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陰陽寮異聞  作者: はまゆう


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6/12

第六話 飛梅の怨り

その年の冬は、梅が咲かなかった。


例年なら一月の末には白梅が開く。だが賀茂家の庭の梅も、陰陽寮の庭の梅も、蕾が固く閉じたまま、枝だけが寒空に伸びていた。


晴明は天文観測の当番を終えて戻ってきたところだった。


夜明け前から台に立ち、星の動きを記録する。それが今月の晴明の役目だった。陰陽寮の仕事は怪異を祓うことだけではない。星を読み、暦を作り、季節の移ろいを記録する。地味で、寒く、眠い仕事だ。だが忠行は必ず言う。星の動きを知らぬ者に、地の理はわからぬ、と。


「梅が咲かぬな」


実方が湯気の立つ椀を抱えながら言った。


「今年は遅いのか」


「遅いのではない」


晴明は記録を書き付けながら答えた。


「咲けないのだと思う」


実方が首を傾げる。


「どういう意味だ」


晴明は答えなかった。うまく言葉にできなかった。ただ、昨夜の星を見ながら、そう感じた。天の気が、どこかで滞っている。何かが、流れを塞いでいる。


「晴明」


忠行の声がした。


部屋の入口に師が立っていた。その顔を見て、晴明は椀を置いた。


忠行の顔に、普段はない何かがあった。


重さ、とでも言うべきものが。


「来い」


---


忠行に連れられたのは、陰陽寮の奥の一室だった。


普段は使われていない部屋で、古い記録が積まれ、埃が厚く積もっている。忠行はその中の一角に座り、晴明を向かいに座らせた。


「昨夜、何か感じたか」


「……星の気が、滞っておりました」


「それだけか」


晴明は考えた。


「北東の方角に、何か重いものがあるように思いました。具体的には、わかりませんでしたが」


忠行は頷いた。


「北東だ」


「はい」


「太宰府は、都から見て南西になる」


晴明は息を止めた。


太宰府。


三年前、藤原時平の謀略によって左遷された菅原道真が、今も流されている地。かつて右大臣まで上り詰めた学者が、濡れ衣を着せられ、都を追われた場所。


「道真公が……」


「昨夜、薨去された」


部屋が静まり返った。


晴明は何も言えなかった。


菅原道真。晴明が子供の頃から、その名は都に響いていた。詩文の才、学問の深さ、朝廷における信望。それを妬んだ者たちによって、遠い南の地へ追いやられた。


「北東の重さは」


「道真の念が、もう都へ向かい始めている」


忠行は静かに言った。その声に感情はなかった。だが、晴明には見えた。師の目の奥に、何かがある。悼みとも、畏れとも違う、長い付き合いの者だけが持つ複雑な何かが。


「師は、道真公をご存じでしたか」


忠行はしばらく黙っていた。


「一度だけ、お会いした」


「どのようなお方でしたか」


「……梅を愛された方だ」


それだけ言って、忠行は立ち上がった。


「保憲を呼べ。今夜、北東を固める」


---


夜になると、都の空気が変わった。


晴明にははっきりわかった。重さが増している。北東から流れてくる、巨大な念の気配。怪異とは違う。怨霊とも少し違う。これは、あまりに深い悲しみと、あまりに正当な怒りが、長い時間をかけて凝り固まったものだ。


保憲は陰陽寮の北東の角に符を張り、結界を重ねた。忠行は中央に座り、目を閉じて気の流れを読んでいた。


晴明は庭に立ち、北東の空を見ていた。


星が、いくつか滲んでいた。


「晴明」


保憲が隣に来た。


「感じるか」


「はい」


「怖いか」


晴明は正直に答えた。


「怖いです。ですが……悲しい、とも思います」


保憲は空を見た。


「道真公は、何も悪いことをしていない。それでも、追われた」


「はい」


「怨むのは、当然だ」


その言葉は、晴明の胸に重く落ちた。


朱雀門の女に言った言葉が蘇る。都の外に積もるもの。門の内にいる者が見ようとしないもの。


だが今度は違う。


あのときの怪異は、名もなく顔もない、忘れられた者たちの念だった。


今夜のこれは、名がある。顔がある。誰もが知っている。それでも、追いやられた。


「我々は、道真公を祓うのですか」


晴明が問うと、保憲はすぐに答えなかった。


「父上に聞け」


忠行のそばに戻ると、師は目を閉じたままだった。晴明は静かに座った。


しばらくして、忠行が口を開いた。


「晴明、道真公の詩を知っているか」


「……東風吹かば、でございますか」


「読め」


晴明は記憶の中から言葉を引いた。声に出す。


「東風吹かば、にほひをこせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ」


庭の梅が、風に揺れた。


咲かないままの、固い蕾が。


「道真公は、梅を置いて都を去られた」


忠行は静かに言った。


「梅は、主を待っている。三年、待ち続けた。だが、主は帰らなかった」


晴明は梅の木を見た。


「梅が咲かないのは」


「道真公の念が、梅に残っているからかもしれぬ」


風が吹いた。


北東から来る風が、梅の枝を揺らす。


その瞬間、晴明には見えた。


梅の枝の先に、薄く、人の影が重なった。


老いた男の影。痩せて、だが背筋が伸びていて、その眼は都の方角を見ていた。悲しみではなく、怒りでもなく、ただ長く、静かに見ていた。


晴明は立ち上がり、梅の前に立った。


「晴明」


保憲が声を上げたが、忠行が手で制した。


晴明は梅に向かって、頭を下げた。


「道真公」


風が止んだ。


「不当なことがございました。あなたは正しかった。それを、私は知っています」


影が、わずかに動いた。


「都はあなたを追いやりました。それは、変えられないことです。ですが」


晴明は続けた。


「梅は、ここにあります。あなたの梅が、ここで春を待っています」


庭が静かになった。


長い沈黙があった。


それから、梅の蕾が、ひとつ、ほころびた。


夜の中で、白く、小さく、開いた。


ひとつだけだった。だが確かに、咲いた。


影は薄れた。


北東からの気配が、少し遠のいた。


完全には消えていない。道真公の念は、これで終わるものではないと晴明にはわかった。これは始まりに過ぎない。怨霊となった道真公は、これから長く、都に影を落とすだろう。


だが今夜は、一輪だけ、梅が咲いた。


---


忠行は梅の花を、長い間見ていた。


晴明が隣に立つと、師は静かに言った。


「お会いしたのは、左遷の前の年だった」


「道真公に、ですか」


「陰陽寮に視察に来られた。暦の計算を見て、一言だけおっしゃった」


「何と」


忠行はわずかに目を細めた。


「星を読む者は、人の心も読めるか、と」


晴明は黙って聞いた。


「私は答えられなかった。星は読める。だが人の心は、星より難しい、と思っていたから」


「今は」


忠行は梅の花を見たまま言った。


「今も、難しいと思っている。だが」


その視線が、晴明へ向いた。


「おまえを見ていると、両方読もうとする者もいるのだと思う」


それは、師からの言葉としては、珍しいほど柔らかかった。


晴明は頭を下げた。


保憲が後ろで言った。


「道真公の祟りは、これで終わりではないぞ。陰陽寮としても、朝廷としても、長い問題になる」


「わかっています」


「それでも、今夜は一輪咲かせた」


保憲は梅を見た。


「それで、いい」


夜が深まっていた。


白い梅の花が、月明かりの中で静かに光っていた。


遠い太宰府で、一人の人間が今日、死んだ。


その念は今、都へ向かっている。


だが今夜だけは、梅が咲いた。


それだけが、確かなことだった。


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