第十話 月と笛と鬼
七月の満月の夜、陰陽寮の近くの橋の上に、男が一人立っていた。
晴明が気づいたのは、夜の見回りの帰り道だった。
晴明は大舎人寮に籍を置きながら、陰陽寮へ出向という形で天文観測の記録係を任されていた。正式な官職ではない。忠行がそう手配した。大舎人寮から繁雑な官司への出向は珍しいことではなく、表向きは何ら不自然ではなかった。だが実のところ、宮中の宿直で耳に入る不穏な噂を忠行へ伝え、陰陽寮の実務を傍らで学ぶ、それが晴明の本当の役目だった。
陰陽寮では、月に数度、夜の天文観測の記録を取りに大路へ出る。星の動き、月の色、風の向き。それを手控えに書き付けて戻る、地味な仕事だ。今夜の当番は晴明だった。
橋の上の男は、笛を吹いていた。
月明かりの中で、ただ一人、欄干に凭れて。その音は遠くまで通り、夜の大路に静かに広がっていた。
晴明は足を止めた。
笛の音が、妙だった。
上手い、というだけではない。何かが混じっていた。音の隙間に、別の何かが紛れている。晴明には聞こえた。笛の音に引き寄せられた、薄い気配が。闇の中から少しずつ、橋の方へ近づいてくるものが。
だが男は気づいていないのか、気にしていないのか、ただ吹き続けている。
晴明は橋へ向かった。
「少し、よろしいですか」
男は笛を口から離し、晴明を見た。
三十がらみで、顔立ちは整っているが、どこか抜けた雰囲気がある。衣は上等だった。身分の高い者だとわかる。だが橋の上で一人、夜中に笛を吹いているのは、どう見ても普通ではない。
「何か」
「この橋で笛を吹くのは、今夜が初めてですか」
男は少し考えた。
「いや、先月も来た。先々月も」
「毎月、満月の夜に」
「月が明るいと、気持ちよく吹けるから」
晴明は橋の欄干の向こうを見た。川の水面が月を映している。その水面の下に、薄く気配が溜まっていた。
「あなたの笛が、何かを引き寄せています」
男は欄干の向こうを見た。
「あれか」
「見えるのですか」
「何となく。水の中に、いるな」
晴明は男を見た。
「怖くないのですか」
「怖いが」男は少し笑った。「逃げるのも癪だ」
妙な男だと思った。
「賀茂忠行様のところに出入りしている者か」と男が聞いた。
晴明は少し驚いた。
「ご存じですか」
「陰陽寮の近くで、夜中に天を見ながら歩いているのは、あそこの者くらいだ」
「安倍晴明と申します。忠行様の下で学んでおります」
「源博雅だ」
晴明は少し驚いた。
源博雅。醍醐天皇の孫。近衛府の中将を務める、れっきとした源氏の貴公子。その男が、夜中に橋の上で一人笛を吹いている。
「なぜ毎月ここへ」
「音が良いのだ、この橋は」と博雅は言った。「川の上だから、音が遠くまで伸びる」
「それだけですか」
博雅は少し黙った。
「最初に来たとき、向こう岸から返しがあった」
「返し、とは」
「同じ曲を、別の笛で吹いた者がいた。向こう岸の暗がりに」
晴明は川の向こうを見た。
「人ですか」
「人ではなかったと思う」
博雅はあっさりと言った。
「だが、音は良かった。だから、また来た」
晴明は川の水面を見た。
溜まっている気配。水の中の、薄い影。
笛の音に引き寄せられて、ここに集まってきた何かが。
「あなたの笛は、怪異を引き寄せます」
「それは困るか」
「周囲の者には、良くないかもしれません」
博雅は少し考えた。
「だが、あちらから何かしてきたことはない。ただ、音を聞いている」
「音を聞いている、とはどういうことですか」
「おまえには見えるのだろう。水の中のものが、笛の音に合わせて動いているか」
晴明は水面を見た。
確かに動いていた。薄い影が、笛の音のあった方向へ、ゆらゆらと揺れていた。怒っているのでも、狙っているのでもない。ただ、音に揺れている。
「揺れています」
「そうだろう」博雅は満足そうに言った。「良い音は、何であれ動かす」
晴明は少し考えた。
この男は、怖いのに逃げない。見えているのに祓おうとしない。ただ、音を続ける。
「一つ聞いてもよいですか」
「何だ」
