第28話 旅立ちの決意
押さえつけていた想いが涙となって、とめどなく溢れた。ロザリアは自室の扉に背を預けながら、涙で濡れる頬を何度も拭った。
(わたくし……どうして、こんなに……)
涙の正体は、わからなかった。悲しみなのか、それとも恐れなのか。しかし、喜びの涙ではないことだけはわかっていた。原因は明らかだ。
──シュヴェルトが、セレンと結婚するかもしれない。
その可能性を突きつけられたとき、彼らのことを直視できなくなった。身体が熱を失い、冷たく張り詰めたような感覚がした。まるで、夢の中の自分と重なり合ったかのようだった。
彼にドレス姿を褒められたことが、遠い昔のことのようだ。嬉しかった。なのに、いつの間にか、それだけじゃ満足できない、欲張りになっていた。
自分以外の人間が、彼と結ばれることを想像するだけで、胸をかきむしりたくなってくる。ようやくわかった。これが、いつか聞いた「自分のものにしたい」という気持ちなのだろう。
認めざるを得なかった。
──シュヴェルトに、恋をしている。
王の言葉を思い出すと、胸が苦しくなる。
(『セレンだって子どもの頃には、お前の家に嫁ぎたいと……』)
シュヴェルトという人は、ロザリアが恋をしてしまうほど魅力的なのだ。セレンが彼に惹かれたって、何もおかしくはない。シュヴェルトと知り合う前の彼らの交流を、ロザリアは知らない。
ユースとセレンが、どれほど仲睦まじく見えようと、恋心の在処なんて、やはり他人にわかるものではなかったのだ。彼らのためだというのは、ロザリアの言い訳にすぎない。そうであってほしいという願望から、セレンの気持ちを決めつけていたのかもしれない。
(セレン様がシュヴェルト様との結婚を望めば……わたくしは……)
ロザリアは胸をぐっと押さえつけた。
ロザリアの心の中にはすでに、嫉妬の種が存在している。それが芽吹きかけているということを、否応なく自覚した。
(それでも……嫉妬で国を滅ぼすなんて……絶対に嫌ですわ!)
涙を強引に拭い去り、ロザリアは顔を上げる。予知した未来を現実にさせないために、できることは何か。一番に思いついたのは、簡単なことだった。
(──わたくしが、彼らのそばを離れれば、きっと……!)
あの夢はいつも、ロザリアがセレンと対峙するところから始まっていた。ならば、彼女と会わないようにしていれば、予知した未来の通りになど、なり得ない。
今ならば間に合う。これ以上、シュヴェルトのことを、好きになってしまう前に……。
そうして、胸の痛みをバネに、ロザリアは王都から離れることを決意した。
*
次の日の朝。
「何? 旅に出たいだと?」
「まあ……!」
朝食のあとのお茶の時間に、ロザリアはさっそく両親へ打ち明けた。父は眉をひそめ、母は目を丸くした。
余裕があるように見えるよう、ロザリアはゆっくりと紅茶で喉を潤してから、カップをそっと置いた。
「ええ。魔術学院も、あと一年で卒業ですもの。国内を自由に見て回れるのは、今しかありませんわ」
新しい学年が始まるまで、学院は二ヶ月ほどの休暇期間となる。その間に、見識を深めるため、旅に出たいと申し出たのだった。
休暇が終わる頃にはきっと、セレンの婚約者も決まっているだろう。もし、その相手がシュヴェルトだとして、まだ心の整理がつかないようであれば……王都に戻らず、この国を離れることも覚悟しておかなければならない。
そのためにも、旅に出て経験を積むことは有益になるだろう。反対されれば、また一人でこっそり抜け出すことも辞さないが……
ロザリアの考えを見透かしたかのように、口を開いたのは母であった。
「この前のように黙って出かけてしまうのでなければ、お母様は応援しますわ」
勝手に街へ出たことを引き合いに出し、牽制された。念を押すように、じっと見つめられる。こっそり行くのは難しいだろう。
けれど、旅に出ること自体を、母に賛成されたのは意外だった。
対して父は、ふむ、と唸った。
