第五話 北風の遺児
山城の外れは、都の喧騒が嘘のように静かだった。
田畑が続き、人家はまばらで、道は細く、夜になると月明かりだけが頼りになる。晴明と保憲は馬を降り、残りを歩いた。
「本当に会いに行くつもりか」
保憲が言った。咎めているのではない。確かめているのだ。
「はい」
「相手が素直に話すとは限らぬ」
「はい」
「呪詛を使える者なら、近づいた瞬間に仕掛けてくるかもしれぬ」
「わかっています」
保憲は溜息をついた。
「父上が前に出るなと言ったのはそういうことだぞ。おまえが危なくなれば、俺が出る。それまでは黙って後ろにいてやる」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。腹が立つ」
晴明は少し笑った。
記録を辿り、定遠の妻が移り住んだという集落を探すのに半日かかった。だが集落の古老に聞くと、すぐにわかった。三十年前に都から来た女と、その子供のことを、老人たちはよく覚えていた。
「ああ、あの親子か」
老人は言った。
「母親はとうに逝った。子供……といっても、もう四十近いか。一人で山の端に住んでおる。畑もやらず、何をしているのか知らぬが、時折、夜中に火を焚いているのが見える」
夜中の火。
晴明と保憲は顔を見合わせた。
「人柄は」
「悪い人間ではないと思うが……近寄りがたい。目が、怖い」
老人はそれだけ言って、方角を教えてくれた。
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山の端の小屋は、思ったより粗末だった。
板を組んだだけの壁、薄い屋根。だが周囲には、小さな木片が無数に刺さっていた。地面に、木の枝に、石の上に。それぞれに、細かな文字が刻まれている。
晴明は立ち止まった。
「……これは」
「呪詛の木片だ」と保憲が低く言った。「だが、向きがおかしい」
「外へ向けていない」
「ああ。すべて、内側を向いている」
木片は、外の者を傷つけるためではなく、内側の何かを留めるために刺されていた。あるいは、外の何かを遮るために。
晴明は一歩前へ出た。
「ごめんください」
返事はない。
「陰陽寮の安倍晴明と申します。藤原定遠様のご遺族にお会いしたく参りました」
しばらくして、小屋の戸が開いた。
出てきたのは、四十がらみの男だった。痩せていて、目だけが大きく、老人の言った通り、怖い目をしていた。だがその怖さは、怒りではなかった。疲れていた。長く、長く疲れ続けた人間の目だった。
男は晴明を見た。保憲を見た。
「陰陽寮か」
「はい」
「父を殺した者どもの」
晴明は頷いた。
「そのように思われているなら、そうです」
男が目を細めた。
「……正直な奴だな」
「嘘をついても意味がありません」
男はしばらく晴明を見ていた。それから、戸を大きく開けた。
「入れ」
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小屋の中は、外より暖かかった。
土間に小さな火があり、その周りに、また木片が並べられていた。壁にも、天井にも。びっしりと刻まれた文字が、火の光に揺れている。
男は名を言わなかった。晴明も聞かなかった。
「何しに来た」
「来月の暦の吉日を算出した陰陽師が、危険かもしれないと思って来ました」
男は火を見たまま答えない。
「天暦三年に、安倍益材という陰陽師が死にました。同じことが起きようとしているなら、止めたい」
「止める?」男は静かに言った。「おまえたちには止める権利があるのか」
「ありません」
保憲が後ろで動いた。晴明は手で制した。
「父上が北の遠征で亡くなったのは、陰陽師が選んだ吉日に動いたからだと、そう思っておられますか」
男は長い間、黙っていた。
「……母が、そう言っていた」
その声は、憎しみより悲しみに近かった。
「吉日だと言われて父は喜んで出かけた。必ず帰ると言った。だが帰らなかった。母は、吉日を選んだ陰陽師を恨んだ。俺も、ずっとそう思ってきた」
「今も、そう思っておられますか」
男は答えなかった。
晴明は続けた。
「陰陽師は、暦を作ります。吉日を選びます。だがそれは、すべての災いを排除できるという意味ではありません。吉日とは、動くに適した日というだけで、死なない日ではない」
「……わかっている」
男は低く言った。
「頭ではわかっている。だが」
火が揺れた。
「母が死ぬまで、恨んでいた。俺はその母を見ていた。三十年」
晴明は黙って聞いた。
