した。
「よし、風は止まった。……ルナ、キッチンに戻れ。俺は、寝る」
「は、はい! 直ちにハンバーグの仕込みに戻りますわ!」
ルナは顔を輝かせ、涙を拭ってキッチンへと走っていった。
窓の外を見ると、確かにヒューヒューという不快な隙間風の音は完全に消失し、リビングは静寂を取り戻していた。俺は満足して、再びソファにおはぎと共に倒れ込み、二度寝の深淵へとダイブしたのだった。
だが、俺はこの時、全く理解していなかった。
ギルドの魔導書庫の冷風を防ぐために開発したそのタップ型反射結界が、古龍の最大出力の暴風を跳ね返した場合に、どれほどの質量兵器と化すのかを。
その頃、都の直上。
全身を青白い鱗で覆われた伝説の古龍『暴風龍』は、眼下に見えるウツノ都を滅ぼすべく、喉の奥に莫大な暴風魔力を収束させていた。
龍が大きく顎を開き、都に向けて、国家を一つ消し去るレベルの超極大ブレス『テンペスト・ブレス』を解き放った。
ゴオォォォォォォォォッ!!!
天を割るような轟音と共に、巨大な竜巻を伴った暴風のブレスが都へと降り注ぐ。
しかし、その暴風の直撃コースの延長線上、相談所の窓の外に展開されていた『暴風遮断反射結界』が静かに光を放った。
結界のアルゴリズムが作動する。
風圧を感知。出力「最大」。運動エネルギーを100%凝縮し、一点反射。
次の瞬間、都を消し去るはずだった極大ブレスは、相談所の窓の手前でピタリと制止したかと思うと、一瞬にして一本の「超高圧縮された光の槍」のような暴風の弾丸へと変換され、射出元である暴風龍の脳天に向けて、寸分違わず跳ね返された。
キィィィィィィン……ドォォォォォン!!!
「グ、ギャァァァァァァァァァッ!!???」
自らが放った最大ブレスの運動エネルギーをそのまま脳天に直撃された暴風龍は、何が起きたのか理解できないまま、頭部を激しく強打され、脳震盪を起こした。
龍は悲鳴を上げながら、錐揉み回転して都の郊外の荒野へと真っ逆さまに墜落していった。
ズドォォォォン……!
砂煙が舞い上がり、伝説の古龍は、ただの一度も都に触れることなく、自滅して気絶したのだった。
* * *
翌朝。
俺がスッキリと目覚め、リビングで完璧に仕上がった極上のデミグラスハンバーグを堪能していると、エレナと騎士団が息を切らせて部屋に飛び込んできた。
「先生! 大変ですわ! あの伝説の古龍が、昨日、先生の結界により、郊外に墜落して気絶しているところを捕獲されましたの!」
「捕獲……?」
俺はハンバーグを口に運んだまま、無表情の裏で本日最大級の絶叫を上げた。
(何で伝説の天災が墜落して捕獲されてんだよ!!! トカゲを片付けるってそういう物理的な意味じゃないから!!!)
「先生……」
背後から、出来立てのスープを持ったルナが、涙ぐみながら俺を見つめていた。その規格外の巨乳が感動で震えている。
「先生が古龍を討伐してくださったおかげで、私の仲間たちの無念も晴れました。私は、この命を賭して、先生の食事を作り続けると誓います……!」
「……ふぅ。そうか。お前の料理は美味いからな。……これからも頼むぞ」
俺は極限低音ボイスでそう答えるのが精一杯だった。
こうして、俺がただ「隙間風が冷たい」という目的で動いた結果、伝説の古龍は自滅して都のペット(?)となり、俺の名声はまたしても絶対的なものへと爆上がりしてしまったのだった。




