第四話 凶日の男
陰陽寮の朝は早い。
夜明け前から天文台に人が立ち、星の動きを記録する。日が昇れば暦の計算が始まり、貴族からの占いの依頼が次々と持ち込まれる。吉日はいつか、方角に障りはないか、旅立ちに適した刻はいつか。それらすべてに陰陽寮が答えを出す。答えが出なければ、都は動かない。
晴明は今朝も、山積みになった暦注の写しと向き合っていた。
師の忠行から言いつかった仕事だった。来月の暦に載せる凶日の一覧を、過去の記録と照合して誤りがないか確かめよ、というものだ。地味で細かく、目が疲れる。だが忠行は必ずこう言う。暦の一字が間違えば、都全体が間違った日に動く。それがどれほどのことか、わかるか、と。
晴明にはわかっていた。
だからこそ、余計に目が痛かった。
「晴明」
声をかけてきたのは、同じ陰陽寮に属する若い官人で、橘実方といった。晴明より二つ年上で、要領がよく、貴族への愛想も悪くない。陰陽師としての腕は晴明に及ばないが、世渡りは遥かに上手かった。
「また忠行様の写しか。ご苦労なことだな」
「おまえは」
「俺は今日、右大臣家へ伺候だ。新しい邸の地鎮を頼まれた」
実方は嬉しそうだった。貴族の邸へ出向くのは、陰陽師にとって稼ぎになる。陰陽寮の官職だけでは禄も多くないから、こうした私的な依頼が収入の柱になる。
「羨ましいか」
「いや」
晴明は目を写しに戻した。実方は笑って出ていった。
一人になると、部屋が静かになった。
筆を走らせながら、晴明はふと手を止めた。
来月の暦の、ある日付のところで目が留まる。
三十日後。
その日付の欄に、小さく書き込まれた注記があった。
**大凶。万事を慎め。ことに北方への移動、新たな契約、祝い事は忌む。**
珍しくはない。暦にはそうした注記がいくつもある。だが、何か引っかかった。
晴明は記録を繰った。同じ日付が過去にも凶日とされた年がある。その年に、何が起きたか。
記録の中に、短い書き付けがあった。
**天暦三年、同日。陰陽寮の官人一名、出仕せず。翌日、自邸にて死去。病か呪詛か、判然とせず。**
晴明は筆を置いた。
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忠行に話したのは、昼過ぎのことだった。
忠行は写しから目を上げず、短く聞いた。
「それだけか」
「はい。ただ……気になりまして」
「気になる、とはどういうことだ」
「同じ日付の凶日に、過去に陰陽寮の官人が死んでいます。病か呪詛か不明とありますが」
忠行はそこで初めて顔を上げた。
「名は」
「安倍益材とございます」
忠行の眼が、わずかに動いた。
「知っているのですか」
忠行は答えなかった。代わりに立ち上がり、棚の奥から古い巻物を取り出した。埃をかぶっている。しばらく探してから、一箇所を指さした。
「読め」
晴明は身を乗り出した。
そこには、安倍益材の名とともに、短い記録があった。
**天暦三年。益材、凶日の前夜より発熱。翌朝には言葉を失い、夕刻に絶命。枕元に、見慣れぬ文字を刻んだ木片あり。陰陽寮にて検分するも、解読能わず。木片はその後、紛失。**
木片。見慣れぬ文字。
「これは」
「呪詛だろう」と忠行は静かに言った。「益材は優れた官人だった。暦の計算に誰より長けており、ある年の遠征の吉日を算出した。その遠征で、多くの者が死んだ」
晴明は息を詰めた。
「吉日を選んだ陰陽師が、恨まれた、ということですか」
「恨まれた、だけではない」
忠行は巻物を閉じた。
「吉日を選ぶということは、その日に起きたことすべての責を負うということだ。戦で死んだ者の遺族が、陰陽師を恨む。それは当然のことだ」
晴明は黙った。
暦を作る。吉日を選ぶ。その結果、人が動く。人が動けば、死ぬ者も出る。
陰陽師はその連鎖の、最初の一手を担っている。
「では、三十日後の凶日は」
「同じことが起きるかもしれぬ、ということだ」
「誰に」
