↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
陰陽寮異聞  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/12

第五話 北風の遺児

山城の外れは、都の喧騒が嘘のように静かだった。


田畑が続き、人家はまばらで、道は細く、夜になると月明かりだけが頼りになる。晴明と保憲は馬を降り、残りを歩いた。


「本当に会いに行くつもりか」


保憲が言った。咎めているのではない。確かめているのだ。


「はい」


「相手が素直に話すとは限らぬ」


「はい」


「呪詛を使える者なら、近づいた瞬間に仕掛けてくるかもしれぬ」


「わかっています」


保憲は溜息をついた。


「父上が前に出るなと言ったのはそういうことだぞ。おまえが危なくなれば、俺が出る。それまでは黙って後ろにいてやる」


「ありがとうございます」


「礼を言うな。腹が立つ」


晴明は少し笑った。


記録を辿り、定遠の妻が移り住んだという集落を探すのに半日かかった。だが集落の古老に聞くと、すぐにわかった。三十年前に都から来た女と、その子供のことを、老人たちはよく覚えていた。


「ああ、あの親子か」


老人は言った。


「母親はとうに逝った。子供……といっても、もう四十近いか。一人で山の端に住んでおる。畑もやらず、何をしているのか知らぬが、時折、夜中に火を焚いているのが見える」


夜中の火。


晴明と保憲は顔を見合わせた。


「人柄は」


「悪い人間ではないと思うが……近寄りがたい。目が、怖い」


老人はそれだけ言って、方角を教えてくれた。


---


山の端の小屋は、思ったより粗末だった。


板を組んだだけの壁、薄い屋根。だが周囲には、小さな木片が無数に刺さっていた。地面に、木の枝に、石の上に。それぞれに、細かな文字が刻まれている。


晴明は立ち止まった。


「……これは」


「呪詛の木片だ」と保憲が低く言った。「だが、向きがおかしい」


「外へ向けていない」


「ああ。すべて、内側を向いている」


木片は、外の者を傷つけるためではなく、内側の何かを留めるために刺されていた。あるいは、外の何かを遮るために。


晴明は一歩前へ出た。


「ごめんください」


返事はない。


「陰陽寮の安倍晴明と申します。藤原定遠様のご遺族にお会いしたく参りました」


しばらくして、小屋の戸が開いた。


出てきたのは、四十がらみの男だった。痩せていて、目だけが大きく、老人の言った通り、怖い目をしていた。だがその怖さは、怒りではなかった。疲れていた。長く、長く疲れ続けた人間の目だった。


男は晴明を見た。保憲を見た。


「陰陽寮か」


「はい」


「父を殺した者どもの」


晴明は頷いた。


「そのように思われているなら、そうです」


男が目を細めた。


「……正直な奴だな」


「嘘をついても意味がありません」


男はしばらく晴明を見ていた。それから、戸を大きく開けた。


「入れ」


---


小屋の中は、外より暖かかった。


土間に小さな火があり、その周りに、また木片が並べられていた。壁にも、天井にも。びっしりと刻まれた文字が、火の光に揺れている。


男は名を言わなかった。晴明も聞かなかった。


「何しに来た」


「来月の暦の吉日を算出した陰陽師が、危険かもしれないと思って来ました」


男は火を見たまま答えない。


「天暦三年に、安倍益材という陰陽師が死にました。同じことが起きようとしているなら、止めたい」


「止める?」男は静かに言った。「おまえたちには止める権利があるのか」


「ありません」


保憲が後ろで動いた。晴明は手で制した。


「父上が北の遠征で亡くなったのは、陰陽師が選んだ吉日に動いたからだと、そう思っておられますか」


男は長い間、黙っていた。


「……母が、そう言っていた」


その声は、憎しみより悲しみに近かった。


「吉日だと言われて父は喜んで出かけた。必ず帰ると言った。だが帰らなかった。母は、吉日を選んだ陰陽師を恨んだ。俺も、ずっとそう思ってきた」


「今も、そう思っておられますか」


男は答えなかった。


晴明は続けた。


「陰陽師は、暦を作ります。吉日を選びます。だがそれは、すべての災いを排除できるという意味ではありません。吉日とは、動くに適した日というだけで、死なない日ではない」


