第二話 封じられた文
賀茂家に届いたのは、夜明け前のことだった。
使いの者は顔を隠し、名も告げず、ただ朱塗りの文箱をひとつ置いて去った。下人が気づいたときには、門の前にそれだけが残っていた。
忠行は文箱を一目見て、手を止めた。
「保憲」
「はい」
「触れるな」
保憲は近寄りかけていた足を止めた。晴明も廊の端で息を詰めて見ている。
文箱は小ぶりで、螺鈿細工の美しいものだった。貴人の持ち物に違いない。蓋には鍵もなく、ただ細い紐が一重に巻かれているだけだ。何ということもない、よくある文箱である。
だが忠行は、その前にしゃがみこんだまま動かなかった。
目を細め、箱の中を見ている。
晴明は知っていた。師にはそれができる。閉じた器の内側を、開けることなく視る力が。師がそれをどう心得ているかは知らない。だが今、その眼が何かを捉えているのは確かだった。
やがて忠行は立ち上がり、晴明を見た。
「おまえには何が見える」
「……穢れてございます」
「どの程度だ」
「箱そのものが、というより……中から滲んでいるように思います」
忠行は頷いた。
「保憲、結界を張れ。この庭から外へ出さぬよう」
保憲はすでに動いていた。懐から符を取り出し、庭の四隅へ向けて素早く印を切る。空気がわずかに重くなる。
「父上、中は」
「指だ」
保憲の手が止まった。
「……指?」
「三本。女のものだろう。だが」
忠行はそこで言葉を切り、もう一度箱を見た。
「腐っていない。血もない。ただ、そこにある」
晴明は喉が乾くのを感じた。
指だけが、腐りもせず、ただ文箱の中にある。それはもはや物の怪の仕業というより、何者かが意図して封じたものだ。
「誰が届けたのでしょう」
晴明が問うと、忠行は答えない。代わりに保憲が言った。
「それより、誰に向けて届けたかだ」
賀茂家に届いた。だが宛名はない。使いは名を告げなかった。では、これは賀茂家へ向けたものなのか。それとも、賀茂家を経由して、別の誰かへ届けようとしたものなのか。
「開けますか」
晴明が聞くと、忠行は首を振った。
「開けることが目的ではない。これは問いだ」
「問い、とは」
「送った者が、こちらへ何かを聞いている」
晴明は考えた。指三本。女のもの。腐らぬまま封じられた。
問い。
「……行方を、聞いているのでしょうか」
忠行がちらと彼を見る。
「続けろ」
「指の持ち主の行方を。あるいは、指だけ残して消えた何かの行方を」
保憲が唸った。
「つまり、これを届けた者は、指の持ち主を知っている。だが残りを知らない」
「もしくは」と晴明は言った。「残りは、もうここにはない」
沈黙があった。
朝の光が庭に差し込み始めていた。文箱の螺鈿が鈍く光る。美しいものの中に、切り離された何かが眠っている。その不釣り合いが、かえって気味悪かった。
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忠行は午前中いっぱい、文箱の前から動かなかった。
食事も取らず、ただ時折、閉じた箱の中を視ては、何かを考える。保憲は屋敷の外へ人を出し、夜明け前に賀茂家の門前を通った者を調べさせた。晴明は文机の前で、思いつく限りの記録を引いた。指を封じる呪、女の行方を問う怪異、朱塗りの箱に関わる事例。
だが、合致するものが見つからない。
昼過ぎに、保憲の使いが戻った。
「夜明け前、賀茂家の近くで牛車を見た者がおりました。だが、家紋は見えなかったと。御簾が下ろされていたと申します」
「牛車か」
保憲は腕を組んだ。
「貴族の女か、あるいは女を装った誰かが運んだことになる」
忠行が口を開いた。
「箱の中が、変わった」
二人が振り向く。
「指が、動いた」
晴明は息を止めた。
「動いた、というのは」
「向きが変わった。北を向いていたものが、今は西を向いている」
指が、動いた。封じられたまま、箱の中で。
それは自ら動いているのか。それとも、どこかで誰かが動かしているのか。
「西か」保憲が呟く。「西といえば……」
「鴻臚館の方角だ」と忠行は言った。
鴻臚館。異国の使節が逗留する場所。都の西に置かれた、ある意味で都の外に最も近い場所。
「異国の者が関わっておりますか」
晴明が問うと、忠行は首を振った。
「場所が関わっているとは限らぬ。だが、西は死者の国の方角でもある。指が向くということは、そちらへ帰りたいということかもしれぬ」
「ならば」
晴明は思い切って言った。
「指の持ち主は、死んでいるのでしょうか」