忠行は晴明を見た。
「来月の暦の吉日を最終的に算出したのは、誰だ」
晴明は考えた。
「……実方でございます」
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実方が右大臣家から戻ったのは、夕暮れ前だった。
上機嫌で帰ってきた実方は、晴明の顔を見て首を傾げた。
「どうした、そんな顔して」
「少し、聞きたいことがある」
「なんだ改まって」
晴明は静かに言った。
「来月の暦の吉日、先月おまえが算出したな」
「ああ。あれは我ながら良い仕事だった。右大臣家の地鎮もその吉日に合わせて――」
「その吉日、三十日後の日付だな」
実方が笑みを消した。
「……そうだが」
「同じ日が、過去に凶日とされたことがある」
「凶日?」晴明が見せた記録を、実方はしばらく見ていた。「だが、俺の計算では吉日と出た。計算の手順も確かめた。間違いはない」
「計算が間違いでなくても、誰かが間違いと思うことがある」
実方の顔色が変わった。
「……どういう意味だ」
「過去に同じ日付の吉日を算出した陰陽師が、その日に死んでいる」
部屋が静かになった。
実方は笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「……それは、病だろう。暦の凶日と関係があるとは限らぬ」
「木片が残っていた。見慣れぬ文字を刻んだもの。呪詛の可能性がある」
「呪詛」
実方は立ち上がり、部屋の中を歩き回った。
「俺は、ただ正しく計算しただけだ。吉日を選んだのが悪いというのか」
「悪くはない」
晴明は言った。
「だが、誰かがその日を凶日と信じている。あるいは、その日に何かが動くことを恐れている」
「何かとは」
「わからない。だから、調べる」
実方はしばらく黙っていた。それから、小声で言った。
「……怖いのか、と聞くのはおかしいか」
「おかしくない」
「怖い」
実方は素直に言った。晴明は頷いた。
「だから、一人にするな」
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その夜、保憲が動いた。
過去の記録をさらに掘り起こし、天暦三年の遠征で死んだ者の名を調べた。数は多い。だが、その中に、陰陽師を恨むだけの動機を持った者を探すのは難しかった。
遠征から三十年近くが経っている。
直接の遺族は老いるか、あるいは死んでいる。
だが保憲は一つの名を見つけた。
**藤原定遠。遠征にて戦死。遺児、一名。**
遺児の名は記録にない。だが、定遠の妻が、遠征の翌年に都を離れ、山城の外れに移り住んだという記録があった。
「山城の外れ」と忠行は呟いた。
「北方でございます」
保憲が言った。
「来月の吉日に動くものが、北方への移動を含んでいれば……」
「右大臣家の地鎮だ」と晴明は言った。「新しい邸は、北に土地を取ったと実方が言っていた」
部屋の空気が重くなった。
北方へ動くことを、誰かが恨んでいる。
三十年前に北の戦で死んだ父を持つ、名も知れぬ遺児が。
「その者がまだ都の近くにいるとしたら」
保憲が静かに言った。
「三十日、ある」
忠行は目を閉じた。
しばらくして、言った。
「晴明、おまえはどう動く」
試されている。
だが今回は、朱雀門の夜とも、葛城の霞の中とも違った。
相手は怪異ではない。
人だ。
三十年間、一人で恨みを抱えてきた、人間だ。
晴明は答えた。
「会いに行きます」
忠行の眉が上がる。
「祓うのではなく」
「はい。まず、話を聞きます」
保憲が小さく笑った。
「またそれか」
「それしか、できません」
忠行は短く頷いた。
「保憲、晴明の後ろにいろ。前には出るな」
「はい」
「晴明」
「はい」
「人は、怪異より難しいぞ」
その言葉の重さを、晴明はまだ半分しか理解していなかった。
だが、歩き始めた。
都の外れへ向かう夜道に、風が吹いた。
北から来る風だった。




