第一話 朱雀門に立つ影
賀茂家の庭は、夜になると音が減る。
風が枝を鳴らしても、それは音というより、星の気配に近かった。
若き安倍晴明は、廂の端に膝をつき、灯明のそばで墨をすっていた。墨の香りは落ち着く。だが今夜は、どうにも胸の奥がざわついていた。空は晴れている。雲はない。星の運びにも乱れは見えぬ。にもかかわらず、都のどこかで、何かが軋んでいる。
「手が止まっているぞ、晴明」
低く、よく通る声がした。
賀茂忠行である。
晴明は背筋を伸ばし、すぐに頭を下げた。
「申し訳ございません、師」
忠行は几帳の影から姿を現した。年齢を重ねてなお、痩せた身体に隙がない。眼差しは鋭く、晴明が墨をする手元より、その乱れた呼吸のほうを見ているようだった。
「心が騒ぐときほど、手を乱すな。陰陽の道は、まず己の内を整えるところから始まる」
「……はい」
そう答えながらも、晴明の耳は庭の外に向いていた。
虫の声が、ひとつ、急に止んだ。
忠行はそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。代わりに、晴明の前に一巻の暦注を置く。
「読め」
晴明が巻を開こうとした、そのときだった。
門のほうで、慌ただしい足音がした。
下人がひとり、息を切らして庭先まで駆け込んでくる。顔は青ざめ、額には汗が浮いていた。夜半に賀茂家へ駆け込む者は珍しくない。だが、この男の怯え方は、病や盗人のそれではなかった。
「た、忠行様……! どうか、お取り次ぎを……!」
忠行は眉ひとつ動かさない。
「何事だ」
「朱雀門に……朱雀門に、女が立っております」
晴明は顔を上げた。
「女?」
「は、はい。夜ごと、門の下に立っております。白い衣で、じっとこちらを見て……」
「それだけで、賀茂家へ駆け込んだのか」
忠行の声は冷ややかだった。下人はぶるりと震え、首を横に振る。
「見た者が、皆、熱を出すのでございます。昨夜見た門番は、今朝からうわ言ばかり申して……同じ夢を見ると……」
「どのような夢だ」
今度は、別の声がした。
廊の暗がりから現れたのは、賀茂保憲だった。
忠行の子であり、晴明にとっては兄弟子にあたる。父に似て細身だが、その眼には忠行とは違う柔らかさがある。もっとも、その柔らかさは人を安心させるためのものではなく、相手の懐へ静かに入り込むためのものだと、晴明は知っていた。
下人は保憲に向かって、縋るように言った。
「門の向こうから、誰かが呼ぶのです。名を……自分の名を、女の声で呼ばれると……」
そこで男は言葉を切り、唇を噛んだ。
「顔が、ないのでございます」
庭の空気が、すっと冷えた。
忠行はしばし黙し、やがて晴明を見た。
「おまえはどう思う」
突然問われ、晴明は一瞬だけ息を詰めた。だが、すぐに答える。
「顔のない女、名を呼ぶ声、高熱、同じ夢。穢れか、あるいは人の念が形を取ったものかと」
「浅いな」
忠行は即座に切り捨てた。
晴明は口をつぐむ。保憲が小さく笑った。
「だが、外してはいない。行ってみよう、父上」
忠行は頷いた。
「保憲、晴明。支度をしろ」
それだけで決まった。
晴明は胸の奥が熱くなるのを感じた。初めてではない。だが、師とともに夜の怪異へ向かうたび、自分がまだ門の外に立つ者であることを思い知らされる。学ぶ者。試される者。見定められる者。
それでも、行きたかった。
都の闇が、彼を呼んでいた。
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朱雀門は、夜の都にあってなお大きかった。
月は高く、門の輪郭を青白く照らしている。昼には人と車馬の行き交う大路も、今はひっそりと静まり返り、風が砂を撫でる音だけが長く伸びていた。
門番たちは、火を焚いていた。だがその火は頼りなく、まるで門の下だけ闇が濃いように見える。
