第九話 百鬼の夜に
六月になると、都は蒸した。
陰陽寮の仕事は減らない。むしろ夏は増える。疫病の季節だからだ。どの方角が穢れているか、いつ祓いをすべきか、井戸の水はいつから使ってはならないか。そういった依頼が、連日持ち込まれた。
晴明は今日も受付の当番だった。
午後になると、依頼が一段落した。実方は貴族の屋敷へ出向き、保憲は文机で記録をまとめている。忠行は奥の部屋で、何かを調べていた。
晴明は縁側に出て、空を見た。
入道雲が遠くに立っている。夕立が来るかもしれない。
「晴明」
忠行の声がした。
「はい」
「こちらへ来い」
奥の部屋に入ると、忠行は古い巻物を広げていた。かなり年季の入ったもので、墨が薄れているところもある。
「これを読んだことがあるか」
晴明は巻物を覗き込んだ。
百鬼夜行に関する記録だった。
どの季節に現れやすいか、どの方角から来るか、遭遇した場合の対処法。陰陽寮に代々伝わる記録らしく、いくつもの手による書き込みが重なっていた。
「読んだことはございません」
「そうか」
忠行は巻物をゆっくりと巻き直した。
「おまえは、百鬼夜行を見たことがあるか」
「……ございません」
忠行は少し間を置いた。
「一度だけ、おまえと共に見たことがある」
晴明は顔を上げた。
「私が、ですか」
「おまえが幼い頃だ。まだ賀茂家へ来て間もない頃」
晴明には記憶がなかった。賀茂家へ来た頃のことは、断片的にしか覚えていない。母のいない家から連れてこられて、何もかもが新しくて、毎晩星を見ながら眠れなかった頃のことを。
「話してもらえますか」
忠行は縁側の方を見た。
「内裏からの帰り道だった。夜が更けていた。おまえを牛車の外に乗せて帰っていた」
「外に、ですか」
「車の中は書物で埋まっていた。おまえが外がいいと言い張った」
晴明は少し笑いそうになった。子供の頃の自分が、そう言い張る姿が容易に想像できた。
「私は、外で何を」
「眠っていた。ところが途中で、おまえが車の中の私を揺り起こした」
「何と言って」
忠行は静かに言った。
「師よ、変なものが来ます、と」
晴明は黙った。
「私が外を見ると、大路の向こうから、百鬼が来ていた。数え切れぬほどの異形が、音もなく、列をなして歩いてくる」
百鬼夜行。
深夜に都の大路を練り歩く、あらゆる怪異の行列。人がその列に遭遇すれば、取り込まれるか、狂うか、死ぬか。
「私はすぐに車を止め、御簾を下ろし、息を殺した。供の者たちも同様にした。百鬼の列は、私たちの横を通り過ぎていった」
「無事だったのですか」
「無事だった」
忠行は晴明を見た。
「おまえが、気づいたからだ」
晴明は言葉が出なかった。
「あのとき、供の者は誰も気づいていなかった。私も、車の中で書物を読んでいて、気配を見逃していた。だが、外に乗っていたおまえだけが、見えた」
「……私には、記憶がありません」
「幼かったからな。だが、私は覚えている」
忠行は巻物を文机に置いた。
「あの夜、おまえが何と言ったか、もう一つ覚えているか」
晴明は首を振った。
「変なものが来ます、と言った後、おまえはこう言った」
忠行は少し間を置いた。
「師よ、あの中に悲しそうなものがいます、と」
部屋が静かになった。
遠くで雷が鳴った。夕立が近い。
「百鬼夜行の中に、悲しそうなものが見えた、と」
「ああ」
「私にはわからなかった。ただ恐ろしい異形の群れにしか見えなかった。だがおまえには、その中の一つ一つが、何かを抱えているように見えた」
晴明は縁側の外を見た。
入道雲が、少し大きくなっていた。
「それから、おまえを側に置くことにした」
忠行は静かに言った。感情のない声だった。だがその声の底に、何かがあることを、晴明は今なら感じ取れた。
「師は、私を弟子にしたのは、その夜のことがあったからですか」
「一つの理由だ」
「他には」
忠行はわずかに目を細めた。
「見えすぎる者は、一人にしておくと危ない」
それは叱責なのか、心配なのか、晴明には判断できなかった。
おそらく、両方だった。
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夕立は夕方に来た。
激しい雨が陰陽寮の屋根を叩き、庭の砂を抉った。実方が濡れながら駆け込んできて、保憲に苦笑された。
雨の中、晴明は縁側に座って外を見ていた。
百鬼夜行。
自分が幼い頃に見て、覚えていない光景。その中に、悲しそうなものがいた。
今昔物語に、その話が残ると保憲が教えてくれたのは随分前のことだ。都の人々の間で、晴明にまつわる話として語られているらしい。晴明自身は、覚えていないのに。
「何を考えている」
保憲が隣に座った。
「百鬼夜行の中に、悲しそうなものがいた、と言ったそうです。私が幼い頃に」
「父上から聞いたか」
「はい」
保憲は雨を見た。
「覚えていないのか」
「全く」
「だが、今のおまえも似たようなことをするな」
晴明は保憲を見た。
「朱雀門の女に、忘れないと言った。霞の中の名もないものに、覚えていると言った。山城の男の腕の印を返した。羅城門の腕が触れるのを待った」
保憲は続けた。
「おまえは幼い頃から、怪異の中に悲しみを見る。それは変わっていない」
「それは、良いことですか」
保憲はしばらく黙った。
「良いかどうかは知らぬ」
それから、少し間を置いて言った。
「だが、おまえが見えないものを見るから、私たちの届かないところへ届く。父上がおまえを側に置くのは、そういうことだ」
雨が、少し弱くなった。
庭の梅が、雨に濡れて光っている。
あの冬、一輪だけ咲いた梅のことを、晴明は思い出した。道真公の念に触れて咲いた、夜の白い花を。
「兄上」
「何だ」
「百鬼夜行は、また来ますか」
「来るだろうな。毎年、夏から秋にかけて」
「今度は、逃げないでいられますか」
保憲が晴明を見た。
「逃げない、とはどういうことだ」
「あの中に、悲しそうなものがいるなら」
「……馬鹿なことを言うな」
保憲は呆れた顔をした。
「百鬼夜行に向かっていくつもりか」
「そういうわけでは」
「ではどういうわけだ」
晴明は少し考えた。
「せめて、見ていたいと思います。逃げながらでも、御簾の隙間からでも。見えないふりはしたくない」
保憲は長い間、晴明を見ていた。
それから、溜息をついた。
「……父上が、見えすぎる者を一人にしておくと危ないと言った理由が、よくわかる」
「すみません」
「謝るな」
保憲は立ち上がり、部屋の中へ戻りながら言った。
「その話、父上にするなよ。また試されるぞ」
晴明は笑った。
雨が上がり始めていた。
雲の切れ間から、夕暮れの光が差し込んでくる。
百鬼夜行は、夜の闇の中に来る。
だが晴明には、もうその中に何があるか、少しだけわかる気がした。
悲しみを抱えたものが、列をなして歩いている。
それは怖ろしいことだ。
だが、目をそらさずにいたかった。
灯明が、一つずつ、陰陽寮に灯り始めた。
都の夜が、また来る。




