柴田と圭子の話(2)
そして去年と同じ今年は過ぎた。彼女はただ年齢だけがかさんでいくのを感じながら去年と同じ生活を今年も続けるのだろう、おそらく来年も、再来年も、そう感じながら柴田との二人だけの生活に何の違和感も感じていなかった。子供という言葉も今は彼女に何のインパクトも与えなかった
そして雪が解けていつも通りに冬は過ぎていった。
春はいつも通りに初々しかった。特別な感動はなかった、あでやかに光り輝き、緑があちらこちらでのび始めていった。同じ形の雲がいくつか、空に張り付き流れていた。
しかし、季節が変わっても自分自身は変わらない。それは当然なことなのかどうか圭子には解からなかった。何も起こらない平易な生活。これを安定と呼ぶのだろう。
しかしこれを幸せと呼ぶのだろうか。これが求めていたものなのだろうか。自分は何を求めていたのだろうか。答えはタンスの中にあるのかもしれない。ATMで引き出せるものかもしれない。もしかしたら柴田が隠して持っているのかもしれない。その内、彼が「ほら」そう言って出してくれるのかもしれない。いずれにしろ、考えても答えは出てこない、探しても答えは出てこない。彼女はそう思った。
圭子は突然旅行に行きたいと言い出した。柴田も今の仕事で少々ストレスを感じていた。悪くないそう思い、二人は今度の三連休に京都に出かけることにした。
圭子は何度も出かけている街だったが京都が好きだった。行くたびに新しい感動を発見する。ホテル、飛行機、チケットの予約はすべて柴田に任せ、一拍二日の京都旅行だ、久しぶりの旅行だった。
二人とも少し贅沢をするつもりでいた。京都は暖かい、彼女はその暖かさを想像するだけで体が温かくなるようだった。
出発の日、朝早くに部屋を出て飛行場に向かう。
まだ札幌の朝はまだ寒かった、それでも確実に朝は早くおとずれてくるようだ。
圭子は久しぶりに飛行機を乗ることに、こころが子供のようにはしゃいだ。
飛行機の中では音楽を聴きながら目をつむっていた。クラッシックだ。滅多にクラッシックなど聞かない。
柴田は雑誌を読んでいた、雑誌などいつでも読めるのに。彼女はそう思いながらクラッシックを聞いた。曲名など知らない、彼女にとってはどうでもよいのだ、曲を聞いて感動を覚えればそれで十分なのだ、そう思いながらいつのまにか眠りについた。
柴田に声を掛けられ気が付くと飛行機は伊丹の飛行場についている。
「よく眠っていたな」彼が言うと何となく彼女は疚しさを感じ、止めたままだったベルトを外した。そしてバスに乗り、京都のホテルに向かった。
ホテルに入った。このホテルは京都で最高級のホテルだと柴田は言った。部屋はきれいな和室だった、素敵なにおいがする。畳の部屋は前回金沢に旅行に言って以来だった。
二人は荷物をまとめ外へ出た。
きれいな庭園を見るために、西芳寺に行くことにした。
西芳寺は天平年間に行基が開いた寺でそれから600年後に足利尊氏が再興した寺である。衰徴していた2つの寺院をあわせて中興し、夢窓国師を迎え西芳寺と名付けたと言われている。
120種あまりの種類を持つ苔の庭園は建久年間に藤原師員が作り、室町初期になって夢窓疎石が造園したとされているらしい。
そのような歴史的な話が圭子は怖かった。彼女には歴史というものが人間の死の証のように感じられる。そして未来は自分には見えない世界、自分の存在しない世界。つまり死後の世界なのだ。そう思っていた・・・。
庭園はまさに大きく広がる緑の大海そのものだった。
圭子はその緑の大海に久しぶりに感動を覚えた。
そして二人はタクシーに乗り、京都の街中まで出てから街中を散策した。
古都の時間は重く優美に流れ、この街の尊厳さを表している。風は静かにさざなみ、春の光は優しく照らしていた。山々の緑は可憐にひかり、白い雲が空にたたずんでいる。
どこまで歩いても疲れる気がしなかった。圭子はいつもより柴田に寄り添って歩いた。
