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陰陽寮異聞  作者: はまゆう


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3/3

第三話 霞の向こう、母の声

指輪は、小さかった。


銀の台に、青みがかった石がひとつ。華美ではないが、長く大切にされてきた気配がある。妹君の手から受け取った忠行は、それを掌に載せたまま、しばらく目を閉じていた。


朝の光の中で、晴明は妹君を見た。


昨夜より顔色が悪い。一睡もしなかったのだろう。それでも背筋を伸ばして座っているのは、姉に似た気性なのかもしれない。


「昨夜、西へ向かわれたと聞きました」


妹君が言った。


「何か、わかりましたか」


保憲が答えた。


「霞は見えた。だが、深いところまでは入れなかった」


「深いところ、とは」


「境の向こうだ」


妹君は息を呑んだ。


晴明は昨夜のことを思い返していた。


鴻臚館の近く、葦の茂る川沿いに、白い霞が溜まっていた。近づくと肌が冷えた。ただの霧とは違う、意志のある冷たさだった。保憲が符を使い、忠行が視た。霞の奥に、薄く人の輪郭があると言った。だが、それ以上は進めなかった。霞が、押し返すように濃くなったから。


忠行が初めて、壁に当たった。


晴明はそれが気になっていた。


師が視れないものがある。師が入れない場所がある。それは当然のことかもしれない。だが昨夜の忠行の顔には、苦い何かがあった。


「父上」


保憲が静かに言った。


「指輪から、何か」


忠行はゆっくりと目を開いた。


「この指輪に、声が残っている」


妹君が身を乗り出す。


「声、とは」


「女の声だ。おまえたちの母親だろう」


妹君は唇を震わせた。


「母は……三年前に」


「知っている」


忠行は指輪を妹君へ返した。


「葛城はこれを肌身離さず持っていた。母親の声が聞こえると思っていたのではないか」


妹君は頷く。


「姉は、母が恋しかったのだと思います。母が逝ってから、ずっと……」


「その隙を、突かれた」


保憲が言った。妹君がはっとする。


「隙、とは」


「声が聞こえると思っていた。実際に声が聞こえ始めた。葛城はそれを、当然のことだと受け取ってしまった」


晴明は静かに言った。


「声の主は、最初から葛城様を狙っていたのではないと思います」


全員が晴明を見た。


「引き寄せられたのだと思います。葛城様が、あまりに強く母を求めていたから。その念が、霞の中に棲むものを呼んだ」


妹君の目に、涙が浮かんだ。


「では、姉が招いたと」


「責めているのではありません」


晴明は続けた。


「霞の中のものも、悪意だけで動いているわけではないはずです。葛城様の念に応えた。だから連れていった。それは……ある意味で、優しさに近いものだったかもしれない」


保憲が眉を上げた。


「随分と肩を持つな」


「ただ、それが葛城様にとって良いことかどうかは、別の話です」


忠行がそこで口を開いた。


「晴明」


「はい」


「おまえが霞の中へ入れ」


部屋が静まり返った。


保憲が父を見た。


「父上、昨夜われわれが入れなかった場所に、晴明を」


「押し返された理由がわかった」


忠行は静かに言った。


「あの霞は、人の念が凝ったものだ。強い力で押せば、押し返す。だが」


その眼が、晴明へ向く。


「この者は、昨夜の朱雀門で、怪異に向かって言ったな。忘れはしない、と」


晴明は息を詰めた。


「力で押すのではなく、応じてみせろ。おまえなら、霞の中のものと話ができるかもしれぬ」


「話、でございますか」


「葛城を返すよう頼め」


晴明はしばらく、その言葉の重さを測っていた。


霞の中に入る。昨夜、忠行でも保憲でも入れなかった場所へ。力でなく、言葉で。


「返してもらえなかったら」


「おまえの判断に任せる」


それは、途方もない信頼だった。あるいは途方もない無責任とも取れた。だが忠行の顔には、両方があるように見えた。


「わかりました」


晴明は立ち上がった。


妹君が縋るように言った。


「晴明様、姉を……」


「行ってみます」


それだけ答えて、晴明は外へ出た。


---


川沿いの霞は、昼間でも薄く漂っていた。


夜ほど濃くはない。だが近づくと、やはり肌が冷えた。葦の間から、白い煙のようなものが立ち上っている。


晴明は川岸に立ち、霞の中へ声をかけた。


「葛城様はおられますか」


返事はない。


「私は陰陽師の晴明と申します。葛城様の妹君に頼まれて参りました」


風が葦を揺らした。


霞が、わずかに動いた。


「……帰りなさい」


声がした。


若い、静かな女の声。


だが、葛城の声ではない。


「あなたが、葛城様を連れてこられたのですか」


「帰りなさい。ここはあなたの来る場所ではない」


「葛城様は、ご自分の意志でそこにおられますか」


しばらく間があった。


「……幸せにしている」


「それはあなたの判断ですか」


霞が揺れた。今度は大きく。


「葛城は、苦しんでいた。私が楽にしてあげた」


「母親の声を使って」


沈黙があった。


晴明は続けた。


「あなたは葛城様を救おうとした。それは本当だと思います。ですが、葛城様の妹君が、今も苦しんでいます」


