圭子と直美の話
ある日の土曜日、圭子は例のコーヒーのおいしい喫茶店に来ていた。ビリージョエルのオネスティが耳に入った。圭子の好きな曲だった。今日は客が二人いた。
圭子が何時もの窓際の席に着くと、例の目つきの悪い店員が本日のおすすめを紹介しようとした。彼女は手を振ってさえぎりブレンドを注文した。
席に着いた圭子は悩んでいた。
あれ以来直美と仕事以外で会話をしたことのない事が気になっていたのだ。特別仲がいい訳ではなかったが、そこまで仲の悪い訳でもなかった。圭子は彼女が話しかけてくるのを待っているだけだった。しかし圭子は彼女と話したところで話すべきこともなかったのだが。
彼女は携帯を取り出した。5回待って出なければ切ろうと思っていた、直美は1回目のコールで出た。彼女も圭子と話がしたかったのだ、圭子が話しかけるのを待っていたのだった。彼女はすぐに来ると言って電話を切った。
そして30分後、相変わらずの厚化粧をして例のピンクのコートを着て現れた。他の客は帰ってしまっていた。店には圭子一人だった。店には何となく湿った空気が充満している様だった。
直美は圭子の向かいに座わると、少し不愉快そうな笑みを浮かべ圭子を見つめた、その黒い瞳が圭子に何を言っているのかは圭子は感じていた。
「ご主人とはうまくいっている」といきなり直美が核心をついてきた。窓から外の曇った空を眺めていた圭子は空に亀裂の入るような気がした。
正直どうこたえていいか分からない。
「まあね」圭子は少し申し訳なさそうに、言い訳がましく答えた。圭子は直美があの日の出来事を会社でみんなに話したことはすでに知っていた。事務所では変なうわさ話も流れ始めていたが、別に圭子は何とも思ってはいなかった。「美千代だって同じゃない」圭子はそう思っていた。
「あなたこそ、あれからどうなの」と圭子は心配そうな表情で訊ねた。
直美は目線を斜めに変えて、乾いた窓の外を見つめていた。ほかに客はいない。店員も暇そうに時間を持て余しているようだ。
「あなたあの時、二人で飲みに行った時の私の思い。知っていたのでしょ。私あの時この人だ、そう思ったのよ。本気だったのよ」憮然とした表情で直美が言った。
「でも彼は私を選んだのよ」圭子は上を見上げて、面倒くさそうに弁解した。
圭子は2人の間に湿った空気が入り込み妙なエネルギーを帯びてきたような気がした。もう少しで直美がそのエネルギーを吸収し爆発しそうな予感がしていた。
しかし、しばらく考え直美は小さく息を吐きだして言った。
「そうね。結局、私は振られたのよね、私よりあなたの方が奇麗よね」あっさりと直美は認めた。もうひと悶着ありそうな気がしていた圭子は少々拍子抜けがした。
「また、一緒に出かけましょうよ。圭子と一緒だといい男が近づいて来るわ」直美が言った。圭子は腹正しくなった。そして言った。
「人妻が夜、出歩いて遊んでなんかいられないわ」少々直美を見下すように言った。店員がコーヒーを運んできた。直美は店員に向かい軽く微笑んで、そのカップを口に運んだ。
大きな時計がゆっくりと時を刻んで流れ出したような気がした。
「でもね、今回の圭子の結婚の仕方を見るとどうしてもお互いを理解しあっての結婚には見えないわ。結婚までの時間があまりにも短かい」そう言って圭子の顔を見つめた。
「そうかしらね。あなたその事を会社でみんなに言い振らしたでしょ。別にいいけど、お見合い結婚みたいなものだったの。」彼女は気にもせずに答えた。
「とにかく。お互いに理解しあっての結婚ではないわよね。お互いの想いはどこにあったのかしら・・・」そう言って直美は圭子の結婚を非難した。
「そんなこと言っていられないわ、言ったでしょ。あなただってそう」自分をかばうように頷きながら圭子は答えた。
「一緒に生活していけば自然とお互いが理解できていくものよ。今時愛だのなんだのロマンチックなこと言っていられないわ」。そう言いながら少し寂しいものを感じていた。コクと深みのあるコーヒーは相変わらず苦いだけだった。窓の外は淡く白い小雪が降り始めていた。
直美は窓に映った自分の顔を見つめてなにかしら考えているようだった。沈黙が流れた、圭子は直美の煙草の煙が息苦しかった。圭子は彼女に尋ねた。
「あなたこの店のコーヒーどう思う」
「どうって?」不思議そうに直美がコーヒーカップを眺めながら答えた。
「何か感じる?」圭子が言うと彼女が言った。
「普通のコーヒーだと思うけど」彼女は首をひねりながら答えた。圭子は何かほっとしたものを感じながら言った。
「ここのコーヒーはコクと深みのある美味しいコーヒーで評判なのよ」圭子はいたずらっぽく微笑んだ。
「そうなの、そう言われると、そんな感じがするけど」彼女はなんとなく納得した様子で言った。
「美千代は一口飲んで、コクと深みに感動していたわ」圭子が言った。
「どうせ私にはコーヒーの味は解からない」直美はそう言って、コーヒーを残したままそれ以上何も言わずに店を出て言った。
圭子がコーヒーを飲み終え、ぼんやりと窓の外を眺めていた、雪は降り続いていた。店員がやってきて、コーヒーのおかわりは半額だと言って勧めた。
コクと深みのあるコーヒーを安売りするものだ。そう思いながら、断わった。窓の外は色のない景色に白い雪が美しかった。しばらくすると店に客が入ってきた。黒のコートにハンチング帽をかぶった中年の客だ。柴田より年上に見える。圭子は腕を組んで、足を組み直し、男を見たが、男は彼女を見なかった。
店内に流れる曲に耳が反応した。彼女の何も知らなかった青春、少女、処女の頃、そんな時代の曲だ。曲名は忘れてしまっていた。何も知らない青春時代。しかし今の自分が何を知っているのか、彼女には解からなかった。コーヒーの味すら解からない。
店には1枚の絵がかかっている。彼女は気にも留めていなかった。




