第2章 よりによって、あなたが
グロモフ親方は、机いっぱいに広げられた白い布を見て、しばらく何も言わなかった。
白。
白。
白。
絹もあれば、薄布もある。銀糸を織り込んだものもあった。その横にはレース、造花、細いリボン、そして何枚もの寸法表。
親方は、そのすべてを一度眺めたあと、向かいに座るナターシャを見た。
グロモフ「何人だ」
ナターシャ「まだ確定じゃないわ」
グロモフ「何人だ」
ナターシャ「……かなり」
グロモフ「帰れ」
ナターシャ「まだ何も頼んでないじゃない」
グロモフ「頼む気満々の顔で来ただろうが」
ナターシャは笑った。
グロモフ親方の工房には、今日も布と糸と人間が溢れていた。
壁には仕立て途中の上着やドレスが掛けられ、奥では若い職人たちが針を動かしている。そのど真ん中へ、高位貴族の令嬢が自らやってきて、大量の白い布を並べている。
本来なら使用人にやらせれば済む話である。だがナターシャは、こういうことになると妙に自分で動きたがった。人を驚かせる企画を、他人任せにするのが嫌いなのだ。
ナターシャ「できる?」
グロモフ「服だけならな」
ナターシャ「だけ?」
グロモフ「俺は仕立屋だ」
ナターシャ「知ってるわよ」
グロモフ「髪まで俺にやらせる気か」
ナターシャ「……そこなのよね」
ナターシャは一枚の紙を持ち上げた。
そこには、男たちの名前と寸法が並んでいる。
すでに何着も女性用の衣装を作っている者については、かなり細かい記録まで残っていた。
胸囲。胴囲。腰位置。肩幅。袖丈。スカート丈。どの型のステイズが使えるか。どの程度のパニエなら歩けるか。
こうして並べてみると、なかなか恐ろしい資料である。
ナターシャ「衣装の寸法は何とかなる。でも、今回は頭もちゃんと揃えたいの」
グロモフ「頭?」
ナターシャ「髪。鬘。飾り。それから――」
ナターシャは白い薄布を一枚持ち上げた。
ナターシャ「こういうものも」
グロモフの眉がわずかに上がった。
グロモフ「おい」
ナターシャ「何?」
グロモフ「本当にやる気か」
ナターシャ「もちろん」
グロモフ「陛下も?」
ナターシャ「とても乗り気」
グロモフ「……ろくなことにならんな」
ナターシャ「そんな嬉しそうな顔で言われても」
グロモフ「嬉しくはない」
親方はそう言ったが、もう白い絹を手に取っていた。指で厚みを確かめる。光に透かす。
完全に仕事の顔である。
グロモフ「髪なら一人知ってる」
ナターシャ「腕は?」
グロモフ「俺が紹介するんだぞ」
ナターシャ「性格は?」
グロモフ「悪い」
ナターシャ「親方と気が合いそうね」
グロモフ「帰れ」
*
紹介された女は、その日の午後には宮殿へ来た。
名を、ペラゲーヤ・イヴァーノヴナ・ボグダーノワ。
親しい者からは、ポーリャと呼ばれていた。
四十代半ばほど。痩せた長身で、髪をきっちりまとめている。服装は派手ではない。しかし、目だけは妙に鋭かった。
貴族の屋敷を渡り歩き、髪を結い、鬘を整え、宝石や花飾りを選び、ときには主人の顔立ちに合わせて全体の装いまで口を出す。
店を構えているわけではない。看板もない。だが腕のよい者の名前は、看板などなくても広まる。
そういう類いの職人だった。
ポーリャは、カーテシー・クラブの控室へ入るなり、ミハイルを見た。次にアレクサンドルを見る。そしてコーリャ。
ポーリャ「なるほど」
ミハイル「何が?」
ポーリャ「思ったより悪くない」
ミハイル「何が?」
ポーリャ「素材が」
ミハイル「素材?」
ミハイルが嫌そうな顔をした。
ポーリャは気にしない。
アレクサンドルの顎を軽く上げる。
アレクサンドル「おい」
ポーリャ「あなたは額を出した方がいい」
アレクサンドル「何の話だ」
ポーリャ「こっちは少し高さを出す」
今度はコーリャの髪を持ち上げる。
コーリャ「ちょっと待って」
ポーリャ「動かない」
コーリャ「俺、何の説明も受けてないんだけど」
ナターシャ「今度ちょっと大きな催しがあるのよ」
コーリャ「それは聞いた」
ナターシャ「そのための準備」
コーリャ「何で頭まで?」
ナターシャ「せっかくなら綺麗な方がいいでしょう?」
コーリャ「誰が?」
ナターシャ「あなたたちが」
コーリャは嫌そうな顔をした。
しかし、それ以上は言わなかった。
もう、その程度では驚かない。
少し前なら、
――どうして俺が女の髪型まで!
