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陰陽寮異聞  作者: はまゆう


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第七話 鬼の腕

陰陽寮に、奇妙な依頼が持ち込まれたのは、春の初めのことだった。


依頼人は、近衛府の武官だった。名を源融実(みなもとのとおざね)といい、三十がらみの、いかにも武人らしい体格の男だった。だが陰陽寮の門をくぐってきたその顔は、青ざめ、目が落ち窪んでいた。


晴明は受付の当番だった。


陰陽寮では、持ち込まれる依頼をまず下の者が聞き、忠行か保憲に取り次ぐかどうかを判断する。その役が今日は晴明に回ってきていた。実方は「貧乏くじだな」と笑ったが、晴明は嫌いではなかった。依頼を持ち込む者の顔を、直接見られるから。


「何用でしょうか」


融実は晴明を見て、一瞬怪訝な顔をした。若すぎる、と思ったのだろう。だが、他に人がいなかったので、仕方なく話し始めた。


「……腕が、痛むのです」


「どちらの腕ですか」


「右腕です。一月ほど前から、夜になると疼く。医師に診せたが、どこも悪くないと言われました。ですが痛みは引かない」


「夜だけですか」


「決まって、夜の四つ(午後十時)を過ぎた頃から。朝になると嘘のように消える」


晴明は融実の右腕を見た。


袖の下に隠れている。だが、その袖のあたりに、わずかに気配があった。


「見せていただいてもよいですか」


融実は少し躊躇ってから、袖をまくった。


腕には、何もなかった。傷も、腫れも、変色もない。だが晴明には見えた。腕の表面に、薄く、何かが張り付いている。爪の跡のような、細い線が、いくつも。


「一月前、何かありましたか」


融実は黙った。


「何でもないことでも構いません」


融실はしばらく迷ってから、言った。


「羅城門の近くを通りました。夜に」


晴明は顔を上げた。


「お一人でですか」


「非番の夜でした。酒を飲んで、帰り道に……あの辺りは通るつもりではなかったのですが、道を誤って」


羅城門。


都の南の外れに立つ、朱雀大路の終わりの門。かつては壮麗だったが、今は荒れ果て、人が寄り付かない。盗賊が潜み、行き倒れの骸が放置される、都の暗部だった。


「門のそばで、何かを見ましたか」


融実の顔が歪んだ。


「……見ました」


「何を」


「腕、です」


晴明は静かに続きを待った。


「門の上から、腕が垂れていました。女の腕のように細い。だが、爪が長く……気味が悪くて、逃げました。そのときに、何かに掴まれたような気がして」


融実は右腕を押さえた。


「それから、夜になると疼くのです」


---


忠行に話すと、師は少し考えてから言った。


「羅城門か」


「はい」


「保憲、知っているか」


保憲は腕を組んだ。


「羅城門に鬼が棲むという話は、古くからある。だが最近、また出たという話は聞いていなかった」


「鬼、でございますか」


晴明が問うと、保憲は頷いた。


「正確には、鬼かどうかわからぬ。だが羅城門の上に何かが棲んでいるという話は、陰陽寮の記録にも残っている。渡辺綱が鬼の腕を斬ったという話を聞いたことはあるか」


「伝承として」


「あれは伝承ではないかもしれぬ。腕だけが残る、というのは、そういうことだ」


晴明は融実の腕に張り付いた細い爪の跡を思い出した。


腕を斬られた鬼が、代わりの腕を求めている。


「融実殿の腕を、狙っているということですか」


「狙っているというより」と忠行が言った。「印をつけた、というべきだろう」


「印」


「取りに来る前の、目印だ」


融実が青ざめるのが目に見えるようだった。保憲が静かに言った。


「いつ来るかはわからぬ。だが、夜に痛むということは、夜に動いている」


「では、夜を待ちますか」


晴明が言うと、忠行は頷いた。


「融実殿に、今夜ここに泊まるよう伝えろ。陰陽寮の結界の中にいれば、簡単には手が出せぬ」


「囮にするのですか」


「印がある限り、どこにいても狙われる。ならば、こちらで迎え撃つほうがいい」


---


夜の四つが近づくにつれ、陰陽寮の空気が重くなった。