街中では若く、愛らしい、芸子さんがしゃなりしゃなりと歩いている。それを見て、圭子はその美しさに胸を打たれていた。
お昼はそば屋に入った。歴史を感じさせる、たたずまいだ。久しぶりにそばを食べた。彼は山菜ちゃづけだ。京都の打ちたての茶そばは味も香りも十分楽しめた。コーヒー、カレーの味がわからない圭子でも味も香りも素敵に感じた。そして甘味どころで甘いものを食べ、店員さんに久しぶりにご夫婦とよばれ、圭子はすごくうれしそうな表情を見せた。
圭子は久々に柴田と一緒に歩き、一緒に時間を過ごすのがなぜかうれしく思えた。そして突然、圭子は彼女の心の中に登りあがるような思いを感じた。柴田はどう思っているのか。この今の二人だけの時間をどう感じているのか。言葉にして表現してもらいたい、一言でよかった。彼女の胸の内に強い衝動が雲の様に渦巻いて来た。そして横を向き柴田の顔を見てみたが、いつもと変わらなかった。彼女のその強い思いは、満たされない思いとして心の中に沈んでいった。この満たされない思いは何なのか、自分の中にあるこのうそのような思いは何なのか。自分は何かを騙している。求めながらも。真実と何なのか、解らなかった。だが彼女は自分に言い聞かせた。これは旅行だからだ、今こうして彼と京都で特別な時間を過ごしているからなのだ。日常を離れた二人で美しく優美な時間を過ごしているからだと、自分に言い聞かせた。
夕暮れが近づいてきた、京都の街の散策もそろそろ終了だ。こうして歩き回るのも何年ぶりだったろう、圭子がそんなことを考えながら歩いていたら。その時、柴田の視線がすれ違う女性を目ざとく追っていることに気が付いた。彼女は彼の右ひじをつかんで言った。
「どう、好みの女の子はいた?」彼女は柴田を見ながらきつく問い詰めた。
「なんのことだい?」彼は一瞬ぎょっとしたが、しらばっくれた。
「女の子を見ていたでしょ?」彼女は容赦なく問い詰めた。
「向こうが僕を見るのだよ」柴田はさりげなく逃げた。
「何言っているの。あなたが見るから向こうが見るんじゃない。今日の夜は許さないわよ」圭子は柴田の逆を向いたまま彼の腕をつねり言った。
夕食は懐石料理だった、圭子は久しぶりにお酒を飲みながらの食事だった。柴田は京都に関しての歴史を一生懸命に彼女に話して聞かせたが、彼女の頭は酔いが回って歴史を理解するどころではなくなっていた。しかし圭子の満たされない思いは消えなかった。一言と彼の言葉が聞きたかった。しかしその思いは胸の奥深くに沈めて大きくため息をついた。
その夜、柴田は夢を見ていた。不思議な夢だった。大きな赤い獣がマンションの中で暴れだしたのだった、中のあるすべての生活用品を破壊して叫んでいる。大きな声で叫びながら彼に襲い掛かろうとしてくる、彼は逃げた必死に逃げ回ったしかし獣は彼を許そうとはしない、獣はだんだんと大きくなっていく、やがてマンションを破壊して暴れだした、大きな声でその叫びは空に届くような大きさだった。不思議なことに周りには誰も居ない彼一人だった。獣はほかの家々を踏み倒し暴れている。激しく暴れ回り彼に襲い掛かってくる。自分にできることは何なのか、この今の自分に何ができるのか。この獣すら何なのか理解し得ない自分に、いったい何が理解し得るのか。助けてほしかった。誰かに助けてほしかった。誰も居ない彼だけだった。空からは大きな塊が振り出した、彼をめがけてきた。彼はどこに向かって逃げようとしているのか分からなかった。自分の向かう方向。自分の今の想いが彼には解からなかった。圭子置き去りにして自分だけ逃げた。そこで目が覚めた。彼は横で寝ている圭子の顔を見つめ考えた。そうだったやはり、この女性のためにすべてを命を捨てるつもりはなかった。どうしてもその気にはなれないと思った。しかし自分はこの女性から離れるつもりもなかった。
結局、二人は何事もなかったように普段の生活へと戻った。
