4.5
昨日の放課後、井坂が会わせてくれた森沢乃咲さんは、鳴海が小さくなったあの大雨の日、6月5日に鳴海と別れたと言ったきり、そこからはまた泣き崩れてしまい支離滅裂になり全く話をすることが出来なくなってしまった。
涙を流しながら、私があんな事を言ったからだとか、私のせいだだとか、自分を責める言葉ばかりを吐き続け、しまいには警察に行くととんでもない事を言い出した森沢を慌てて止め、その後は井坂が森沢を宥めつつ、家まで送っていく事になった。
店からの出際に私は井坂と連絡先を交換した。そして今日、森沢とまた会えるようにセッティングして貰ったのだ。
「井坂さん、お手数おかけしてすみません」
昨日の夜、電話口で森沢と会う約束を取り付けてくれた井坂は、低音ボイスのためか私にはどんな感情を持って今電話をしているのか、どうにもいまいち掴む事が出来なかった。井坂が怒っていないかどうか少し不安だったが、意に反して井坂はそんなに怒ってはいない様だった。
「大丈夫だ、これくらいなら」
「私があの時、森沢さんと連絡先交換しておいたら話は早かったんですけど…」
井坂が小さく笑う気配があった。
「あの時はそんな余裕なかっただろ」
「まぁ、そうですけど」
井坂との交換も慌ただしかったし。
「じゃあ、本当にありがとうございました。このお礼は必ず」
「礼はいい。それより、あの時聞けなかった事に答えて欲しい」
その井坂の突然の言葉に声が出なかったのはコンマ数秒ほど。私は静かに「何ですか」と唇を動かした。
井坂はその後数秒だけ黙り込み、そしてこう口にした。「鳴海は、今どこにいる?」と。
井坂はどこまで知っているのだろう。それともこれはただの引っ掻けなのだろうか。
井坂も森沢も、ただただ鳴海の心配をしている。だからこれだけは言っておいた方がいいのかもしれない。
「井坂さん。鳴海さんは大丈夫です。大丈夫ですから」
「すみません、森沢さん。少し遅れました」
「大丈夫よ。私も今来たところだから」
喫茶店の一角に座っていた森沢は微笑む。ホントに綺麗な人だなぁ、と改めて思う。
店員が注文を聞きに来たので珈琲を頼んだ。森沢は既に頼んでいたようだったみたいで、私の注文を聞いた店員はすぐにその場を去っていった。
「昨日は取り乱してしまってごめんなさい」
「いえっ、大丈夫です」
森沢は、まず昨日のことに頭を下げた。そして喫茶店のメニューを取り、眺めながら微笑しこう言った。
「彩斗君、珈琲が好きだったのよ?」
「そうなんですか?」
あの鳴海が。
なんかちょっと意外。
「えぇ。あなたも……如月さんも珈琲好きなの?」
「私の場合は、今ちょっとブームになってるだけと言いますか……。好きか嫌いかで言えば好き、ぐらいなんですけど」
その私の言葉にくすりと笑い、森沢は楽しそうに口を開いた。
「そうなんだ。……私ね、実は珈琲って苦手なの」
「え!?そうなんですか?」
珈琲、似合いそうなのに。
「でも彩斗君は好きでしょ?だから彼、私に合わせて珈琲飲まなかった。珈琲好きなくせして」
きっと鳴海のそんな姿を思い出しているのだろう。森沢は少しだけ目を細め微笑んだ。だがあの鳴海に、人と合わせるという気配りや優しさがあったという事実に私は驚きだ。
でも、飲み物なんかもそこまで合わせるものなのだろうか?別に自分が飲むだけなら自分の好きなものでいいのではなかろうか。
私が少しだけ不思議に思っているのを気付かれたらしく、森沢が薄く笑う。
「匂いもね、苦手なの」
ちょうど店員が私の珈琲と、森沢さんのらしい紅茶っぽいものをテーブルに置いた瞬間だった。
珈琲の匂いが私の鼻孔をくすぐる。
「……す、すみません。私、あの知らなくて」
顔が引きつる。
森沢さんが、また薄く笑う。
「当たり前よ。今言ったんだから」
「すぐ下げます」
「あっ、いいのよ。大丈夫だから」
店員を呼ぼうと手を上げようとした私を森沢は制止する。森沢はそう言ってくれだが、私は全然大丈夫じゃなかった。
やっぱり下げて貰おうと店員を呼ぼうとした時、森沢が徐に手紙が入っているだろうと思われる白い小さな封筒をスッと机に置いた。
封筒には綺麗な文字で『森沢乃咲様』と書かれている。
「…これは?」
「ラブレターよ。彩斗君からの」
ラブレター。
私がじっとそれに視線をやっていると、森沢がゆっくりと話始めた。