保憲は結界を重ね、忠行は中央に座って気の流れを読んでいた。融実は縁側に座り、右腕を抱えていた。その腕が、また疼き始めているのだろう。顔が歪んでいた。


晴明は門の近くに立っていた。


実方が隣に来た。


「俺も残る」


「いいのか」


「融実殿とは顔見知りだ。それに」


実方は少し声を落とした。


「おまえだけに怖い思いをさせるのは、癪だ」


晴明は笑った。


「ありがとう」


「礼を言うな。腹が立つ」


それは保憲がよく言う言葉だった。晴明がそう言うと、実方は「移るんだよそういうのは」と顔をしかめた。


夜の四つになった。


融実が声を上げた。


「痛い……っ」


右腕を押さえ、身を屈める。


その瞬間、門の外で風が鳴った。


風ではない。


何かが、来た。


晴明には見えた。


暗闇の中から、腕だけが伸びてくる。細く、白く、爪が長い。人の腕ではない。だが人の腕に似た、何かだ。それが、結界の外で止まった。


忠行が目を開いた。


保憲が符を構える。


だが晴明は前へ出た。


「待ってください」


保憲が舌打ちした。


「また前に出る」


「あれは、怒っているのではありません」


晴明は腕を見た。


結界の前で止まり、ただそこにある腕。爪が、かすかに動いていた。


「探しているのです」


「自分の腕を」と忠行が言った。


「はい」


腕を斬られた。それが何十年前のことか、何百年前のことかわからない。だが斬られた腕は、ずっとそこを彷徨い続けた。元の体に戻ろうとして、戻れなくて。


融実の腕に印をつけたのは、代わりを求めたからではないかもしれない。


ただ、腕に触れたかっただけかもしれない。


自分が失ったものに。


「融実殿」


晴明は振り返った。


「右腕を、見せてもらえますか。袖をまくって、門の方へ向けて」


融実は顔を青くしたまま、それでも頷いた。袖をまくり、右腕を差し出す。


腕が、動いた。


結界の前まで来て、止まった。


爪の先が、融実の腕に刻まれた印に触れた。


その瞬間、細い爪の跡が、すべて消えた。


腕が、しばらくそこにあった。


それから、ゆっくりと、暗闇の中へ戻っていった。


風が吹いた。


何もなくなった。


融実は右腕を見た。


「……痛みが、ない」


「印が消えました」


晴明は言った。


「返してもらったのです。あなたの腕を」


融実は呆然としていた。それから、深く息を吐いた。


「……鬼というのは、ああいうものか」


「鬼かどうかは、わかりません」


晴明は暗闇の向こうを見た。


「ただ、何かを失って、長く彷徨っているものだと思います」


実方が呟いた。


「祓ってもいないのに、消えたな」


「触れられたから、でしょうか」


晴明は言った。


「失ったものに、もう一度触れられたから」


保憲は符をしまいながら、首を振った。


「おまえの考え方は、陰陽師らしくない」


「すみません」


「謝るな」


保憲は空を見た。


「ただ、それで解決するなら、俺は何も言わぬ」


忠行は立ち上がり、何も言わずに中へ入った。だがその背中は、いつもより少しだけ、軽く見えた。


気のせいかもしれない。


だが晴明は、そう思った。


---


翌朝、融実が帰り際に晴明に言った。


「陰陽師というのは、術を使う者だと思っていた」


「術も使います」


「だが、おまえは話す方が多いな」


晴明は少し考えた。


「術は、境を整えるためのものです。ですが境を整える前に、何がそこにあるかを知らなければ、整えようがありません」


融実は頷いた。


「また世話になるかもしれぬ」


「いつでも」


融実は笑って、門を出た。


実方が隣で言った。


「あの人、また来るな絶対」


「そうかな」


「顔がそう言ってた。おまえに話を聞いてもらえる場所を見つけた、って顔だ」


晴明は門の外を見た。


春の朝の光が、大路に伸びている。


羅城門の方角は、今朝は静かだった。


腕は、まだあそこにあるのかもしれない。


あるいは、触れることができて、少し楽になったのかもしれない。


どちらでもいい、と晴明は思った。


今朝の融実の腕に、痛みはない。


それだけが、確かなことだった。


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