と騒いでいただろう。
今では、
――まあ、必要ならしょうがないか。
くらいになっている。
人間というものは恐ろしい。
ナターシャ「コーリャ。せっかくだから一度着替えて」
コーリャ「何で」
ナターシャ「頭だけ整えても全体のバランスが分からないでしょう?」
コーリャ「普通のやつでいい?」
ナターシャ「いいわよ。今日は確認だけだから」
コーリャは諦めた。
*
半刻ほど後。
コーリャは淡い藤色のドレスを着ていた。
見慣れたものだった。カーテシー・クラブで何度も使っている、練習用に近い一着である。
ポーリャは、その後ろに立っていた。
今日は本格的な鬘ではない。仮の髪型。顔立ちに合わせて、どこに高さを出すか、どの程度横へ広げるかを見ている。
ポーリャ「少し顎を上げて」
コーリャ「こう?」
ポーリャ「上げすぎ」
コーリャ「難しいな」
ナターシャ「カーテシーより簡単でしょう」
コーリャ「比較対象がおかしいんだよ」
その時だった。
扉が開いた。
ヴァリア「コーリャ、ここにいるって――」
止まった。
室内の全員が、同時に扉を見た。
ヴァリアが立っていた。その手には、小さな封筒。
コーリャは鏡の前。藤色のドレス。髪を女性風に整えられている途中。片手には、さっきまで練習していた扇まで持っていた。
沈黙。
恐ろしいほど完璧な沈黙だった。
コーリャ「……ヴァリア」
ヴァリア「……」
コーリャ「これは、その」
ヴァリア「……何?」
コーリャ「いや」
ヴァリア「何、その格好」
コーリャ「だから」
ミハイルは静かに立ち上がった。
ミハイル「俺たち、ちょっと外そうか」
アレクサンドル「そうだな」
ナターシャ「そうね」
コーリャ「待て」
ミハイル「頑張れ」
コーリャ「待てって!」
誰も待たなかった。
ミハイルも。アレクサンドルも。
ポーリャですら、
ポーリャ「終わったら呼んで」
と言って出ていった。
パーシャだけが一瞬コーリャを気の毒そうに見たが、やはり出ていった。
最後にナターシャ。
ナターシャ「話せば分かるわよ」
コーリャ「お前絶対面白がってるだろ」
ナターシャ「まさか」
扉が閉まった。
二人きり。
コーリャはドレス姿のまま。ヴァリアは立ったまま。
沈黙。
長かった。
ヴァリア「……カーテシー・クラブ?」
コーリャ「……うん」
ヴァリア「ここが?」
コーリャ「まあ」
ヴァリア「あなた、知り合いがいるどころじゃないじゃない」
コーリャ「それは」
ヴァリア「あなたがいるじゃない!」
声が響いた。
コーリャ「声、大きいって」
ヴァリア「大きくもなるわよ!」
ヴァリアが近づいた。改めて、コーリャを上から下まで見る。
ヴァリア「いつから?」
コーリャ「何が」
ヴァリア「これ!」
コーリャ「陛下の舞踏会には前から出てるよ」
ヴァリア「違うわよ!」
ヴァリアは机を指した。
練習用の扇。女性用の靴。裾さばき用の大きなスカート。壁には、歩幅、姿勢、礼の角度まで書いてある。
ヴァリア「自分たちで集まって練習してたの?」
コーリャ「……うん」
ヴァリア「あなたも?」
コーリャ「そうだよ」
ヴァリア「最初から?」
コーリャ「かなり最初から」
ヴァリア「初期メンバーなの?」
コーリャ「まあ……そういうことになるかな」
ヴァリアの顔が固まった。
ヴァリア「……信じられない」
コーリャ「だからさ」
ヴァリア「この前、私の前で何て言った?」
コーリャ「何って」
ヴァリア「『普通に考えれば練習するのは合理的だ』って」
コーリャ「言ったよ」
ヴァリア「自分のことだったんじゃない!」
コーリャ「そうだよ!」
今度はコーリャの声が大きくなった。
コーリャ「だから分かるんだよ!」
ヴァリア「何がよ」
コーリャ「何も知らないまま、あの格好で人前に出るのがどれだけ嫌か!」
コーリャはスカートを指した。
コーリャ「こんなの着て、歩き方も分からない。座り方も分からない。階段で裾を踏む。礼をしろって言われてもどうしていいか分からない。踊れば相手の足を踏む」
ヴァリア「でも――」
コーリャ「しかも周りには知り合いがいるんだぞ!」