「……知らない」


「知らないのではなく、見えないのでしょう」


霞がまた揺れる。


晴明は一歩、中へ踏み込んだ。冷気が肌を刺す。視界が白くなる。


「あなたは、誰ですか」


問うと、長い沈黙があった。


それから、声が変わった。


若い声ではなくなった。疲れた、古い声になった。


「……忘れた」


晴明は胸が痛くなった。


「いつから、ここにいますか」


「……覚えていない」


「名は」


「……ない」


霞の奥に、薄い輪郭が見えた。女の形をしている。だが顔は見えない。朱雀門の女とは違う。こちらは、顔を持っていたはずなのに、長い時間の中で失ったように見えた。


晴明は声を落とした。


「孤独だったのですね」


返事はない。


「だから、葛城様の念に引かれた。あなたも、誰かに求められたかった」


霞が、細かく震えた。


「……葛城は、私を必要としていた」


「はい」


「私がいれば、泣かなかった」


「はい。でも」


晴明は言葉を選んだ。


「葛城様には、まだここではないところで生きる時間があります。妹君がいます。形見の指輪があります。母を思い出せる場所があります。あなたが与えられるものより、そちらのほうが、葛城様には必要なのかもしれない」


長い沈黙があった。


川の音だけが聞こえた。


「……返したら、私はまた独りになる」


その声は、ひどく小さかった。


晴明は霞の中に、もう一歩踏み込んだ。


「忘れません」


霞が揺れた。


「あなたがここにいたことを、私は忘れません。名がなくても、顔がなくても。葛城様を想ったことを、覚えています」


しばらく、何も起きなかった。


それから、霞の奥から、白いものが流れてきた。


女の姿だった。


目を閉じたまま、眠っているように。だが息をしている。


晴明は膝をついて、その体を受け止めた。


冷たかった。だが、温かくなろうとしていた。


霞の中の声が、遠くなりながら言った。


「……覚えていてくれるか」


「はい」


「名がなくても」


「名がなくても」


風が吹いた。


霞は、ゆっくりと薄れていった。


葦だけが残り、川の音が戻ってきた。


晴明は葛城を抱えたまま、しばらく川岸に座っていた。


やがて葛城の目が、細く開いた。


「……ここは」


「都でございます」


葛城は空を見た。昼の空。薄い雲。遠くで鳥が鳴いている。


「夢を、見ていたような」


「ゆっくりなさってください」


晴明は立ち上がり、葛城を支えた。


帰り道、晴明は一度だけ振り返った。


霞はもうなかった。


川は光を受けて、静かに流れていた。


名もなく、顔もなく、それでも誰かを想い続けた何かが、ここにいた。


それだけは、確かだった。


---


賀茂家に戻ると、妹君が縁側で待っていた。


姉の姿を見た瞬間、妹君は声を上げて走り寄った。二人は言葉もなく抱き合った。


忠行はその様子を見て、何も言わなかった。


保憲が晴明の隣に来た。


「中に入れたか」


「はい」


「何がいた」


晴明は少し考えた。


「名前のない、古いものでした。孤独だったのだと思います」


「祓ったか」


「……祓ってはいません。ただ、話しました」


保憲は少し黙った。


「父上と似てきたな、やり口が」


「そうでしょうか」


「あの人は力で視るのではなく、ただ見る。おまえは力で祓うのではなく、ただ話す」


晴明は縁側の二人を見た。


葛城は妹君の肩に顔を埋めたまま、泣いていた。声を上げずに、静かに。妹君は何も言わず、ただその背を撫でていた。


「霞の中のものは、もう来ませんか」


晴明が聞くと、保憲は首を振った。


「わからぬ。孤独なものは、また誰かを求めるかもしれぬ」


「では」


「だが」と保憲は続けた。「おまえが覚えていると言った。それが、少しは縛りになるかもしれぬ」


縛り。


忘れないという言葉が、境になる。


晴明はそれを、朱雀門の夜にも使った。だが今日のそれは、あの夜と少し違った。あの夜は境を守るために言った。今日は、ただそう思ったから言った。


「兄上」


「何だ」


「怪異の中には、祓えないものがあるのでしょうか」


保憲はしばらく考えた。


「あるだろうな」


「ならば、陰陽師にできることは」


「共にあることだ」と保憲は静かに言った。「消せぬものと、消えぬものと、長く付き合うことだ」


夕暮れが近づいていた。


空が橙に染まり、賀茂家の庭に長い影が伸びる。


葛城の泣き声は、いつの間にか止んでいた。妹君が何か囁き、葛城が小さく頷くのが見えた。


忠行が縁側に出てきて、二人を見た。


何も言わない。


ただ、その眼が、二人の内側を静かに視ている。


晴明には、師が今何を見ているかわからなかった。だが、その顔に厳しさはなかった。


あるのは、ただ静かな、長い眼差しだけだった。


都の夜が来る。


また、どこかで怪異が生まれる。


人が生きる限り、欲も恨みも悲しみも尽きない。


それでも、と晴明は思った。


消えぬものの傍らに立つ者がいる。


自分はまだ、その入口にいる。


だが、歩いている。


灯明が、風もないのに揺れた。


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