次の日曜だった。圭子は今日も一人で夕食のおかずにする惣菜を買い物に出かけていた。柴田も彼女が出かけていると思っているはずだった。彼もまだ帰っていないだろう。彼は、土日は近くの本屋に出かけている。(それは密かに彼女自身も確認済みだった。)そう思いながら歩いていたが、暗くなり始めていた街。マンションの近くにある交差点、信号が変わる直前、パトカーのサイレンが彼女の右の耳から入って左の耳から抜けていった。そして明らかに法定速度を超えた速度で一台の車が交差点に突っ込んできた。圭子はこういう車を見ると思わずその車の前に飛び込んでやろうかと思う。そうすればこの車の運転手の速度違反も暴かれるはずだ。自分も正義の味方で死んでいけるかもしれない。でもその勇気は自分には無かった。医者から君は「明日死ぬ」そう言われた身でも駄目だろう。「痛いに違いない。そうだ、死ぬほど痛いに違いない」。そう思うと自分にそうする事は出来なかった。
空は灰色に曇りかけてきた、少し黒ずんだ雲が絵の様に張り付いている。雷も鳴り、雨が降りそうだ。街中も暗くなってきている。彼女は急いだ。
そしてマンションに着きカギを開けようとすると、鍵は開いていた。柴田は家にいる。少しほっとした気持ちになりドアを開けた。
圭子が部屋に入ると柴田は本を読んでいた。彼はよく勉強する。コンピューターの本を読んで1日中勉強していることもある。父親が学校の数学の先生でよく勉強する人だったらしいのだ。その背中を見て育った彼もやはりよく勉強するようになったらしい。彼は圭子には全く分からない、難解なコンピュータープログラムに関する本を読んでいる。それが彼の仕事に関するものだと彼女は理解していたが時々、彼のいないときにその本を開いて見てみると、英単語と記号の羅列だった、まったく意味が分からなかった。ひょっとして彼はロシアかどこかのスパイではないかと本気で疑ったりもした。そうなのだ、自分は彼の頭の中に何があるのか、心の中に何があるのかは何も理解できていない。
「今日はどこにも出かけなかったの」圭子が柴田に尋ねた。
「特別用はなかったから」柴田は本を読んだまま、そう突っぱねるように言った。
圭子はなんとなく、自分の解からない世界に没頭している柴田に淋しさを感じるようになった。部屋での会話もだんだん少なくなっていく様な気がする。もう少し自分の方向を向かせたいと彼女は思った。
「明日一緒に出掛けない」圭子は聞いた。
柴田は一瞬平手打ちでも食らったような表情で圭子を見つめ、すぐに視線を本に落として言った。
「今忙しんだ」。圭子は納得できない様子で、問い詰めた。
「何かあるの」寂しげな口ぶりで言ってみた。
「新しいプロジェクトを任されたんだ」
と柴田は投げ捨てる様に言っただけだった。彼女は悲しい思いと悔しい思いを感じながら諦めた。そしてふと彼女は口にした。
自分でもなぜそのようなことを言ったのか、分からなかった。何となく自分がいつまで生きていられるのか、そういう不安が一瞬、速度違反のダンプが突っ込んできた様に頭をよぎった。
「あなた、私が死んだらどうする」圭子は突然強い口調で叫んだ。
「何を言っている。現に生きているだろう」それでも柴田は冷静に答えた逆に少しイライラした様子だ。
「でも明日、私が生きている保証はないわ。きょう寝むったら明日目を覚ます保障はないのよ。ひょっとしたら明日の会社帰り地下鉄に飛び込んでバラバラに砕け散ってしまうかもしれない。もしかしたら明日手首を切って真っ赤な血を流して死んでしまうかもしれない。」彼女は真っ赤な顔しながら大声で叫んだ。
「なぜそのようなことをする必要がある」柴田が座ったまま驚いたような表情で、座ったまま圭子を見上げるように言った。
「あなたが私を見てくれないからよ。あなたが私を愛してくれないからよ」
圭子は自分の目に涙を浮かべて見せようとしたが、出来なかった。
