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カーテシー・クラブ3 女帝陛下の思いつきで男たち八十人がウェディングドレス姿に!? 宮廷疑似結婚式イベント「花嫁作戦」始まります  作者: 真城 悠


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第2章 よりによって、あなたが


 グロモフ親方は、机いっぱいに広げられた白い布を見て、しばらく何も言わなかった。

 白。

 白。

 白。

 絹もあれば、薄布もある。銀糸を織り込んだものもあった。その横にはレース、造花、細いリボン、そして何枚もの寸法表。

 親方は、そのすべてを一度眺めたあと、向かいに座るナターシャを見た。


グロモフ「何人だ」

ナターシャ「まだ確定じゃないわ」

グロモフ「何人だ」

ナターシャ「……かなり」

グロモフ「帰れ」

ナターシャ「まだ何も頼んでないじゃない」

グロモフ「頼む気満々の顔で来ただろうが」


 ナターシャは笑った。

 グロモフ親方の工房には、今日も布と糸と人間が溢れていた。

 壁には仕立て途中の上着やドレスが掛けられ、奥では若い職人たちが針を動かしている。そのど真ん中へ、高位貴族の令嬢が自らやってきて、大量の白い布を並べている。

 本来なら使用人にやらせれば済む話である。だがナターシャは、こういうことになると妙に自分で動きたがった。人を驚かせる企画を、他人任せにするのが嫌いなのだ。


ナターシャ「できる?」

グロモフ「服だけならな」

ナターシャ「だけ?」

グロモフ「俺は仕立屋だ」

ナターシャ「知ってるわよ」

グロモフ「髪まで俺にやらせる気か」

ナターシャ「……そこなのよね」


 ナターシャは一枚の紙を持ち上げた。

 そこには、男たちの名前と寸法が並んでいる。

 すでに何着も女性用の衣装を作っている者については、かなり細かい記録まで残っていた。

 胸囲。胴囲。腰位置。肩幅。袖丈。スカート丈。どの型のステイズが使えるか。どの程度のパニエなら歩けるか。

 こうして並べてみると、なかなか恐ろしい資料である。


ナターシャ「衣装の寸法は何とかなる。でも、今回は頭もちゃんと揃えたいの」

グロモフ「頭?」

ナターシャ「髪。鬘。飾り。それから――」


 ナターシャは白い薄布を一枚持ち上げた。


ナターシャ「こういうものも」


 グロモフの眉がわずかに上がった。


グロモフ「おい」

ナターシャ「何?」

グロモフ「本当にやる気か」

ナターシャ「もちろん」

グロモフ「陛下も?」

ナターシャ「とても乗り気」

グロモフ「……ろくなことにならんな」

ナターシャ「そんな嬉しそうな顔で言われても」

グロモフ「嬉しくはない」


 親方はそう言ったが、もう白い絹を手に取っていた。指で厚みを確かめる。光に透かす。

 完全に仕事の顔である。


グロモフ「髪なら一人知ってる」

ナターシャ「腕は?」

グロモフ「俺が紹介するんだぞ」

ナターシャ「性格は?」

グロモフ「悪い」

ナターシャ「親方と気が合いそうね」

グロモフ「帰れ」


     *


 紹介された女は、その日の午後には宮殿へ来た。

 名を、ペラゲーヤ・イヴァーノヴナ・ボグダーノワ。

 親しい者からは、ポーリャと呼ばれていた。

 四十代半ばほど。痩せた長身で、髪をきっちりまとめている。服装は派手ではない。しかし、目だけは妙に鋭かった。

 貴族の屋敷を渡り歩き、髪を結い、鬘を整え、宝石や花飾りを選び、ときには主人の顔立ちに合わせて全体の装いまで口を出す。

 店を構えているわけではない。看板もない。だが腕のよい者の名前は、看板などなくても広まる。

 そういう類いの職人だった。

 ポーリャは、カーテシー・クラブの控室へ入るなり、ミハイルを見た。次にアレクサンドルを見る。そしてコーリャ。


ポーリャ「なるほど」

ミハイル「何が?」

ポーリャ「思ったより悪くない」

ミハイル「何が?」

ポーリャ「素材が」

ミハイル「素材?」


 ミハイルが嫌そうな顔をした。

 ポーリャは気にしない。

 アレクサンドルの顎を軽く上げる。


アレクサンドル「おい」

ポーリャ「あなたは額を出した方がいい」

アレクサンドル「何の話だ」

ポーリャ「こっちは少し高さを出す」


 今度はコーリャの髪を持ち上げる。


コーリャ「ちょっと待って」

ポーリャ「動かない」

コーリャ「俺、何の説明も受けてないんだけど」

ナターシャ「今度ちょっと大きな催しがあるのよ」

コーリャ「それは聞いた」

ナターシャ「そのための準備」

コーリャ「何で頭まで?」

ナターシャ「せっかくなら綺麗な方がいいでしょう?」

コーリャ「誰が?」

ナターシャ「あなたたちが」


 コーリャは嫌そうな顔をした。

 しかし、それ以上は言わなかった。

 もう、その程度では驚かない。

 少し前なら、

 ――どうして俺が女の髪型まで!