「彩斗君と付き合い始めたのは去年の春より少し前ぐらいだった。ラブレターを貰って、友達からってことで私達は付き合い始めたの」
森沢さんは昔を懐かしむように目を閉じた。
「最初はホントに友達感覚だった。新しく出来た友達。まぁ、少しは異性だって意識はしてたんだけどね。それでその後、何回か一緒に遊びに行って……、初めは共通の友人達と一緒だったのがだんだん二人になっていって。彩斗君は私にとって友達じゃなく、恋人になってた」
森沢さんはカップを手に取り、一口飲む。
「彩斗君、優しかった。いつも私を気づかってくれてた。珈琲が苦手って事もね、私は彩斗君に話してもいないのに彼はいつの間にか気付いてて。海に行った時も、泳ぐの苦手な私のために遊ぶ時間割いて一緒に練習してくれたり、海じゃなくて違う所に行こうかって言ってくれたり……。ずっとずっと、最初から彩斗君は私に優しかった。他にも色々あるの。まだまだたくさん、いっぱい」
森沢の表情がだんだんと移り変わっていくのを、私は声もかけずにただ見ていることしか出来なかった。森沢の表情は私には、辛そうな、泣きそうなそんな弱弱しい表情に見えた。
そうしてまた、森沢は口を開く。
「靄が、かかったの。心に靄が……。これでいいのか、って自分が自分に問いかけてくるの。それが去年の冬頃だった」
靄。森沢の中で、何かが霞みがかったのだ。
「私はこれでいいのか?このままでいいのか?彩斗君は優しいから、その優しさに甘えてるだけなんじゃないのか。彼に無理をさせてるんじゃないか。我慢させてるんじゃないか。諦めさせているんじゃないか。私のために彼は……、色々抑えてしまっているんじゃないかって」
今の森沢は、辛そうな泣きそうな表情はしていなかった。
だが、そんな顔をしていてくれた方がまだマシだったのかもしれない。
「そんな靄がかかったまま、私は彩斗君と付き合ってた。ずっとずっと、彩斗君に甘えてた。私っ………、私、最低なことしてたっ」
「っ…そんなことはっ!……ないです」
咄嗟に私は否定していた。違う。それは違う。絶対に。
森沢さんが笑う。
「6月5日。彩斗君と待ち合わせをした。大雨だったけど、待ち合わせして会ったの。あの日の雨は、私にとっては都合がよかった。雨が、この大雨が全部すっきり洗い流してくれる気がしたから」
「…………」
「あんな大雨の中でも彩斗君は来てくれた。それが嬉しくもあり、……辛かった。彼は絶対に断らない。最初から、最後まで。断らなかった」
森沢の手に力がこもる。
ぎゅ、と握りしめている。
「別れようって言ったの。そしたら彼、何て言ったと思う?」
私に訊ねているのに、森沢は私に答えなど求めていなかった。それが分かったから、私は口を開く事はしなかったし出来なかった。
「彼は分かったって、そう言ったの。笑って、分かった、って。………私、その時苦しかった。彼が別れに『同意』した事にじゃない。別れを『断らなかった』彼が、『断れなかった』彼が、私の存在が彼を縛ってるんだって事が明確に突き付けられた事が」
鳴海が自分の事を好きな事を知っている。
だから、自分の存在が彼にとって害にしかならない事を知った。縛り付け、蝕む。そんな存在になっていた。
彼に私という存在は、毒にしかならない。
「でも、これで彼を解放してあげられる。彼は自由になれるんだって思って嬉しかった。悲しかったけど、嬉しかった。でも、……後悔した。井坂さんから、彩斗君がいなくなったって聞いて」
私の珈琲は既に冷めてしまっていた。飲む気もなかったのだが、一口も口にしていないのが、その時ふと勿体なく感じた。
「如月さん」
突然名前を呼ばれ、森沢を見る。
「如月さん。コレ、貴方が持っていてくれない?」
森沢は、テーブルに置いていた鳴海からのラブレターを、スッとテーブルを滑らせ私に差し出す。
「だ、駄目ですよっ。こんな大事なもの!」
「ホントは棄てる気でいたものだから。それに…、きっと貴方が持っていた方がいいような気がするの」
「……でも…」
「話はこれで終わり。……ね、如月さん。私ね、彩斗君のこと好きだった。とても、大事な人だった。かけがえのない、大事な人」
「…………」
「話、聞いてくれてありがと。何だかちょっと元気になれた気がする」
「……いえ、話を聞きたいと言ったのは私なので」
そうだったわね、と森沢さんは微笑んだ。
そして鳴海のラブレターをテーブルに残して、森沢さんは店から出ていった。