ヴァリアが口を閉じた。
コーリャ「笑われるんだよ」
声が落ちた。
コーリャ「俺だって最初は嫌だった」
コーリャ「今だって好きで毎日こんな格好してるわけじゃない」
ヴァリア「だったら、やめればいいでしょう」
コーリャ「やめても舞踏会はなくならない」
コーリャ「陛下に呼ばれたら行くしかない。だったら、少なくとも笑いものにはなりたくない」
ヴァリアは、しばらく何も言わなかった。
ヴァリア「……でも、嫌」
コーリャ「何が」
ヴァリア「あなたがこんなことしてるの」
コーリャの表情が変わった。
ヴァリア「知らない人なら、勝手にすればいいと思える」
ヴァリア「でも、あなたは……」
ヴァリア「私が結婚する人なのよ」
コーリャ「まだしてないけど」
ヴァリア「そういう揚げ足を取らないで!」
コーリャ「じゃあどうしろって言うんだよ!」
ヴァリア「男らしくしていてほしいって思うのは、そんなにおかしいこと?」
コーリャ「俺、普段は男だよ!」
ヴァリア「当たり前でしょう!」
コーリャ「じゃあ何が問題なんだよ!」
ヴァリア「分からないの!?」
コーリャ「分からないから聞いてるんだよ!」
また沈黙。
今度は冷たい沈黙だった。
ヴァリア「……今日は帰るわ」
コーリャ「ヴァリア」
ヴァリア「その格好で追いかけてこないで」
コーリャは止まった。
確かに。
この格好で追いかけるのは、いろいろまずい。
扉が閉まった。
コーリャ「……最悪だ」
*
廊下で待っていたミハイルたちは、ヴァリアの顔を見ただけで結果を理解した。
少しして、コーリャが扉から顔だけ出した。
コーリャ「……帰った?」
ミハイル「帰った」
コーリャ「怒ってた?」
アレクサンドル「聞く必要あるか?」
コーリャ「ないな」
コーリャが扉を閉めようとした。
ナターシャ「待ちなさい」
コーリャ「何」
ナターシャ「髪、途中よ」
コーリャ「今それ続けるの!?」
ナターシャ「せっかくポーリャに来てもらったんだから」
ポーリャ「座って」
コーリャ「……」
コーリャは死んだような顔で椅子に座った。
ミハイル「まあ、何だ」
コーリャ「慰めるな」
ミハイル「まだ何も言ってない」
コーリャ「顔が慰めてる」
*
その夜。
ミハイルはナターシャと廊下を歩いていた。少し後ろにはパーシャ。
ナターシャは何枚もの紙を抱えている。
ミハイル「なあ」
ナターシャ「何?」
ミハイル「コーリャ、大丈夫かな」
ナターシャ「大丈夫じゃないでしょうね」
ミハイル「即答するなよ」
ナターシャ「でも、あの二人ならそのうち話すわよ」
紙の間から、白い布の見本が見えた。
ミハイル「お前、最近そればっかり持ってるな」
ナターシャ「そう?」
ミハイル「何やってるんだ」
ナターシャ「ちょっとした準備」
ミハイル「白い布ばっかりじゃないか」
ナターシャ「白は嫌い?」
ミハイル「別に」
ミハイルが一枚つまもうとした。
ナターシャがさっと引いた。
ミハイル「見せろよ」
ナターシャ「だめ」
ミハイル「お前、結婚でもするのか?」
ナターシャが足を止めた。
そして笑った。
ナターシャ「ふふ。まさか」
ミハイル「何だよ、その笑い方」
再び歩き始める。
ナターシャ「そういえば」
ミハイル「何」
ナターシャ「ソフィア・ドミトリエヴナ」
ミハイルの足が少し遅くなった。
ミハイル「……ああ」
ナターシャ「今度会うんでしょう?」
ミハイル「らしいな」
ナターシャ「いいお嬢さんよ」
ミハイル「お前、ソフィアも知ってるのか」
ナターシャ「顔くらいはね」
ミハイル「どんな子?」
ナターシャ「可愛い」
ミハイル「それは聞いた」
ナターシャ「素直そう」
ミハイル「それも聞いた」
ナターシャ「じゃあ何が知りたいの?」
ミハイル「……別に」
ミハイルは横を歩くナターシャを見た。
金色の髪。いつもの少し人をからかうような横顔。
言えるわけがない。
縁談に乗り気になれない最大の理由が、今まさに隣を歩いているからだなどと。
少し後ろで、パーシャは何も言わなかった。
ただ、
――ソフィア・ドミトリエヴナ。
その名前だけは、しっかり覚えた。