「母が逝ってから、俺は恨む相手を失った。だが、恨みだけが残った。行き場のない恨みが、ここに溜まった」
男は胸を押さえた。
「だから、出さないようにしている」
晴明は木片を見た。
内側を向いた呪詛の木片。外へ向けるためではなく、自分の内側に溜まったものを、外へ出さないために刺している。
「益材を殺したのは」
「俺ではない」
男は静かに言った。
「母だ。母が逝く前に、一度だけ話してくれた。あの男を呪った、と。だが、死んでから後悔した、とも言った」
保憲が小さく息を吐いた。
「では、今回は」
「俺は何もしていない」男は晴明を見た。「だが、来月の吉日が近づくにつれ、ここに溜まったものが騒ぐ。母の恨みが、まだ俺の中にある」
「木片は、それを留めるために」
「ああ」
晴明は少し考えた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「あなたは、父上のことを覚えていますか」
男が顔を上げた。
「幼い頃に出征したので、ほとんど覚えていないかもしれませんが」
男はしばらく黙っていた。
火の音だけがした。
「……大きな手だったと思う」
その声は、初めて柔らかくなった。
「出かける前の朝、頭を撫でてくれた。それだけしか覚えていない」
「それは、大切なものですね」
男は答えなかった。だが、目が変わった。怖い目ではなくなった。
「あなたが恨んでいるのは、陰陽師ではないかもしれません」
晴明は静かに言った。
「父上を返してくれなかった、何かに対して。その大きな手が、もう触れてくれないことに対して」
男の目に、光が浮かんだ。
泣くまいとしているのが、わかった。
「……そんなことを言いに来たのか、陰陽師が」
「来月の吉日に動く者を守りに来ました。ですが」
晴明は続けた。
「あなたのことも、気になっていました」
「俺を」
「ずっと一人で、ここで留めていた。それは、相当に苦しいことだと思います」
男は長い間、黙っていた。
保憲が外で何かを呟く気配がした。符を使っているのかもしれない。だが晴明は振り返らなかった。
「木片を、一枚だけ、抜いてもいいですか」
男が顔を上げる。
「何をする」
「留めているものを、少しだけ流します。全部ではなく、少しだけ」
男はしばらく晴明を見ていた。
それから、頷いた。
晴明は一番古そうな木片を一枚、そっと抜いた。文字は深く刻まれ、長い年月で黒ずんでいた。
晴明は息を吹きかけ、低く唱えた。
言葉は短かった。
流れよ。ただ、流れよ。留まることなく、遠くへ。
木片が、指の間でほろりと崩れた。
その瞬間、男が小さく声を上げた。泣き声ではなかった。息が、長く出てきたような音だった。
「……軽い」
男は自分の胸を押さえた。
「少しだけ、軽い」
「少しずつ、でいいと思います」
晴明は立ち上がった。
「また来てもいいですか」
男は驚いたように晴明を見た。
「……なぜ」
「残りも、少しずつ流せたらと思います。一度では無理なので」
男はしばらく黙っていた。
「……好きにしろ」
それが、答えだった。
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帰り道、保憲が隣を歩きながら言った。
「来月の吉日は、問題ない、ということでいいか」
「はい。あの方が仕掛けたわけではありませんでした」
「だが、母親の恨みがまだ残っている」
「少しずつ、流します」
保憲は黙って歩いた。しばらくして、言った。
「おまえ、陰陽師に向いているのか向いていないのか、わからなくなってくるな」
「どういう意味ですか」
「術より先に、人に会いに行く。祓より先に、話を聞く。そういう陰陽師は、あまりいない」
「悪いことですか」
「悪くはない」
保憲は月を見た。
「ただ、消耗するぞ。人の話を聞くのは、怪異を祓うより疲れる」
晴明は考えた。確かに、今夜は疲れていた。霞の中に入ったときとは違う疲れ方で、体ではなく、胸の奥が重かった。
「それでも」
「ああ、それでもやるんだろう」
保憲は苦笑した。
「父上に似てきた、ではなく、父上とも違う何かになりつつある。そういうことかもしれぬな」
都の灯りが見えてきた。
晴明は振り返った。山の端の方角に、小さな火が見えた。男がまだ、火を焚いている。
だが今夜の火は、昨夜より少し、穏やかに見えた。
気のせいかもしれない。
それでも、晴明はそう思った。
都の夜は広い。
怪異だけが、闇に潜んでいるわけではない。
人もまた、それぞれの闇を抱えて、灯りを焚いている。




