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陰陽寮異聞  作者: はまゆう


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8/12

第八話 左大臣の卜(うらない)

春の終わりに、陰陽寮へ勅使が来た。


晴明は暦の写しを整理していたところだった。勅使が門をくぐってくるのを見て、実方が素早く立ち上がり、晴明の袖を引いた。


「忠行様を呼べ。急いで」


「何事だ」


「勅使だぞ。帝からの使いだ。下っ端が対応できるものじゃない」


実方の顔が、珍しく緊張していた。晴明は立ち上がり、忠行の部屋へ走った。


忠行はすでに気配で知っていたのか、衣を整えて部屋を出るところだった。


勅使は若い公達で、緊張した面持ちで文を差し出した。


「陰陽頭・賀茂忠行殿に、帝よりご下問がございます」


忠行は文を受け取り、開いた。


晴明は少し離れたところから見ていた。師の顔が、文を読む間、わずかに変わった。変わった、というより、固まった。感情を消した、というべきか。


勅使が帰ると、忠行は保憲を呼んだ。


晴明には声がかからなかった。


だが夕方、保憲が晴明のそばに来て、静かに言った。


「左大臣家のことは知っているか」


「藤原仲平様でございますか」


「ああ。帝が、左大臣の体の吉凶を占えとおっしゃっている」


晴明は少し考えた。


「左大臣が、病でいらっしゃるのですか」


「表向きはそういうことになっている」


保憲の声に、含みがあった。


「表向きは、とは」


保憲はしばらく黙ってから言った。


「左大臣は病ではないかもしれぬ。だが、体の吉凶を占えということは……帝は、左大臣がいつ倒れるかを知りたいのかもしれぬ」


晴明は息を止めた。


いつ倒れるか。


それは、いつ政治の表舞台から退くかということだ。左大臣が倒れれば、その座をめぐって動く者が出る。帝はその動きを、事前に知りたい。


「陰陽師が、政争の道具に使われるということですか」


「昔からそうだ」


保憲は淡々と言った。


「暦を作る。吉日を選ぶ。人の吉凶を占う。それはすべて、政に直結する。陰陽寮が国家機関である以上、政から切り離すことはできぬ」


「ならば、父上は」


「どう答えるか、ということだ」


---


忠行が答えを出したのは、三日後だった。


その三日間、忠行は誰とも口をきかず、部屋に籠もって何かを考え続けた。食事も碌に取らなかった。保憲だけが時折部屋に入ったが、何を話しているかは誰にもわからなかった。