忠行が近づくと、門番たちは深く頭を下げた。ひとりは顔色が悪く、毛布にくるまって座り込んでいる。噂の熱を出した男だろう。
保憲はその男の前にしゃがみこんだ。
「名は」
「……為長にございます」
「夢を見たな」
為長は震えながら頷いた。
「門の向こうに、女が立っておりました。顔は見えませぬ。いや、見えぬのではなく……そこだけ、何もないのでございます。なのに、声だけがして……」
「何と呼ばれた」
「……母が、幼いころにだけ呼んだ名で」
晴明は目を細めた。
忠行は門の柱に手を置き、目を閉じる。しばらくして、低く言った。
「穢れはある。だが、門そのものに巣食っているわけではない」
保憲は立ち上がり、周囲を見回した。
「誰かがここへ持ち込んだか、あるいは、ここを通って流れ込んだか」
晴明は門の下に立ち、地面を見た。砂の上には、無数の足跡がある。門番、使い、牛車を引く者、夜回り。だが、その中に、妙に浅い跡が混じっていた。まるで、足が地を踏んでいないような。
彼はしゃがみこみ、指先で砂をなぞる。冷たい。
「晴明」
保憲が呼ぶ。
「何が見える」
「足跡がございます」
「それは誰にでも見える」
「人のものではありません」
忠行が目を開いた。
晴明は続ける。
「門の外から内へ向かっております。ですが、重みがない。歩いているのではなく、引かれているようです」
保憲の眼が細くなった。
「引かれている、か」
そのときだった。
門番のひとりが、ひっと短く息を呑んだ。
皆が振り向く。
朱雀門の向こう、月明かりの届くぎりぎりのところに、白いものが立っていた。
女だった。
長い髪。白い衣。細い肩。
だが、顔だけが見えない。闇がそこに貼りついたように、何もない。
門番たちが後ずさる。為長は毛布の中でうめいた。
女は動かない。
ただ、そこに立っている。
晴明は喉の奥が冷えるのを感じた。恐ろしい。だが、それ以上に奇妙だった。怪異はたいてい、もっと濁っている。もっと禍々しい。目の前のそれは、あまりに静かだった。
保憲が低く唱え、指先で印を切る。
空気が張りつめた。
「下がれ、晴明」
だが晴明は動かなかった。
女の足元。
そのさらに向こう。
門の外の闇の中に、何かがある。
いや、何か、ではない。
人々の気配だ。
見えないはずのものが、見えた。
門の外に、幾つもの影がうずくまっている。老いた者、痩せた女、子を抱いた母、旅の途中で倒れたような男。都へ入れず、門の外で朽ちた者たちの気配が、折り重なるようにそこにあった。
晴明は息を呑んだ。
「師」
忠行がちらと彼を見る。
「申せ」
「女ひとりではございません」
保憲が術を止めた。
「何だと」
「門の外に、溜まっております。入れなかった者たちの念が。あれは、その先頭に立っているだけです」
忠行の眼が、初めてわずかに動いた。
「続けろ」
「名を呼ぶのは、門を越えたいからです。都の内にいる者の名を借り、内へ入ろうとしている」
門番たちがざわめく。
保憲は女を見据えたまま、静かに言った。
「ならば、あれは怨霊か」
晴明は首を振った。
「怨みだけではございません。飢え、寒さ、捨てられたことへの悲しみ……それらが混じっております。だから、顔がないのです。誰かひとりの顔ではない」
風が吹いた。
女の衣の裾が揺れる。
そして、声がした。
「……あけよ」
門番のひとりが悲鳴を上げる。
女の声は、若くも老いてもいない。遠く、乾いていた。
「……あけよ」
忠行が前へ出た。
「ここは帝の都。穢れをもって入ることは許さぬ」
女のない顔が、忠行へ向く。
その瞬間、門の外の闇がざわりと波打った。
保憲が呪符を放つ。符は空中で燃え、青い火となって女の前に散る。だが女は消えない。火の向こうに、ただ立っている。
「強いな」
保憲が舌打ちした。
忠行は晴明に言った。
「どう祓う」
試されている。
晴明は胸の鼓動を押さえ、考えた。
