第6話 部屋の空気を綺麗にしようとしたら、イチゴが民巨大化していた
スローライフにおいて、住環境の快適さは決して妥協してはならない最優先事項である。
超高級住宅『賢者の相談所』を手に入れた俺は、ふかふかのベッドの上で、愛猫のおはぎを抱き枕にしながら、息をするだけの穏やかな日々を送っていた。
しかし、夏の盛りのある朝、俺は微かな不快感によって目を覚ました。
(……なんか、部屋の空気が埃っぽいな。おまけに、おはぎの野獣特有の野生の獣臭が、シーツに染み付いている気がする……)
俺の腕の中で「すぴー……すぴー……」と気持ちよさそうに地響きのような寝息を立てている巨大黒猫を見下ろす。普段はモフモフで可愛いのだが、体長三メートルを超える巨体だ。彼が発する呼吸量と体毛の匂いは、一般的な家庭用猫の比ではない。
おまけに、外は夏の大熱波。換気のために窓を開ければ、せっかく魔法で冷え切った部屋の冷気が逃げ、代わりに蒸し暑い熱風が入り込んでしまう。それは俺の安眠に対する重大な侵略行為であった。
(換気のために動くのは面倒だし、暑いのも絶対に嫌だ。だが、この淀んだ空気のまま二度寝をするのは、安眠の質に関わる。……よし、部屋の空気を全自動で清浄しよう)
俺はベッドの横のサイドテーブルに置かれていた、エレナが観賞用に持ってきてくれた「魔法植物の鉢植え」に目を留めた。
この植物は、周囲の二酸化炭素や雑味を吸い取って、綺麗な酸素と微量の魔力を吐き出す特性を持っている。しかし、手のひらサイズの鉢植えでは、この大部屋の空気を清浄する能力など微々たるものだ。
そこで俺は、前職のブラックギルドの食料生産用魔導温室で働かされていた暗黒時代を思い出した。
当時の俺は、ギルドの狂暴な主任から「おい無能! 明日の朝までに特急ポーション用の魔導薬草を百株、完璧に成長させておけ! できないなら減給だ! 徹夜でバケツを持って魔法栄養液を撒き続けろ!」と理不尽に怒鳴られていた。
深夜の温室で、泥と肥料の悪臭が立ち込める中、眠気と疲労で死にそうになりながら、俺は「どうすればバケツを持たずに朝まで仮眠が取れるか」だけを必死に思考した。その結果、開発したのが『全自動・超植物活性領域魔法』である。植物の魔力吸収ポートと光合成の励起状態を強制的にリンクさせ、周囲のエーテルノイズをすべて栄養素に変換して自動成長させるという、怠け者専用の園芸サボり魔法。これさえ温室の植物に噛ませておけば、俺が温室の隅の肥料袋の上で爆睡している間に、薬草たちは勝手に急速成長して朝には出荷可能な状態になるのだ。
(この鉢植えにあれを噛ませて、24時間体制でマイナスイオンを放出させよう。……出力の調整? そんな細かい計算をするのは面倒だから、とりあえず最大出力でいいや。大は小を兼ねるって言うしな)
俺は寝ぼけた頭で、鉢植えの土に指先から魔力を「カチッ」と流し込み、植物の活性化領域を最大に設定した。
「よし……。これで部屋の空気は常に新鮮だ。おはぎの匂いも消える。……俺は、寝る」
俺は満足して再び敷布を被り、おはぎのフカフカの腹に顔を埋めて、再び深い二度寝の旅へと出発したのだった。
* * *
数時間後。
俺の耳元で「キィキィ」と甲高い声が響き、せっかくの心地よい睡眠が妨げられた。
ゆっくりと目を開けると、俺の枕元で、手のひらサイズの小さな妖精が土下座をして大泣きしていた。背中に半透明の羽を生やし、イチゴのヘタのような赤い帽子を被っている。
(……誰だよこいつ。どうやって入ってきたんだ? あぁ、妖精だから相談所の防犯結界の「悪意判定」に引っかからなかったのか……。妖精って意外と面倒くさいシステムすり抜けてくるから嫌なんだよなぁ)
俺は心底うざったそうにため息をついたが、長年の感情殺しの技術により、表情は冷徹な鉄板のように無表情を保った。
ベッドの脇には、ルナが申し訳なそうに立っている。
「……ふぅ。騒々しいな。こいつはなんだ」
「申し訳ありません、先生。この者は都の郊外で、名産品である魔法イチゴ『トチオトメ』を栽培している妖精開拓団の長です。どうしても先生におすがりしたいと、朝から門の前で泣き崩れておりまして……」
妖精の長は、ボロボロと涙をこぼしながら、必死に小さな手をすり合わせた。
「賢者様! オラたちのトチオトメの畑が、突然の魔力枯渇で枯れ果てかけてるんでさぁ! このままじゃ今年の収穫はゼロ、オラたち妖精は飢え死に、イチゴ産業も崩壊でさぁ! どうか、大地に生命を与えるという先生の奇跡の力で、オラたちの畑を救ってくだせえ!」
「断る。俺は農家ではない。他を当たれ」
俺は即座に首を振り、布団を頭から被った。
他人の畑の面倒を見るなど、面倒くささの極みである。泥だらけになって農作業を手伝うくらいなら、このまま布団の中でカビが生えるまで眠っていたい。
「そんなぁ! お優しく偉大な賢者様と聞いていたのに……!」
妖精の長が絶望の声を上げる。
すると、俺の反対側のシーツがモゾモゾと動き、金髪の縦ロールがひょっこりと顔を出した。
エレナお嬢様だ。なぜか彼女は、ここ最近、朝になると当然のように俺のベッドに侵入して添い寝をキメている。ルナもそれを「お嬢様、お目覚めですか」と普通にスルーして紅茶の準備を進めており、この屋敷の倫理観がどうなっているのか、俺には理解できない。
(何で領主の娘が他人のベッドに入り込んで寝てるんだよ! ルナもルナで何でそれを普通にスルーして優雅にティーカップを温めてるんだ! 誰かこの相談所に最低限のコンプライアンスと防犯指導を導入しろ!)