晴明は暦の仕事を続けながら、待った。


四日目の朝、忠行が部屋から出てきた。顔色は悪かったが、目は澄んでいた。


「晴明」


「はい」


「左大臣家へ行く。来い」


保憲が眉を上げた。


「晴明を連れていくのですか」


「見せておきたい」


それだけ言って、忠行は歩き始めた。


---


左大臣・藤原仲平の邸は、都の中でも指折りの広さだった。


門をくぐると、庭の手入れが行き届いているのがわかった。権力のある者の邸は、庭が雄弁だと晴明は思った。手入れの良さは、余裕の表れだ。


だが、邸の奥へ進むにつれ、空気が変わった。


重くなる、というより、淀んでいた。


晴明には感じられた。人の念が、長く溜まった場所の淀みが。病人のいる部屋に近い気配だが、それだけではない。疑いや、不安や、恐れが、壁に染み込んでいるような。


左大臣は、寝所に臥せっていた。


六十がらみで、かつては恰幅が良かったのだろうが、今は痩せていた。だが目だけは鋭く、忠行を見る眼光に衰えはなかった。


「賀茂忠行か」


「はい」


「帝のご下問の答えを持ってきたか」


「はい」


仲平は枕から少し身を起こした。


「聞かせろ」


忠行は静かに言った。


「左大臣殿のお体に、病はありません」


仲平の目が細くなった。


「ほう」


「ただ、念が溜まっております」


「念、とは」


「ご自身の念です。何かを、強く恐れておいでです。その恐れが、体を蝕んでいる」


部屋が静まり返った。


側近の者たちが、互いに顔を見合わせた。


仲平はしばらく忠行を見ていた。それから、低く笑った。


「正直な陰陽師だな」


「占いに嘘をつけば、それは占いではなくなります」


「帝には、何と伝える」


「左大臣殿のお体の吉凶を占った。病ではなく、念によるものと診た。それだけを申し上げます」


仲平は天井を見た。


「それだけを、か」


「それだけです」


「いつ倒れるか、は言わぬのか」


「わかりません」と忠行は言った。「星は人の寿命を示しますが、いつ、とまでは示しません。示せると言う者がいれば、それは偽りです」


仲平はしばらく黙っていた。


それから、ゆっくりと言った。


「わしは、失脚を恐れておる」


誰も何も言わなかった。


「長く左大臣の座にいた。だが、周囲は変わる。帝のお気持ちも変わる。いつ足元を掬われるかと思えば、夜も眠れぬ」


「それが、体を蝕んでいます」


「わかっておる」仲平は苦く笑った。「わかっておっても、止められぬのだ」


忠行は少し考えてから言った。


「一つだけ、申し上げてよいですか」


「言え」


「星を長く見ておりますと、天の理というものがわかってきます。盛んなものは必ず衰え、衰えたものは必ず変わる。それは人の力でどうにもなるものではありません」


「だから、恐れるなと言うのか」


「恐れることを止めろとは申しません」と忠行は言った。「ただ、恐れに体を渡してしまうのは、惜しいと思います」


仲平は目を閉じた。


長い沈黙があった。


「……忠行」


「はい」


「おまえは、正直すぎて出世しないだろうな」


忠行はわずかに、目を細めた。


「そう言われ慣れております」


仲平は小さく笑った。その笑いは、さっきより少し軽かった。


---


帰り道、晴明は忠行の隣を歩いた。


しばらく黙って歩いてから、晴明は聞いた。


「師は、帝のご下問に、正直に答えるとわかっていて、私を連れていったのですか」


「ああ」


「なぜですか」


忠行は前を見たまま答えた。


「陰陽師が政に使われる場面を、見せたかった」


「はい」


「そして、そこでどう振る舞うかも」


晴明は考えた。


忠行は、政争の道具になることを拒んだ。だが、帝のご下問を無視したわけでもない。ただ、占いとして正直なことだけを答えた。


「難しい道ですね」


「難しい」と忠行は頷いた。「陰陽師は国家の機関だ。帝に仕える。だが占いに嘘をつけば、陰陽道そのものが腐る。その間で、常に立ち続けなければならぬ」


「師は、いつもそうしてきたのですか」


忠行はしばらく黙った。


「いつも、うまくいったわけではない」


その言葉の奥に、何かがあった。晴明は聞きたかったが、聞けなかった。


師が話したいときに、話してくれる。


それまでは、歩き続けるだけだ。


陰陽寮の門が見えてきた。


実方が門の前で待っていた。


「遅かったな。何かあったか」


「色々と」


「左大臣家はどうだった」


「大きな邸だった」


実方は呆れた顔をした。


「そんなことを聞いているんじゃない」


保憲が後ろから来て、実方の肩を叩いた。


「詳しくは後で話す。今日は疲れた」


実方は保憲と忠行の顔を交互に見て、それ以上聞くのをやめた。空気を読む男だった。


夕暮れが、陰陽寮の屋根を染めていた。


晴明は門をくぐりながら、仲平の顔を思い出した。


恐れを止められない、と言った顔を。


怪異も、人も、抱えているものは似ている、と晴明は思った。


消えないものを、どう持ち続けるか。


それだけが、問いなのかもしれない。


灯明が、一つずつ、陰陽寮の中に灯り始めた。


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