第八話 左大臣の卜(うらない)
春の終わりに、陰陽寮へ勅使が来た。
晴明は暦の写しを整理していたところだった。勅使が門をくぐってくるのを見て、実方が素早く立ち上がり、晴明の袖を引いた。
「忠行様を呼べ。急いで」
「何事だ」
「勅使だぞ。帝からの使いだ。下っ端が対応できるものじゃない」
実方の顔が、珍しく緊張していた。晴明は立ち上がり、忠行の部屋へ走った。
忠行はすでに気配で知っていたのか、衣を整えて部屋を出るところだった。
勅使は若い公達で、緊張した面持ちで文を差し出した。
「陰陽頭・賀茂忠行殿に、帝よりご下問がございます」
忠行は文を受け取り、開いた。
晴明は少し離れたところから見ていた。師の顔が、文を読む間、わずかに変わった。変わった、というより、固まった。感情を消した、というべきか。
勅使が帰ると、忠行は保憲を呼んだ。
晴明には声がかからなかった。
だが夕方、保憲が晴明のそばに来て、静かに言った。
「左大臣家のことは知っているか」
「藤原仲平様でございますか」
「ああ。帝が、左大臣の体の吉凶を占えとおっしゃっている」
晴明は少し考えた。
「左大臣が、病でいらっしゃるのですか」
「表向きはそういうことになっている」
保憲の声に、含みがあった。
「表向きは、とは」
保憲はしばらく黙ってから言った。
「左大臣は病ではないかもしれぬ。だが、体の吉凶を占えということは……帝は、左大臣がいつ倒れるかを知りたいのかもしれぬ」
晴明は息を止めた。
いつ倒れるか。
それは、いつ政治の表舞台から退くかということだ。左大臣が倒れれば、その座をめぐって動く者が出る。帝はその動きを、事前に知りたい。
「陰陽師が、政争の道具に使われるということですか」
「昔からそうだ」
保憲は淡々と言った。
「暦を作る。吉日を選ぶ。人の吉凶を占う。それはすべて、政に直結する。陰陽寮が国家機関である以上、政から切り離すことはできぬ」
「ならば、父上は」
「どう答えるか、ということだ」
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忠行が答えを出したのは、三日後だった。
その三日間、忠行は誰とも口をきかず、部屋に籠もって何かを考え続けた。食事も碌に取らなかった。保憲だけが時折部屋に入ったが、何を話しているかは誰にもわからなかった。
晴明は暦の仕事を続けながら、待った。
四日目の朝、忠行が部屋から出てきた。顔色は悪かったが、目は澄んでいた。
「晴明」
「はい」
「左大臣家へ行く。来い」
保憲が眉を上げた。
「晴明を連れていくのですか」
「見せておきたい」
それだけ言って、忠行は歩き始めた。
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左大臣・藤原仲平の邸は、都の中でも指折りの広さだった。
門をくぐると、庭の手入れが行き届いているのがわかった。権力のある者の邸は、庭が雄弁だと晴明は思った。手入れの良さは、余裕の表れだ。
だが、邸の奥へ進むにつれ、空気が変わった。
重くなる、というより、淀んでいた。
晴明には感じられた。人の念が、長く溜まった場所の淀みが。病人のいる部屋に近い気配だが、それだけではない。疑いや、不安や、恐れが、壁に染み込んでいるような。
左大臣は、寝所に臥せっていた。
六十がらみで、かつては恰幅が良かったのだろうが、今は痩せていた。だが目だけは鋭く、忠行を見る眼光に衰えはなかった。
「賀茂忠行か」
「はい」
「帝のご下問の答えを持ってきたか」
「はい」
仲平は枕から少し身を起こした。
「聞かせろ」
忠行は静かに言った。
「左大臣殿のお体に、病はありません」
仲平の目が細くなった。
「ほう」
「ただ、念が溜まっております」
「念、とは」
「ご自身の念です。何かを、強く恐れておいでです。その恐れが、体を蝕んでいる」
部屋が静まり返った。
側近の者たちが、互いに顔を見合わせた。
仲平はしばらく忠行を見ていた。それから、低く笑った。
「正直な陰陽師だな」
「占いに嘘をつけば、それは占いではなくなります」
「帝には、何と伝える」
「左大臣殿のお体の吉凶を占った。病ではなく、念によるものと診た。それだけを申し上げます」
仲平は天井を見た。
「それだけを、か」
「それだけです」
「いつ倒れるか、は言わぬのか」
「わかりません」と忠行は言った。「星は人の寿命を示しますが、いつ、とまでは示しません。示せると言う者がいれば、それは偽りです」
仲平はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと言った。
「わしは、失脚を恐れておる」
誰も何も言わなかった。
「長く左大臣の座にいた。だが、周囲は変わる。帝のお気持ちも変わる。いつ足元を掬われるかと思えば、夜も眠れぬ」
「それが、体を蝕んでいます」
「わかっておる」仲平は苦く笑った。「わかっておっても、止められぬのだ」
忠行は少し考えてから言った。
「一つだけ、申し上げてよいですか」
「言え」
「星を長く見ておりますと、天の理というものがわかってきます。盛んなものは必ず衰え、衰えたものは必ず変わる。それは人の力でどうにもなるものではありません」
「だから、恐れるなと言うのか」
「恐れることを止めろとは申しません」と忠行は言った。「ただ、恐れに体を渡してしまうのは、惜しいと思います」
仲平は目を閉じた。
長い沈黙があった。
「……忠行」
「はい」
「おまえは、正直すぎて出世しないだろうな」
忠行はわずかに、目を細めた。
「そう言われ慣れております」
仲平は小さく笑った。その笑いは、さっきより少し軽かった。
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帰り道、晴明は忠行の隣を歩いた。
しばらく黙って歩いてから、晴明は聞いた。
「師は、帝のご下問に、正直に答えるとわかっていて、私を連れていったのですか」
「ああ」
「なぜですか」
忠行は前を見たまま答えた。
「陰陽師が政に使われる場面を、見せたかった」
「はい」
「そして、そこでどう振る舞うかも」
晴明は考えた。
忠行は、政争の道具になることを拒んだ。だが、帝のご下問を無視したわけでもない。ただ、占いとして正直なことだけを答えた。
「難しい道ですね」
「難しい」と忠行は頷いた。「陰陽師は国家の機関だ。帝に仕える。だが占いに嘘をつけば、陰陽道そのものが腐る。その間で、常に立ち続けなければならぬ」
「師は、いつもそうしてきたのですか」
忠行はしばらく黙った。
「いつも、うまくいったわけではない」
その言葉の奥に、何かがあった。晴明は聞きたかったが、聞けなかった。
師が話したいときに、話してくれる。
それまでは、歩き続けるだけだ。
陰陽寮の門が見えてきた。
実方が門の前で待っていた。
「遅かったな。何かあったか」
「色々と」
「左大臣家はどうだった」
「大きな邸だった」
実方は呆れた顔をした。
「そんなことを聞いているんじゃない」
保憲が後ろから来て、実方の肩を叩いた。
「詳しくは後で話す。今日は疲れた」
実方は保憲と忠行の顔を交互に見て、それ以上聞くのをやめた。空気を読む男だった。
夕暮れが、陰陽寮の屋根を染めていた。
晴明は門をくぐりながら、仲平の顔を思い出した。
恐れを止められない、と言った顔を。
怪異も、人も、抱えているものは似ている、と晴明は思った。
消えないものを、どう持ち続けるか。
それだけが、問いなのかもしれない。
灯明が、一つずつ、陰陽寮の中に灯り始めた。




