第1章 カーテシー・クラブなんて変よ
ヴァルヴァーラ・アレクセーエヴナ・ヴェリャミノヴァ。愛称、ヴァリア。二十一歳。コーリャより二つ年上。
名門貴族の娘で、そして順調にいけば、一週間と少し後にはコーリャの妻になる女性だった。
家同士の話はほぼまとまっている。二人も何度か顔を合わせている。熱烈な恋愛というわけではない。だが、互いに、
――この人なら悪くない。
くらいには思っていた。
少なくとも、その日までは。
ヴァリア「ねえ、コーリャ」
コーリャ「何?」
ヴァリア「カーテシー・クラブって知ってる?」
コーリャの手が止まった。
コーリャ「……何で?」
ヴァリア「最近聞いたの」
コーリャ「どこで?」
ヴァリア「宮廷で」
コーリャ「誰から?」
ヴァリア「何でそんなに質問するの?」
コーリャ「いや、別に」
危ない。非常に危ない。
ヴァリア「男の人たちが集まって、女性の礼の仕方とか、スカートの扱い方とか、踊り方とかを練習してるんでしょう?」
コーリャ「まあ……そういう話は聞いたことある」
ヴァリア「変よね」
コーリャ「……そう?」
ヴァリア「だって」
ヴァリアは当然のように言った。
ヴァリア「陛下に命じられて女性の服を着なきゃいけないのは仕方ないと思うの」
コーリャ「うん」
ヴァリア「女帝陛下のお言いつけですもの」
コーリャ「うん」
ヴァリア「でも、自分たちで集まって練習するって何?」
コーリャ「……」
ヴァリア「男同士で、今日はカーテシーの練習をしましょう、とか?」
コーリャ「まあ」
ヴァリア「スカートをこう持って、とか?」
コーリャ「たぶん」
ヴァリア「そこまでして上手になりたいものなの?」
コーリャは少し考えた。
コーリャ「でもさ」
ヴァリア「何?」
コーリャ「どうせやらなきゃいけないなら、下手なまま人前に出る方が嫌じゃない?」
ヴァリア「え?」
コーリャ「陛下から呼ばれたら断れないんだろ?」
ヴァリア「まあ」
コーリャ「だったら、歩くたびに転びそうになったり、礼をするたびに笑われたりするより、練習しておいた方が合理的だと思うけど」
ヴァリアがコーリャを見た。
コーリャ「……何?」
ヴァリア「詳しいわね」
コーリャ「そう?」
ヴァリア「妙に実感がこもってる」
コーリャ「気のせいだよ」
コーリャは笑った。かなり無理をして。
*
同じ頃。カーテシー・クラブの控室。
ミハイルは椅子に座り、パーシャは、その横で衣装を片づけていた。
ミハイル「縁談?」
パーシャ「はい」
ミハイル「俺に?」
パーシャ「はい」
ミハイル「何で?」
パーシャ「それは私に聞かれても」
パーシャは笑った。
パーシャ「お相手はレベデフ家のお嬢様だそうです」
ミハイル「何歳?」
パーシャ「十七歳と伺っています」
ミハイル「若いな」
パーシャ「ミハイル様も、それほどお年ではありませんけど」
ミハイル「そういう問題じゃない」
まだ正式に決まった話ではない。まず会ってみろ。そういう段階だった。
パーシャ「評判のいいお嬢様だそうですよ」
ミハイル「それが困るんだよ」
パーシャ「?」
ミハイル「嫌な奴だったら断りやすいだろ」
パーシャ「……なるほど」
ミハイル「いい子だったら困る」
パーシャはミハイルの横顔を見る。
たぶん、理由は分かっていた。
ミハイルが別の誰かを見る時だけ、ほんの少し表情が違うことを、パーシャは知っている。長く側にいるのだから。
パーシャ「会うだけ会ってみてはいかがです?」
ミハイル「そうするしかないんだろうな」
パーシャ「きっと可愛らしい方ですよ」
ミハイル「……そうだと余計困るんだって」
パーシャは笑った。
ただ、心のどこかで、まだ会ったこともない十七歳の令嬢を、ほんの少しだけ値踏みしている自分にも気づいていた。
*
その日の午後。宮殿の廊下の端。
一人の少年が、少し離れたところから何かを見ていた。
十六歳ほど。まだ成長途中の体つき。
視線の先には、メタモルフォーゼの行事を終えたらしい男たちがいた。
華やかな女性用宮廷服。大きなスカート。整えられた髪。
彼らは皆、口々に文句を言っている。
男性貴族「もう二度と着たくない」
別の男性貴族「俺は来月も呼ばれてるぞ」
男性貴族「最悪だな」
少年は、それを少し不思議そうに見ていた。
彼自身、女性になりたいわけではない。女の子として生きたいわけでもない。
ただ、純粋に、綺麗な服だと思った。
大人たちは、あんな豪華な服を着せてもらって、礼の仕方まで教えてもらい、踊りまで練習して、それで文句ばかり言っている。
少年「……いいな」
誰にも聞こえないくらいの声。
少年「僕も一度くらい着てみたいな」
その言葉を、少し離れた場所で、一人だけ聞いていた人物がいた。
ナターシャだった。
少年自身は、気づいていない。
*
その夜。
コーリャはカーテシー・クラブの控室へ駆け込んできた。
コーリャ「なあ!」
ミハイル「うるさい」
アレクサンドル「どうした」
コーリャ「お前らさ」
ミハイル「何」
コーリャ「カーテシー・クラブって世間からどう見られてると思う?」
ミハイルとアレクサンドルが顔を見合わせた。
ミハイル「何だ急に」
コーリャ「いや」
アレクサンドル「何か言われたのか」
コーリャ「……ちょっと」
ミハイル「誰に」
コーリャ「ヴァリア」
ミハイル「ああ」
コーリャ「『男同士で集まって女の礼を練習してるなんて変』だって」
ミハイルは少し考えた。
ミハイル「普通はそう思うんじゃない?」
コーリャ「お前!」
ミハイル「俺に怒るなよ」
アレクサンドル「知らない人間から見たら、そうだろうな」
コーリャ「お前まで!」
コーリャは頭を抱えた。
コーリャ「俺、まだ自分が初期メンバーだって言ってないんだぞ」
ミハイル「言わなきゃいいだろ」
コーリャ「結婚したら絶対ばれるだろ!」
沈黙。
ミハイル「……まあ」
アレクサンドル「ばれるな」
コーリャ「だろ?」
コーリャは椅子へ沈み込んだ。
コーリャ「俺、ちょっと怖くなってきた」
ミハイル「何が?」
コーリャ「結婚が」
この時、コーリャはまだ知らなかった。
一週間後の本物の結婚より先に、もっと訳の分からない「結婚」が、自分を待っていることを。
---