 と騒いでいただろう。

 今では、

 ――まあ、必要ならしょうがないか。

 くらいになっている。

 人間というものは恐ろしい。


ナターシャ「コーリャ。せっかくだから一度着替えて」

コーリャ「何で」

ナターシャ「頭だけ整えても全体のバランスが分からないでしょう?」

コーリャ「普通のやつでいい?」

ナターシャ「いいわよ。今日は確認だけだから」


 コーリャは諦めた。


     *


 半刻ほど後。

 コーリャは淡い藤色のドレスを着ていた。

 見慣れたものだった。カーテシー・クラブで何度も使っている、練習用に近い一着である。

 ポーリャは、その後ろに立っていた。

 今日は本格的な鬘ではない。仮の髪型。顔立ちに合わせて、どこに高さを出すか、どの程度横へ広げるかを見ている。


ポーリャ「少し顎を上げて」

コーリャ「こう?」

ポーリャ「上げすぎ」

コーリャ「難しいな」

ナターシャ「カーテシーより簡単でしょう」

コーリャ「比較対象がおかしいんだよ」


 その時だった。

 扉が開いた。


ヴァリア「コーリャ、ここにいるって――」


 止まった。

 室内の全員が、同時に扉を見た。

 ヴァリアが立っていた。その手には、小さな封筒。

 コーリャは鏡の前。藤色のドレス。髪を女性風に整えられている途中。片手には、さっきまで練習していた扇まで持っていた。

 沈黙。

 恐ろしいほど完璧な沈黙だった。


挿絵(By みてみん)


