5.5
「俺は、逃げているのかな……」
鳴海は窓の外に向けていた視線を私に向けて問いかけてくる。そんな鳴海の視線を受け、私は逃げているのだろうかと言葉を口にした鳴海に向かってこう答えた。
「私にはそう見えます」
はっきりとした私の言葉に、鳴海は「そう」と薄く笑っただけだった。少し目を伏せる鳴海に、私は情けなどかける気はなかった。
「6月5日、あの大雨の日に森沢さんは鳴海さんと待ち合わせをして会いました。そしてその時に別れて欲しいと言ったそうです」
鳴海に私は突き付ける。森沢に聞いた話。私の考え。鳴海の状況。鳴海の状態。鳴海と森沢の事。
それらを淡々と説明する。
「同じ6月5日、大雨の日に鳴海さんは小さくなったんでしたよね。どちらも同じ6月5日です。何か関係があると考えるのは自然ですよね」
その問いに鳴海は薄く笑ったまま、「そうだね」と答えた。
「鳴海さんには森沢さんの記憶がなかった。『彼女』である森沢さんの記憶だけが、鳴海さんの中から消えていた。それがどういうことか、解りますよね?」
鳴海はその問いに特に何も言わなかった。だけどその顔は、まるで全ての答えを受け入れているかのような、悟っているようなそんな表情だった。
「記憶喪失っていうのは、何か嫌なことやストレス、忘れたいことがあったりした時になるものなんだそうです。まぁ、そのほかにも多々別の理由、例えば脳に強い衝撃を受けた時、というのもありますが、多分鳴海さんには当てはまらないでしょう」
鳴海は私の方をじっと見たままこっちへこい、と言っているかのように手招きした。
私が鳴海に近付くと、鳴海は外を指さし、「星が見えないんだよね」と今はどうでもいい事を言う。
「鳴海さん」
「何?」
「鳴海さんは、思い出したくないんですか?」
彼女のことを。
森沢のことを。
「ちぃもさっき言ったじゃない。記憶喪失っていうのは嫌なことや忘れたいことを抹消するために起こる現象だって」
「だから」、と鳴海は少し間を置き続きの言葉を口にした。
「『俺』がそう望んだんなら、思い出すべきではないと、そう思わない?」
鳴海は微笑みながら私に問いかける。
『思い出すべきではない』と鳴海は言う。それが鳴海の答え。鳴海の出した結論であり解答であり、未来。
だけどそれは。
「……森沢さんが鳴海さんに別れを切り出したのは、鳴海さんに自由になって欲しかったからだそうです」
私は知ってる。
森沢の気持も、そして、鳴海の気持も。
「鳴海さんはとても優しかったそうです。珈琲好きなくせに、珈琲が苦手な森沢さんのために呑まなくなったり、泳ぐのが苦手な森沢さんのために一緒に練習したり。それがどういうことなのか、私にだって解ります」
鳴海の事を話してくれた、森沢の顔を思い出す。
「好きだったからです。鳴海さんが森沢さんのことを、本当に好きだったから。だからそんなに優しくなれた。自分の事を我慢してでも、森沢さんのために何かしたかった。森沢さんに幸せになって欲しかったから。森沢さんを笑顔にしたかったから。森沢さんが、大事だったから」
鳴海の自由を望んだ彼女。
「森沢さん、後悔してました。鳴海さんにあんなこと言わなければ良かったって。それは鳴海さんもあの時聞いてましたよね?」
最初に森沢に会ったときに。
「大事な人から逃げていいんですか?鳴海さんにとって、森沢さんは一番大事な人なんですよ。別れを切り出されて落ち込んで、傷ついて、記憶を消して………記憶を消して、森沢さんの事を忘れて、小さくなって彼女の前から姿を消してしまうほどに、それほどまでに好きになった人なんですよ!」
鳴海が小さくなった理由。
それはきっとそういう事だと思う。フラれた事実をなくすために記憶を消した。彼女から逃げるために小さくなった。
そんな鳴海に言わないといけない言葉。それは。
「鳴海さん………、諦めるのはまだ早いんじゃないですか」
諦めるな。
鳴海なら。貴方なら掴めるはずなのだから。。
鳴海が森沢をどれだけ好きだったかを知っている。今も昔も、彼女を大事に大切に想っているからこそ、こんな姿になってしまい記憶を無くしてしまい、彼女の事だけを考えて行動するそんな鳴海だからこそ。
森沢が別れを切り出したのが、鳴海を想っての事だから。
絶対に掴める。
取り戻せる。
彼女も。彼女の望んだ鳴海の自由も。
逃げ出さずに向き合えば、貴方は掴むことができるはずだから。
その後鳴海は暫く黙ったままだった。静寂が部屋を包んでいたが、そんな中「ありがとう」と鳴海は小さくぽつりと呟いた。
見たことない顔で笑う鳴海がそこにいた。
その夜、深夜から降り始めたらしい大雨に隠れるようにして、鳴海の姿は部屋から忽然と消えていた。森沢から預かってきたあのラブレターもなくなっていたので、鳴海が一緒に持っていったのだろう。
机には、鳴海が書いたらしい歪な文字のメモ。もしやあの姿で必死に書いてくれたのだろうか。それとも。
『ありがとう。ちぃのおかげでもとに戻ることが出来た。本当は、今、起こすべきなんだろうとは思ったけど、やっぱりやめておきます。本当にありがとう』
大きな紙に、それだけの文字。
鳴海は自分を縛る『逃げる』という呪縛から解き放たれ、『自由』になって自分のいるべき場所に帰っていったのだった。