「昨今は何かと物騒だ。伴を最低でも5人はつけさせるなら……」
「5人!? 多すぎますわ! お父様もおっしゃっているではありませんか。『魔術師たるもの、一人で立つべし』と!」
学院で身につけるのは魔術の実力だけではない。貴族が多く通う学院では、魔術に限らず身を守る術も学ぶ上、平民の暮らしを知るための野外活動として、街での振る舞い方を学んだり、キャンプで自ら料理を作ったりといった授業も受けてきた。
おかげで、一人旅だってできると自負している。ロザリアは胸を張ったが、父はまだ納得がいかなそうに眉をひそめた。
「それは魔術学院長としての言葉であってだな……」
「わたくしだって、もうすぐ魔術学院の最高学年生になりますのよ。これまで学んできたことを、認めてはくださらないのですか?」
父は、ぐうっと唸った。
「あら、痛いところを突かれましたわね」
母がどこか楽しそうに囁く。そしてなぜだか、ロザリアにだけわかるようにウインクを飛ばしてきた。応援すると言ってくれた通り、父を説得する手助けをしてくれるつもりなのだろうか。
父と同じかそれ以上に心配性であったはずの母が、なぜこんなにも味方をしてくれるのだろう。首を傾げながらも、ロザリアはとにかく、父に畳みかけた。
「王都への魔物侵入の件で物騒だとおっしゃるのでしたら、その件を受けて今はむしろ周囲の魔物が排除され、街道の警備も強化されているのではないですか?」
「む……確かにそうだが……」
否定できず、父は言い淀む。
加えて、王都にはまだ魔術障壁を破壊した者が潜んでいるかもしれないのだ。娘を王都から離れさせたほうが、安心できるのではなかろうか。
無論、父はロザリアがそのことを知らないと思っているため、口にすることはないだろう。魔術障壁の件はすでに、経年劣化による事故だったと公表されている。それが民を安心させるための嘘であることを、当のロザリアは……シュヴェルトから内緒で教えてもらったのだった。
カップを握る手に力が入る。まだ半分残る紅茶の水面に、唇を噛み締める自分の顔が映った。ロザリアはカップを軽く持ち上げ、水面を揺らした。ふわりと舞った紅茶の香りに、少しだけ苦味を感じた。
紅茶が冷め始める前に、父は一息に飲み干して、カップを置いた。
「それでも、一人で行くのはならんぞ……少し考えさせてくれ」
そう言って、席を立った。
父が部屋からいなくなったあと、母がこそこそと席を立ち、ロザリアの隣に座り直した。
「あの調子だと、お父様もきっとわかってくださるわ」
「そうだと良いのですけれど……それはそうと、お母様が真っ先に賛成してくださるとは、思っておりませんでしたわ」
「あら、だって──」
母は口元に手を添えて、ロザリアのほうへ身を寄せた。
「──想い人と行くのではなくって?」
「ち、違いますわ!」
「あら、隠し事をしたって、お母様はお見通しですわよ」
「本当に、違いますの……」
ロザリアの声は揺れていた。母が思っているのとは、まるで反対だ。想い人と行くのではなく、想い人を忘れるために行こうとしているのだから。
「……ごめんなさい。からかいすぎましたわね」
俯いたロザリアの頭を母の手が撫でた。それで喜ぶなんて、小さな子どものようで気恥ずかしかったが、心地よい母の手を拒むことなどできず、されるがままでじっとしていた。
しばらくして、母は頭を撫でていた手を頬へと滑らせ、ロザリアの顔をそっと上向かせた。
「ロザリアも、もう立派な一人のレディですもの。あなたのやりたいことを信じて、応援したいという気持ちは本当ですわ」
「お母様……」
「ふふ。ロザリアを見習って、お母様もしっかりしないといけませんわね」
母は娘の頬を両手で包み、誇らしげに微笑んだ。ロザリアはそんな母と、目を合わせていられなかった。
旅に出たいと思った本当の理由は、応援してもられるようなものじゃない。誇りに思ってもらえるほど、立派な娘なんかじゃない……。
母の手の温もりに目を閉じながら、ロザリアの感情は複雑に揺れていた。