倒すのではない。
押し返すだけでも、また来る。
必要なのは、門を閉ざすことではなく、境を正すことだ。
「名を返します」
忠行の眉がわずかに上がる。
「ほう」
「都の内の名を借りさせぬようにし、門の外のものは外のものとして鎮めます。あれらは、入れなかったことに囚われております。ならば、ここが境であると示さねばなりません」
保憲が笑った。
「言うようになった」
忠行は短く頷く。
「やれ」
晴明は前へ出た。
足が震えているのが、自分でもわかった。だが止まらない。
懐から小さな紙片を取り出し、息を吹きかける。
紙は指の間で細く震えた。
「内なるものは内へ、外なるものは外へ」
声が、思ったよりよく通った。
「名は人に属し、影は影に属す。越えてはならぬ境を、今ここに定む」
紙片を地へ打つ。
それは砂の上に落ちた瞬間、細い光の線となって門の下を走った。左の柱から右の柱へ。見えない糸のように、境が結ばれる。
女が初めて動いた。
一歩、前へ出ようとする。
だが、見えない線に触れた途端、その白い姿が大きく揺らいだ。
門の外の闇から、幾つもの声が上がる。泣き声とも、風音ともつかぬ響きだった。
晴明は続けた。
「名を呼ぶな。ここにある名は、おまえたちのものではない」
女のない顔が、晴明へ向く。
その闇の奥に、一瞬だけ、無数の顔が見えた気がした。老若男女、飢え、疲れ、涙に濡れた顔。都へ入れなかった者たち。
晴明は息を吸い込む。
「だが、忘れはしない」
それは、教えられた詞ではなかった。
思わず口をついて出た言葉だった。
忠行が何か言いかけたが、止めた。
「この門に立つ者のことを、都は忘れぬ。ゆえに、退け。今宵は退け」
風が強く吹いた。
女の衣がほどけるように揺れ、その姿が薄れていく。門の外の気配もまた、潮が引くように遠のいた。
やがて、そこには何もなくなった。
ただ月明かりだけが、白く地を照らしていた。
門番たちは、しばらく声も出せなかった。
為長の熱に浮かされた目から、すっと力が抜ける。
保憲が長く息を吐いた。
「危ういな、おまえは」
晴明は振り返る。
「……申し訳ございません」
「褒めているわけではない」
保憲は苦笑した。
「だが、悪くもない」
忠行は門の外を見たまま、静かに言った。
「晴明」
「はい」
「おまえは、見えすぎる」
その声には叱責も賞賛もなかった。
ただ事実を述べる響きだけがあった。
「見えるものすべてに心を寄せれば、いずれ己を失うぞ」
晴明は頭を下げた。
だが胸の奥では、まだ先ほどの無数の気配が残っていた。都の外に積もるもの。門の内にいる者が見ようとしないもの。怪異とは、闇から来るだけではない。人が目をそらしたところに、静かに溜まっていくのだ。
帰り道、保憲が隣を歩きながら言った。
「父上は厳しいが、今夜のおまえを認めた」
晴明は驚いて顔を上げた。
「そうでしょうか」
「でなければ、“やれ”とは言わぬ」
しばし沈黙があった。
夜の大路に、二人の足音だけが続く。
「兄上」
「何だ」
「怪異は、これからも都に現れるのでしょうか」
保憲は少し考え、月を見た。
「都がある限りな」
「では、祓いきることはできませぬか」
「できぬだろう」
保憲はあっさりと言った。
「人が生きる限り、欲も、恨みも、悲しみも尽きぬ。陰陽師はそれを消す者ではない。境を見極め、崩れぬよう支える者だ」
晴明はその言葉を胸に刻んだ。
賀茂家の門が見えてくる。
庭には、出る前と同じように星があった。だが晴明には、もう同じ星には見えなかった。
都の夜は広い。
その闇の中には、まだ名も知らぬ怪異がいくつも潜んでいる。
そして自分は、ようやくその入口に立ったばかりなのだ。
灯明の火が、風に揺れた。
その小さな揺らぎを見つめながら、安倍晴明は初めて、自分がこの都の闇と長く付き合うことになるのだと知った。




