第十一話 追儺の夜
十二月大晦日。宮中を包む空気は、昼から異常な熱を帯びていた。
寒風のなかを駆けるのは、大舎人寮の舎人たちだ。天皇の警護から雑用までをこなす下級官人――それが、いまの安倍晴明の表の顔だった。安倍氏は古い氏族とはいえ、現在の晴明の家柄は宮廷の中枢とは程遠い。晴明もまた、汗をぬぐいながら資材を運ぶ一人の青年に過ぎなかった。
だが、晴明にはもう一つ、影のように通い詰める場所がある。
陰陽寮だ。
師である賀茂忠行は、めったに手ほどきなどしてくれない。
――星を見ろ。
――過去の記録を解け。
――異変の匂いを覚えておけ。
教えといえば、いつもそれだけだ。
だからこそ、大舎人として宮中を走る時間は、晴明にとって格好の「観察」だった。
夜半、誰もいない渡殿を叩く、湿った足音。
前触れもなく高熱にうなされ、黒い斑点を浮かべる公卿。
御簾の暗がりに佇む、目鼻のつぶれた女の影。
そうした都の「傷口」のような噂を拾い集め、忠行へ報告する。それがいつしか晴明の日常となっていた。
いつの日か、陰陽師として正式な職を得られるのか。それは自分でもわからない。ただ、人の目には見えない「蠢くもの」がこの都の皮ふの下に確かに存在することを、晴明はすでに知っていた。
「晴明! ぼんやりするな、そっちを運べ!」
怒声が飛ぶ。
「はっ」
晴明は、束ねられた葦の束を抱え上げた。
今夜は追儺――年の終わりに宮中へ溜まった疫病や邪気を、力ずくで国外へ追い払う大儀式だ。
準備の庭には、異様な品々が並んでいた。
邪気を祓う桃の弓。風を切り裂く葦の矢。桃の木を削り出した杖。
そして――ひときわ禍々しい光を放つものが、敷物の上に鎮座していた。
黄金の四つの目を持つ、異形の面。
「方相氏」の面だ。
晴明の足が止まる。
四つの黄金の眼球が、冬の薄日にギラリと反射していた。
この面を被り、熊の皮を纏った方相氏が、盾と戈を手に侲子と呼ばれる童子たちを従えて跳ね踊る。人でありながら鬼の姿を借り、本物の鬼を狩るのだ。
「……鬼を追う者の顔が、いちばん鬼に似ている」
晴明がぽつりと呟く。
「面白いことを言う」
背後から、低く滑らかな声が落ちてきた。
振り返ると、賀茂保憲が立っていた。忠行の息であり、若くして陰陽道の鬼才と謳われる男だ。
「兄上」
「朝から何度もその面を見ているな、晴明」
「……気になりまして」
晴明は再び面に目を戻した。「四つも目があるのは、何故でしょう」
保憲は唇の端をわずかに吊り上げた。
「ふたつの目では、眩しすぎて見えぬものがあるからかもしれんぞ」
冗談とも本気ともつかぬ捨て台詞を残し、保憲は優雅に去っていく。
「安倍! 何をしている、走れ!」
「申し訳ありません!」
晴明は胸の奥のざわめきを押し殺し、再び走り出した。
日が落ちると、北風が牙を剥いた。
だが晴明の肌を刺すのは、寒さだけではない。
昼過ぎから、宮中の北東――艮の方角に、泥のような粘り気のある気が溜まり続けていた。
目には見えない。しかし、そこだけ空気が腐ったように重い。
亥の刻。
どんと太鼓が鳴り響き、追儺が始まった。
大内裏に焚かれた松明が、冬の夜空を赤く染め上げる。
「うおーっ!」という掛け声とともに、方相氏が進み出た。
熊の皮を羽織り、四つの金目が赤々とした炎を映す。異形そのものだ。
その後ろを、紺の衣を着た幼い侲子たちが「鬼を追い払え!」と声を張り上げて続く。さらにその後ろを、晴明たち大舎人や公卿の列が追う。
「鬼をやれ! 邪気を祓え!」
方相氏が戈で盾を打ち鳴らす。
――カン! カン! カン!