忠行は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
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夜になってから、女が来た。
供も連れず、顔を深く隠して、賀茂家の門を叩いた。下人が取り次ぐより先に、忠行はそれを知っていた。
「通せ」
女は若かった。十八か、二十かそこらだろう。衣は上等だが、泥が跳ねている。急いで来たのだ。顔を上げると、目が赤く腫れていた。
「賀茂の翁様に、お縋り申し上げたく……」
忠行は女を見た。その眼で、どこまで見ているか、晴明にはわからない。
「文箱を届けたのはおまえか」
女は目を見開き、頷いた。
「姉が、消えたのでございます」
姉。
「三月前から、臥せっておりました。医師も匙を投げ、もはや長くないと言われ……ですが昨日の朝、目覚めると姉の姿がなく、床の中に、それだけが残っておりました」
指だけが残った。
体は消えた。
「姉上の名は」と保憲が聞いた。
「葛城、と申します」
「どのような病だったか、知っているか」
葛城の妹君は唇を噛んだ。
「最初のうちは、熱だと思っておりました。ですが、次第に……夜になると、誰かと話しているようで。声は聞こえるのですが、相手の姿が見えなくて」
晴明の背筋が冷えた。
「その声は、男でしたか、女でしたか」
葛城の妹君は驚いたように晴明を見た。
「……女でございました。若い、静かな声で。姉は、その声と長い時をかけて話しておりました。最後の夜も……」
「最後の夜」と忠行が繰り返した。
「はい。朝になると、姉は消え、指だけが残っておりました。血もなく、痛んだ様子もなく。まるで、そこだけ切り取られたように」
部屋の中に、しばらく沈黙があった。
晴明は文箱を見た。指は今も西を向いているはずだ。
誰かが葛城を呼んだ。三月かけて、少しずつ。そして最後の夜、連れ去った。だが指だけを残した。なぜ。
「残したかったのか。それとも、残ったのか」
思わず口に出すと、忠行が晴明を見た。
「どちらだと思う」
晴明は答えを急がなかった。
残したかった、なら、指は置き土産だ。戻れないことを知りながら、せめてひとつだけ。
残った、なら、連れていこうとしたが、できなかった。指だけが境の手前に落ちた。
「……残った、のではないかと思います」
「理由は」
「声が姉を呼んだなら、呼んだ者には姉を丸ごと連れる力があったはずです。ですが、指が残った。ということは、境を越える際に、何かが引っかかった」
保憲が頷いた。
「指は、こちら側に属していた」
「はい。葛城様の体のうち、指だけが都に繋がれていた。何かによって」
葛城の妹君が顔を上げた。
「……形見でございます」
全員が女を見た。
「母の形見の指輪を、姉はいつも左手に。病の間も外しませんでした。その指輪だけが、床に残っておりました」
晴明は目を閉じた。
そういうことか。
指輪が葛城を繋いでいた。母の形見という、この世への細い糸が。だから連れ去った何かは、指ごと切り離すより他になかった。
「姉を、取り戻せますか」
葛城の妹君の声は静かだった。泣いていない。だが、その静けさが、長く泣き続けた後の声に似ていた。
忠行はしばらく黙し、それから言った。
「指輪を持ってきなさい」
「……はい」
「それから、姉上が最後に話していた夜、窓の外に何か見えなかったか思い出せ。月でも、鳥でも、光でも」
葛城の妹君は考えた。
「……白い、霞のようなものが、窓の外を流れておりました。夜霧かと思いましたが、季節が合わぬと思った記憶が」
「それだけでいい」
忠行は立ち上がった。
「保憲、西へ向かう。晴明、来い」
晴明は頷いた。
だが部屋を出る前に、振り返って葛城の妹君に言った。
「指輪を持って、明朝またいらしてください」
葛城の妹君は頷く。
「姉は、まだ消えていない、と思っていていい?」
その問いに、晴明はすぐに答えなかった。
消えたのではない。連れられたのだ。まだ境の近くにいるかもしれない。だが、それは保証できることではなかった。
「急ぎます」
それだけ言って、晴明は師の後を追った。
夜の大路に出ると、風は西から吹いていた。
どこかで、白い霞のようなものが流れている。月の光を受けて、ほのかに輝きながら。
晴明はその流れを目で追いながら、歩き続けた。
指輪が繋いでいた命。
声に呼ばれて境を越えた女。
そして、誰かが送り出したはずの、あの静かな声。
怪異はいつも、人の情念の形をしている。
都の夜は、今夜も深かった。