「……わかっている」


男は低く言った。


「頭ではわかっている。だが」


火が揺れた。


「母が死ぬまで、恨んでいた。俺はその母を見ていた。三十年」


晴明は黙って聞いた。


「母が逝ってから、俺は恨む相手を失った。だが、恨みだけが残った。行き場のない恨みが、ここに溜まった」


男は胸を押さえた。


「だから、出さないようにしている」


晴明は木片を見た。


内側を向いた呪詛の木片。外へ向けるためではなく、自分の内側に溜まったものを、外へ出さないために刺している。


「益材を殺したのは」


「俺ではない」


男は静かに言った。


「母だ。母が逝く前に、一度だけ話してくれた。あの男を呪った、と。だが、死んでから後悔した、とも言った」


保憲が小さく息を吐いた。


「では、今回は」


「俺は何もしていない」男は晴明を見た。「だが、来月の吉日が近づくにつれ、ここに溜まったものが騒ぐ。母の恨みが、まだ俺の中にある」


「木片は、それを留めるために」


「ああ」


晴明は少し考えた。


「一つ、聞いてもいいですか」


「何だ」


「あなたは、父上のことを覚えていますか」


男が顔を上げた。


「幼い頃に出征したので、ほとんど覚えていないかもしれませんが」


男はしばらく黙っていた。


火の音だけがした。


「……大きな手だったと思う」


その声は、初めて柔らかくなった。


「出かける前の朝、頭を撫でてくれた。それだけしか覚えていない」


「それは、大切なものですね」


男は答えなかった。だが、目が変わった。怖い目ではなくなった。


「あなたが恨んでいるのは、陰陽師ではないかもしれません」


晴明は静かに言った。


「父上を返してくれなかった、何かに対して。その大きな手が、もう触れてくれないことに対して」


男の目に、光が浮かんだ。


泣くまいとしているのが、わかった。


「……そんなことを言いに来たのか、陰陽師が」


「来月の吉日に動く者を守りに来ました。ですが」


晴明は続けた。


「あなたのことも、気になっていました」


「俺を」


「ずっと一人で、ここで留めていた。それは、相当に苦しいことだと思います」


男は長い間、黙っていた。


保憲が外で何かを呟く気配がした。符を使っているのかもしれない。だが晴明は振り返らなかった。


「木片を、一枚だけ、抜いてもいいですか」


男が顔を上げる。


「何をする」


「留めているものを、少しだけ流します。全部ではなく、少しだけ」


男はしばらく晴明を見ていた。


それから、頷いた。


晴明は一番古そうな木片を一枚、そっと抜いた。文字は深く刻まれ、長い年月で黒ずんでいた。


晴明は息を吹きかけ、低く唱えた。


言葉は短かった。


流れよ。ただ、流れよ。留まることなく、遠くへ。


木片が、指の間でほろりと崩れた。


その瞬間、男が小さく声を上げた。泣き声ではなかった。息が、長く出てきたような音だった。


「……軽い」


男は自分の胸を押さえた。


「少しだけ、軽い」


「少しずつ、でいいと思います」


晴明は立ち上がった。


「また来てもいいですか」


男は驚いたように晴明を見た。


「……なぜ」


「残りも、少しずつ流せたらと思います。一度では無理なので」


男はしばらく黙っていた。


「……好きにしろ」


それが、答えだった。


---


帰り道、保憲が隣を歩きながら言った。


「来月の吉日は、問題ない、ということでいいか」


「はい。あの方が仕掛けたわけではありませんでした」


「だが、母親の恨みがまだ残っている」


「少しずつ、流します」


保憲は黙って歩いた。しばらくして、言った。


「おまえ、陰陽師に向いているのか向いていないのか、わからなくなってくるな」


「どういう意味ですか」


「術より先に、人に会いに行く。祓より先に、話を聞く。そういう陰陽師は、あまりいない」


「悪いことですか」


「悪くはない」


保憲は月を見た。


「ただ、消耗するぞ。人の話を聞くのは、怪異を祓うより疲れる」


晴明は考えた。確かに、今夜は疲れていた。霞の中に入ったときとは違う疲れ方で、体ではなく、胸の奥が重かった。


「それでも」


「ああ、それでもやるんだろう」


保憲は苦笑した。


「父上に似てきた、ではなく、父上とも違う何かになりつつある。そういうことかもしれぬな」


都の灯りが見えてきた。


晴明は振り返った。山の端の方角に、小さな火が見えた。男がまだ、火を焚いている。


だが今夜の火は、昨夜より少し、穏やかに見えた。


気のせいかもしれない。


それでも、晴明はそう思った。


都の夜は広い。


怪異だけが、闇に潜んでいるわけではない。


人もまた、それぞれの闇を抱えて、灯りを焚いている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。