乾いた甲高い音が夜の宮殿に響き渡り、群臣の叫びが重なる。
桃の弓が絞られ、葦の矢が闇に向かって放たれる。
晴明も列に混じって歩を進めながら、皮膚で感じていた。
効いている。
あちこちに滞っていた目に見えぬ「淀み」が、大勢の人間の叫び、弦の弾ける音、松明の煙に押し出され、津波のように宮城の外へと崩れ落ちていく。
(術ではない……)
晴明は息を呑んだ。
一人の凄腕の陰陽師が呪文を唱えているのではない。
決められた装束をつけ、決められた道具を突きつけ、決められた声を張り上げる。
何世代もの人間が、ただ愚直に同じ「形」を繰り返してきた。その圧倒的な「人間の気流」そのものが、目に見えぬ悪霊を押し潰しているのだ。
これが、儀式というものの真の力か。
晴明がその事実に打ち震えた、次の瞬間だった。
ピタリと、足が止まった。
――北東の暗がり。
大極殿の陰、光の届かぬ暗がりの奥に、「それ」はいた。
激しい掛け声も、盾を叩く音も、晴明の耳から一瞬で吹き飛んだ。世界から音が消えた。
舎人ではない。
列から外れた人間でもない。
そこにいるものは、揺れていた。
人の背丈ほどはある。二本の足で立ち、腕らしき影もある。
だが、輪郭が揺らめいている。まるで、濃密な漆黒の液体を人の形に流し込んだかのように。
顔がない。
いや――見ようとすると、視界が滑るのだ。
目があるかと思えば消え、口を探そうとすると鼻の形さえ崩れる。
だが、間違いなかった。
「それ」は、晴明を見ていた。
視線のような粘着質な気配が、晴明の眉間を射抜いていた。
ゾワリと、頭皮から背筋にかけて氷水を流し込まれたような戦慄が走る。
鬼だ。
人々が声を張り上げて追っている本物の「邪悪」が、儀式の嵐を避けるように、あの暗がりにポツンと残っていた。
周りを見渡す。
方相氏も、侲子も、大舎人たちも、誰も気づいていない。
叫びながら、その脇を通り過ぎていく。
見えていないのだ。誰ひとりとして。
晴明と、顔のない鬼だけが、闇の中に取り残されていた。
(逃げろ)
本能が叫ぶ。符もない、印も結べない今の己では、束になってかかっても勝てない。
忠行様を呼ぶか? 保憲兄上を呼ぶか?
だが、晴明の足は一歩も動かなかった。
視線を外した瞬間に、喰われる。
直感がそう告げていた。
晴明は、逃げずに見つめ返した。
黒い輪郭の奥にある、目に見えぬ「眼」を、まっすぐに見据えた。
時間が永遠に引き延ばされたかのような静寂。
対峙は、数息だったかもしれない。
やがて――鬼が動いた。
晴明の全身の筋肉が硬直する。
来るか――!?
違った。
鬼は、ゆっくりと一歩、後ろへ退いた。
晴明は瞬きすら忘れて見つめ続けた。
もう一歩。
漆黒の影が、背景の夜の闇と同化していく。
ヒュッと冷たい北風が吹き抜け、松明の火が大きく揺れた。
次の瞬間、そこにはただの黒い空間しか残っていなかった。
「……ッ」
晴明の口から、浅い息が漏れた。
勝ったのではない。追い払ったのでもない。
己が恐れずに見つめ返したから、向こうが興を削がれて「退いた」のだ。
「安倍! おい晴明! 何をぼんやりしている、置いていくぞ!」
遠くから同僚の声が聞こえ、晴明はハッと我に返った。
「いま行きます!」
晴明は走り出した。だが、一度だけ北東を振り返る。
そこにはもう、ただの冬の夜があるだけだった。
追儺が終わり、片付けが始まったのは深夜だった。
寒さに震えながら撤収作業をする舎人たちの輪から少し離れ、晴明はかじかんだ自分の両手を見つめていた。
「北東で、何と目を合わせた」
静かな声がした。振り返ると、保憲が立っていた。
「……兄上」
「お前だけが、あそこで息を止めていた」
「気づいておられたのですか」
晴明は隠さず話した。
暗がりに佇む、顔のない黒い影。
見ようとすると滑る輪郭。
強烈な視線。
そして――自分が退かずに見つめ返したら、向こうから闇へ消えていったことを。
保憲は静かに耳を傾けていたが、やがてフッ……と冷たい笑みを漏らした。
「追わなかったのは正解だ。今の晴明では、一息に喰われていた」
「……あれは、何だったのでしょう。追儺の儀式を以てしても、祓えなかった」
「形だけの儀式など、その程度だ」
保憲の瞳に、深い影が落ちる。
「大勢の人間が集まって声を張り上げれば、雑鬼は逃げる。だが、心底恐ろしい本物の鬼は、人間の大声など蚊ほどにも思わん。ただ……『見えている者』の視線を嫌がっただけだ」
「私を……ですか」
「そうだ。晴明、覚えておけ」
保憲が晴明の肩にポンと手を置いた。その手は驚くほど冷たかった。
「お前があれを見たのと同時に、向こうもお前の顔と『目』を覚えた。鬼は一度覚えた人間の匂いを、絶対に忘れん」
晴明の胸の奥が、冷たく冷え切っていく。
その時、ふたりの横をひとりの男が通り過ぎた。
賀茂忠行だ。
師は足を止めず、横目すら向けず、静かに北東の暗がりを一度だけ一瞬チラリと一瞥した。
そして、何事もなかったかのように夜の闇へと消えていった。
「……忠行様にも、見えておられたのですね」
晴明の呟きに、保憲は答えなかった。
宮中の灯火が、ひとつ、またひとつと消されていく。
晴明は最後に、もう一度だけ北東の暗がりを見つめた。
次は、いつ来るか。
根拠はなかったが、必ずまた会うという確信だけがあった。
次に相まみえる時、己はただ見つめるだけの「大舎人」ではいられないだろう。
夜空には、刺すように鋭い冬の星々が輝いている。
晴明は強く唇を噛み締め、新年の冷気の中を、しっかりと踏みしめて歩き出した。




