第六話 飛梅の怨り
その年の冬は、梅が咲かなかった。
例年なら一月の末には白梅が開く。だが賀茂家の庭の梅も、陰陽寮の庭の梅も、蕾が固く閉じたまま、枝だけが寒空に伸びていた。
晴明は天文観測の当番を終えて戻ってきたところだった。
夜明け前から台に立ち、星の動きを記録する。それが今月の晴明の役目だった。陰陽寮の仕事は怪異を祓うことだけではない。星を読み、暦を作り、季節の移ろいを記録する。地味で、寒く、眠い仕事だ。だが忠行は必ず言う。星の動きを知らぬ者に、地の理はわからぬ、と。
「梅が咲かぬな」
実方が湯気の立つ椀を抱えながら言った。
「今年は遅いのか」
「遅いのではない」
晴明は記録を書き付けながら答えた。
「咲けないのだと思う」
実方が首を傾げる。
「どういう意味だ」
晴明は答えなかった。うまく言葉にできなかった。ただ、昨夜の星を見ながら、そう感じた。天の気が、どこかで滞っている。何かが、流れを塞いでいる。
「晴明」
忠行の声がした。
部屋の入口に師が立っていた。その顔を見て、晴明は椀を置いた。
忠行の顔に、普段はない何かがあった。
重さ、とでも言うべきものが。
「来い」
---
忠行に連れられたのは、陰陽寮の奥の一室だった。
普段は使われていない部屋で、古い記録が積まれ、埃が厚く積もっている。忠行はその中の一角に座り、晴明を向かいに座らせた。
「昨夜、何か感じたか」
「……星の気が、滞っておりました」
「それだけか」
晴明は考えた。
「北東の方角に、何か重いものがあるように思いました。具体的には、わかりませんでしたが」
忠行は頷いた。
「北東だ」
「はい」
「太宰府は、都から見て南西になる」
晴明は息を止めた。
太宰府。
三年前、藤原時平の謀略によって左遷された菅原道真が、今も流されている地。かつて右大臣まで上り詰めた学者が、濡れ衣を着せられ、都を追われた場所。
「道真公が……」
「昨夜、薨去された」
部屋が静まり返った。
晴明は何も言えなかった。
菅原道真。晴明が子供の頃から、その名は都に響いていた。詩文の才、学問の深さ、朝廷における信望。それを妬んだ者たちによって、遠い南の地へ追いやられた。
「北東の重さは」
「道真の念が、もう都へ向かい始めている」
忠行は静かに言った。その声に感情はなかった。だが、晴明には見えた。師の目の奥に、何かがある。悼みとも、畏れとも違う、長い付き合いの者だけが持つ複雑な何かが。
「師は、道真公をご存じでしたか」
忠行はしばらく黙っていた。
「一度だけ、お会いした」
「どのようなお方でしたか」
「……梅を愛された方だ」
それだけ言って、忠行は立ち上がった。
「保憲を呼べ。今夜、北東を固める」
---
夜になると、都の空気が変わった。
晴明にははっきりわかった。重さが増している。北東から流れてくる、巨大な念の気配。怪異とは違う。怨霊とも少し違う。これは、あまりに深い悲しみと、あまりに正当な怒りが、長い時間をかけて凝り固まったものだ。
保憲は陰陽寮の北東の角に符を張り、結界を重ねた。忠行は中央に座り、目を閉じて気の流れを読んでいた。
晴明は庭に立ち、北東の空を見ていた。
星が、いくつか滲んでいた。
「晴明」
保憲が隣に来た。
「感じるか」
「はい」
「怖いか」
晴明は正直に答えた。
「怖いです。ですが……悲しい、とも思います」
保憲は空を見た。
「道真公は、何も悪いことをしていない。それでも、追われた」
「はい」
「怨むのは、当然だ」
その言葉は、晴明の胸に重く落ちた。
朱雀門の女に言った言葉が蘇る。都の外に積もるもの。門の内にいる者が見ようとしないもの。
だが今度は違う。
あのときの怪異は、名もなく顔もない、忘れられた者たちの念だった。
今夜のこれは、名がある。顔がある。誰もが知っている。それでも、追いやられた。
「我々は、道真公を祓うのですか」
晴明が問うと、保憲はすぐに答えなかった。
「父上に聞け」
忠行のそばに戻ると、師は目を閉じたままだった。晴明は静かに座った。
しばらくして、忠行が口を開いた。
「晴明、道真公の詩を知っているか」
「……東風吹かば、でございますか」
「読め」
晴明は記憶の中から言葉を引いた。声に出す。
「東風吹かば、にほひをこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」
庭の梅が、風に揺れた。
咲かないままの、固い蕾が。
「道真公は、梅を置いて都を去られた」
忠行は静かに言った。
「梅は、主を待っている。三年、待ち続けた。だが、主は帰らなかった」
晴明は梅の木を見た。
「梅が咲かないのは」
「道真公の念が、梅に残っているからかもしれぬ」
風が吹いた。
北東から来る風が、梅の枝を揺らす。
その瞬間、晴明には見えた。
梅の枝の先に、薄く、人の影が重なった。
老いた男の影。痩せて、だが背筋が伸びていて、その眼は都の方角を見ていた。悲しみではなく、怒りでもなく、ただ長く、静かに見ていた。
晴明は立ち上がり、梅の前に立った。
「晴明」
保憲が声を上げたが、忠行が手で制した。
晴明は梅に向かって、頭を下げた。
「道真公」
風が止んだ。
「不当なことがございました。あなたは正しかった。それを、私は知っています」
影が、わずかに動いた。
「都はあなたを追いやりました。それは、変えられないことです。ですが」
晴明は続けた。
「梅は、ここにあります。あなたの梅が、ここで春を待っています」
庭が静かになった。
長い沈黙があった。
それから、梅の蕾が、ひとつ、ほころびた。
夜の中で、白く、小さく、開いた。
ひとつだけだった。だが確かに、咲いた。
影は薄れた。
北東からの気配が、少し遠のいた。
完全には消えていない。道真公の念は、これで終わるものではないと晴明にはわかった。これは始まりに過ぎない。怨霊となった道真公は、これから長く、都に影を落とすだろう。
だが今夜は、一輪だけ、梅が咲いた。
---
忠行は梅の花を、長い間見ていた。
晴明が隣に立つと、師は静かに言った。
「お会いしたのは、左遷の前の年だった」
「道真公に、ですか」
「陰陽寮に視察に来られた。暦の計算を見て、一言だけおっしゃった」
「何と」
忠行はわずかに目を細めた。
「星を読む者は、人の心も読めるか、と」
晴明は黙って聞いた。
「私は答えられなかった。星は読める。だが人の心は、星より難しい、と思っていたから」
「今は」
忠行は梅の花を見たまま言った。
「今も、難しいと思っている。だが」
その視線が、晴明へ向いた。
「おまえを見ていると、両方読もうとする者もいるのだと思う」
それは、師からの言葉としては、珍しいほど柔らかかった。
晴明は頭を下げた。
保憲が後ろで言った。
「道真公の祟りは、これで終わりではないぞ。陰陽寮としても、朝廷としても、長い問題になる」
「わかっています」
「それでも、今夜は一輪咲かせた」
保憲は梅を見た。
「それで、いい」
夜が深まっていた。
白い梅の花が、月明かりの中で静かに光っていた。
遠い太宰府で、一人の人間が今日、死んだ。
その念は今、都へ向かっている。
だが今夜だけは、梅が咲いた。
それだけが、確かなことだった。