コーリャ「……ヴァリア」

ヴァリア「……」

コーリャ「これは、その」

ヴァリア「……何?」

コーリャ「いや」

ヴァリア「何、その格好」

コーリャ「だから」


 ミハイルは静かに立ち上がった。


ミハイル「俺たち、ちょっと外そうか」

アレクサンドル「そうだな」

ナターシャ「そうね」

コーリャ「待て」

ミハイル「頑張れ」

コーリャ「待てって!」


 誰も待たなかった。

 ミハイルも。アレクサンドルも。

 ポーリャですら、


ポーリャ「終わったら呼んで」


 と言って出ていった。

 パーシャだけが一瞬コーリャを気の毒そうに見たが、やはり出ていった。

 最後にナターシャ。


ナターシャ「話せば分かるわよ」

コーリャ「お前絶対面白がってるだろ」

ナターシャ「まさか」


 扉が閉まった。

 二人きり。

 コーリャはドレス姿のまま。ヴァリアは立ったまま。

 沈黙。

 長かった。


ヴァリア「……カーテシー・クラブ?」

コーリャ「……うん」

ヴァリア「ここが?」

コーリャ「まあ」

ヴァリア「あなた、知り合いがいるどころじゃないじゃない」

コーリャ「それは」

ヴァリア「あなたがいるじゃない!」


 声が響いた。


コーリャ「声、大きいって」

ヴァリア「大きくもなるわよ!」


 ヴァリアが近づいた。改めて、コーリャを上から下まで見る。


ヴァリア「いつから?」

コーリャ「何が」

ヴァリア「これ!」

コーリャ「陛下の舞踏会には前から出てるよ」

ヴァリア「違うわよ!」


 ヴァリアは机を指した。

 練習用の扇。女性用の靴。裾さばき用の大きなスカート。壁には、歩幅、姿勢、礼の角度まで書いてある。


ヴァリア「自分たちで集まって練習してたの?」

コーリャ「……うん」

ヴァリア「あなたも?」

コーリャ「そうだよ」

ヴァリア「最初から?」

コーリャ「かなり最初から」

ヴァリア「初期メンバーなの?」

コーリャ「まあ……そういうことになるかな」


 ヴァリアの顔が固まった。


ヴァリア「……信じられない」

コーリャ「だからさ」

ヴァリア「この前、私の前で何て言った?」

コーリャ「何って」

ヴァリア「『普通に考えれば練習するのは合理的だ』って」

コーリャ「言ったよ」

ヴァリア「自分のことだったんじゃない!」

コーリャ「そうだよ!」


 今度はコーリャの声が大きくなった。


コーリャ「だから分かるんだよ!」

ヴァリア「何がよ」

コーリャ「何も知らないまま、あの格好で人前に出るのがどれだけ嫌か!」


 コーリャはスカートを指した。


コーリャ「こんなの着て、歩き方も分からない。座り方も分からない。階段で裾を踏む。礼をしろって言われてもどうしていいか分からない。踊れば相手の足を踏む」

ヴァリア「でも――」

コーリャ「しかも周りには知り合いがいるんだぞ!」


 ヴァリアが口を閉じた。


コーリャ「笑われるんだよ」


 声が落ちた。


コーリャ「俺だって最初は嫌だった」

コーリャ「今だって好きで毎日こんな格好してるわけじゃない」

ヴァリア「だったら、やめればいいでしょう」

コーリャ「やめても舞踏会はなくならない」

コーリャ「陛下に呼ばれたら行くしかない。だったら、少なくとも笑いものにはなりたくない」


 ヴァリアは、しばらく何も言わなかった。


ヴァリア「……でも、嫌」

コーリャ「何が」

ヴァリア「あなたがこんなことしてるの」


 コーリャの表情が変わった。


ヴァリア「知らない人なら、勝手にすればいいと思える」

ヴァリア「でも、あなたは……」

ヴァリア「私が結婚する人なのよ」

コーリャ「まだしてないけど」

ヴァリア「そういう揚げ足を取らないで!」

コーリャ「じゃあどうしろって言うんだよ!」

ヴァリア「男らしくしていてほしいって思うのは、そんなにおかしいこと?」

コーリャ「俺、普段は男だよ!」

ヴァリア「当たり前でしょう!」

コーリャ「じゃあ何が問題なんだよ!」

ヴァリア「分からないの!?」

コーリャ「分からないから聞いてるんだよ!」


 また沈黙。

 今度は冷たい沈黙だった。


ヴァリア「……今日は帰るわ」

コーリャ「ヴァリア」

ヴァリア「その格好で追いかけてこないで」


 コーリャは止まった。

 確かに。

 この格好で追いかけるのは、いろいろまずい。

 扉が閉まった。


コーリャ「……最悪だ」


     *


 廊下で待っていたミハイルたちは、ヴァリアの顔を見ただけで結果を理解した。

 少しして、コーリャが扉から顔だけ出した。


コーリャ「……帰った?」

ミハイル「帰った」

コーリャ「怒ってた?」

アレクサンドル「聞く必要あるか?」

コーリャ「ないな」


 コーリャが扉を閉めようとした。


ナターシャ「待ちなさい」

コーリャ「何」

ナターシャ「髪、途中よ」

コーリャ「今それ続けるの!?」

ナターシャ「せっかくポーリャに来てもらったんだから」

ポーリャ「座って」

コーリャ「……」


 コーリャは死んだような顔で椅子に座った。


ミハイル「まあ、何だ」

コーリャ「慰めるな」

ミハイル「まだ何も言ってない」

コーリャ「顔が慰めてる」


     *


 その夜。

 ミハイルはナターシャと廊下を歩いていた。少し後ろにはパーシャ。

 ナターシャは何枚もの紙を抱えている。


ミハイル「なあ」

ナターシャ「何?」

ミハイル「コーリャ、大丈夫かな」

ナターシャ「大丈夫じゃないでしょうね」

ミハイル「即答するなよ」

ナターシャ「でも、あの二人ならそのうち話すわよ」


 紙の間から、白い布の見本が見えた。


ミハイル「お前、最近そればっかり持ってるな」

ナターシャ「そう?」

ミハイル「何やってるんだ」

ナターシャ「ちょっとした準備」

ミハイル「白い布ばっかりじゃないか」

ナターシャ「白は嫌い?」

ミハイル「別に」


 ミハイルが一枚つまもうとした。

 ナターシャがさっと引いた。


ミハイル「見せろよ」

ナターシャ「だめ」

ミハイル「お前、結婚でもするのか?」


 ナターシャが足を止めた。

 そして笑った。


ナターシャ「ふふ。まさか」

ミハイル「何だよ、その笑い方」


 再び歩き始める。


ナターシャ「そういえば」

ミハイル「何」

ナターシャ「ソフィア・ドミトリエヴナ」


 ミハイルの足が少し遅くなった。


ミハイル「……ああ」

ナターシャ「今度会うんでしょう?」

ミハイル「らしいな」

ナターシャ「いいお嬢さんよ」

ミハイル「お前、ソフィアも知ってるのか」

ナターシャ「顔くらいはね」

ミハイル「どんな子?」

ナターシャ「可愛い」

ミハイル「それは聞いた」

ナターシャ「素直そう」

ミハイル「それも聞いた」

ナターシャ「じゃあ何が知りたいの?」

ミハイル「……別に」


 ミハイルは横を歩くナターシャを見た。

 金色の髪。いつもの少し人をからかうような横顔。

 言えるわけがない。

 縁談に乗り気になれない最大の理由が、今まさに隣を歩いているからだなどと。

 少し後ろで、パーシャは何も言わなかった。

 ただ、

 ――ソフィア・ドミトリエヴナ。

 その名前だけは、しっかり覚えた。


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