「向こう岸から返しがあったとき、怖かったですか」
博雅はしばらく黙った。
「怖かった」
それから、笛を見た。
「だが、音が良かった。怖くて、でも音が良いというのは、どちらが勝つかわからない」
晴明は笑いそうになった。
「忠行様の弟子の立場からすると、近づかないことを勧めるべきですが」
「勧めるだけか」
「止める権限は私にはありません。正式な官職もございませんので」
博雅は少し目を細めた。
「官職もない者が、なぜ陰陽寮に出入りしている」
「大舎人寮から出向という形で、記録係を務めております。ですが本当のところは……忠行様が、そうさせてくださっています」
「ほう」
博雅は晴明をじっと見た。
「賀茂忠行が、わざわざ引き取るほどの者か」
「買いかぶりだと思います」
「忠行が買いかぶりをする男だと思うか」
晴明は答えられなかった。
博雅は笑った。声を出して笑った。橋の上に、その笑い声が響いた。
「正直な男だな」
「……よく言われます」
「良いことだ」
博雅は笛を構えた。
「向こう岸の何かと、もう一度音を合わせたいのですか」
博雅は川を見た。
「合わせたい。だが、こちらから行く気はない。向こうが来るなら、来ればいい」
「来たら、どうします」
「一緒に吹く」
晴明はしばらく博雅を見ていた。
この男は、恐れながら、逃げない。怪異を怪異として正しく怖れながら、それでも音の方を選ぶ。
「では、私も一緒にいます」
博雅が晴明を見た。
「なぜ」
「何かあったとき、私がいれば多少は役に立ちます」
「おまえが怖いのか」
「怖いです」
博雅はまた笑った。
「正直だな、本当に」
それから、笛を構えた。
「聞いていろ。悪い音ではないから」
晴明は橋の欄干に凭れた。
博雅が吹き始めた。
さっきと同じ曲だった。月明かりの中で、音が川の上に広がっていく。水面の影が、また揺れ始めた。
しばらくして、向こう岸の暗がりから、音がした。
別の笛の音だった。
細く、高く、人の出せる音より少し透きとおっている。博雅の笛に絡まるように、同じ曲を追ってくる。
博雅の目が、細くなった。嬉しそうに。
晴明は向こう岸を見た。
暗がりの中に、薄く人の形をしたものがあった。笛を持って、立っている。顔は見えない。だが、音だけは確かにあった。
二つの笛が、月明かりの橋の上で重なった。
晴明は息を詰めて聞いていた。
怖ろしかった。
だが、音は良かった。
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曲が終わると、向こう岸の気配は薄れた。
川の水面の影も、静かになった。
博雅は笛を下ろし、長く息を吐いた。
「良かった」
「……良かった、ですね」
晴明は自分でも驚いた。そう思っていた。
博雅が晴明を見た。
「忠行の弟子が、そういうことを言うのか」
「言ってはいけませんか」
「いや」博雅は笑った。「嬉しい」
しばらく二人は川を見ていた。
「また来るか」と博雅が聞いた。
「来月も、ここへ来るのですか」
「来る」
「では」晴明は少し考えた。「来ます。一人よりは、二人の方がいい」
「怪異のためか」
「それもあります。ですが」
晴明は向こう岸を見た。
もう何もない、暗がりだけの岸を。
「あの音を、また聞きたいと思いました」
博雅は満足そうに頷いた。
「では来月、ここで」
「はい」
博雅は橋を渡って去っていった。その背中は、妙に軽かった。
晴明は一人、橋の上に残った。
川の水面に、月が映っている。
向こう岸の暗がりに、もう何もない。
だが確かに、音はあった。
怪異が奏でた笛の音が、まだ耳の奥に残っていた。
怖ろしくて、美しいものが、この都にはある。
晴明はそれを、今夜初めて知った。
手控えを見ると、天文観測の記録が半分しか書けていなかった。
明日、忠行に何か言われるかもしれない。
だが今夜は、それでいいと思った。
灯明の灯る陰陽寮へ向かいながら、晴明はもう一度だけ、川の方を振り返った。
月だけが、静かに水面に揺れていた。