「先生……! わたくし、甘くて美味しいトチオトメのタルトが食べたいですわ。畑が枯れてしまったら、わたくし悲しくてお食事が喉を通りません……」
エレナは潤んだ瞳で俺を見つめながら、その『規格外の巨乳』を俺の右腕にギュッと押し付けてきた。
寝起きの脳に、柔らかい極上の感触と甘い香りがダイレクトに突き刺さる。
(だ、だから密着するなって! お前のおねだりは物理的な圧迫感が強すぎるんだよ! 腕が完全に胸の谷間に埋もれてて抜けないだろ! ……でも、もしエレナの機嫌が悪くなったら、この快適な相談所を追い出されてしまう可能性があるな。せめて、対応したフリだけでもするか)
小心者な俺は、パトロンの不興を買うことを恐れ、しぶしぶ布団から顔を出した。
「……ふぅ。他人の畑に干渉するつもりはない。……俺は、自分の部屋を整えるだけだ」
「おお……! 『自分の部屋を整える』という謎めいたお言葉……! やはり、先生にはすべてが見えているのですね!」
「ルナ、妖精を連れて下がれ」
「わかりました、先生」
ルナは言い、妖精の長を連れて部屋を出て行った。
俺はただ、面倒な厄介払いをしただけだった。
だが、俺が自分の部屋の空気清浄のために発動した『全自動・超植物活性領域魔法』の出力を「最大」のまま放置していたことが、とんでもない事態を引き起こしていた。
相談所の植物にかけられた強力な活性化魔力は、部屋の壁を突き抜け、相談所の庭を通り、地中の根を通じて、すぐ隣の地区に広がるトチオトメの農園全体へと伝わっていたのだ。
地中を走る魔力は、枯れかけ、魔力が不足していたイチゴの根を瞬時に活性化させ、まるで濁流のように生命エネルギーを注ぎ込んだ。
その結果、翌朝。
「な、な、なんじゃこりゃあぁぁぁぁぁぁっ!!!???」
都の郊外の農園から、妖精たちと都の役人たちの絶叫が響き渡った。
枯れ果てかけていたはずのイチゴ畑は見事に大復活を遂げていたが、その復活の仕方が完全に常軌を逸していた。
畑に実っていたのは、通常のイチゴではない。
一軒の民家ほどの大さがある、真っ赤に熟れた超巨大イチゴ『トチオトメ』が、畑一面にゴロゴロと実っていたのである。
その圧倒的な存在感は、もはやイチゴの畑というよりは、真っ赤な巨石の神殿群のようだった。
しかも、その巨大イチゴから漂う香りは信じられないほど甘く、一口かじるだけで体内の魔力が全回復するほどの超高純度エネルギーが満ち満ちていた。
「先生……! 信じられませんわ!」
エレナとルナが興奮した様子で部屋に飛び込んできた。
「先生の魔法がトチオトメの畑を救うだけでなく、超巨大イチゴへと進化させてしまいましたの! これ一つで、都の民全員が満腹になるほどの特大タルトが作れますわ!」
「しかも、あの巨大イチゴは魔力の結晶そのもの。中央の高級ギルドへ売却すれば、都に数年分の国家予算に匹敵する富がもたらされます! 先生、あなたはまたしても都を救われたのです!」
ルナは感動のあまり膝をつき、エレナは俺の手を握って瞳を輝かせている。
「……は?」
俺は無表情の仮面の裏で、本日最大級の絶叫を上げた。
(何で隣のイチゴが家サイズになってんの!? 品種改良なんて知らんわ! これ絶対また目立つやつじゃん! ブラックギルドの元上司に見つかったらどうすんだよ!)
だが、そんな俺の内心のパニックなど露知らず、妖精の長が窓の外から、巨大なトチオトメを台車に載せて運んできた。
さらに、都の食堂では早くも「巨大イチゴを餃子の皮で包んだ、謎の新名物『トチオトメ餃子』」なる奇妙な料理が試作され始め、市民たちがお祭り騒ぎになっているという。餃子の皮で民家サイズのイチゴを包めるわけがなく、皮が粉々に張り裂けているマヌケな試作品を食べた冒険者たちが「甘っ!」「しかし魔力がみなぎるぞ!」と叫んでいるカオスな有様だった。
「賢者様! 約束通り、一生分のトチオトメを献上しますだぁ!」
窓から見えるのは、相談所の庭を埋め尽くさんとする、民家サイズの真っ赤な巨大イチゴの山。
「……ふぅ。そうか。ルナ、それを適当に処理しておけ。……俺は、寝る」
「はい、先生! 直ちに特大のイチゴタルトを準備させます!」
俺はシーツに潜り込み、おはぎの腹に顔を埋めながら、涙目で思った。
(誰がこんなデカいイチゴ食べるんだよ……。庭がイチゴの香りで充満して、これじゃ逆に甘ったるくて眠れねえよ……!)
俺が「おはぎの消臭」という目的で動いた結果、ウツノ都の農業は世界最強へと進化し、俺の名声はさらに絶対的なものへと跳ね上がってしまったのだった。