彼女はどんな思いで彼が自分を見ているのか、自分に想いというものを持たない人間が、自分の死を悲しむのだろうか。彼の心の眼は何を見ているのか、それは私にはわからないし彼自身しか知らないのだ。
「そんなことはない。今、僕らは十分に幸せじゃないか。そのためにこうして僕は勉強しているじゃないか」柴田は言い訳がましく反論した。それが嘘だと彼女は知っていた。
自分自身、彼に対して「愛」と言う言葉を口にした事が信じられなかった、それが何を意味するのか、彼も理解しているはずだ。彼は結婚して以来一度も自分を愛しているとは言ったことがない。自分自身そのことを望んでいるのか、この二人の生活はいったい何なのか。
彼に今、何を言っても無駄だと彼女は感じた。自分も涙さえ流れなかったのだ。それはお互いに想いを持たない事を意味するのだ。そして、もし自分が涙を流したとしても、彼は態度を変えないことを、彼女は感じていた。
圭子はそれ以上何も言わなかった。彼女にも分からなかった。遠い世界での毎日のようだった、そこで生きている自分すら理解できない、そんな人間に他人を理解することなどできはしないのだった。
2年が経った、柴田のプロジェクトは成功裡に終了した。
その日、柴田は久し振りに家でゆっくり酒でも飲みたいと思っていた。
家に着くと、圭子が済まなそうな顔をしてマンションのドアに出てきた。ドアまでお出迎えとは、とっさに柴田は何かあるな。そう感じ、その夜の混乱を想像した。
「どうしたんだい」と尋ねる。圭子が泣きそうな顔をしていきなり誤った。
「ごめんなさい」
「だからどうしたんだい」そう訝しげに訊ねると、圭子はようやく柴田を中に通した。彼は何事だろうと部屋を見回すと奥の部屋に一人の中年女性が背筋を真直ぐに伸ばして座っていた。お客様だったのか、そう思い。
「いらっしゃいませ」少し戸惑いながら柴田が言った。
女性は丁寧に会釈した。
「どちら様なの」そう言って、圭子に聞いた。
彼女はしばらく黙ったまま、その女性と目を合わせ、何か目で会話しているようだった。彼には内容は解からなかった。少し沈黙が流れ、その女性がようやく口を開いた。
「初めまして。圭子の母です」
柴田は思わず答えた。
「初めまして」そう言って軽く会釈し、ようやく驚いた。両親ともに死んでいるのではなかったのか。どういうことなのだ。遊びに来た、でも遊びに来たにしては大きな荷物を横にしている。反射的に柴田は思った。まさか居座る気ではないのか。思わず頭に血が上った。
「どういうことなの」柴田は圭子を睨みつけた。
圭子はこんなにきつい表情の柴田は見たことがない。彼が相当怒こっているのは間違いないと思った。
「ごめんなさい、母は生きていたの」圭子が俯いて言った。
「そんなことは見ればわかるじゃないか。だからそのお母さんがどうしてここにいるかを聞いているのだ」柴田は問い詰めた。圭子は再び母のほうを向き、何か目で会話しているようだった。そして少しの沈黙が流れた後、圭子の母が口を開いた。
「しばらくお世話になります」そう言って、丁寧に床に両手の指先をついて、軽く彼に向かって会釈した。
柴田は圭子の腕を引き、彼女を寝室に連れ込み、小さく、しかし厳しい声で問い詰めた。
「どういうこと」
「ごめんなさい。しばらく家で母の面倒を見てほしいの」圭子は泣きそうだった。
「しばらくって、どのくらいなの」彼はなおも問い詰めた。
「多分1週間で済むと思うわ」圭子は言った。
「1週間、本当なのだろうな、そのまま居座るつもりじゃないだろうな」柴田は激しく言った。
「ひどいわ。信じてよ」圭子が言う。
「信じてって、今しがた君のウソがばれたのだぞ、その人間の言うことが信じられるか」柴田はそこまで言って、少し言い過ぎたかなと感じた。
「どうしたんだい」そういいながら、圭子の母が寝室に入ってきた。
「大丈夫。何でもないわ」そう言って圭子が母を寝室から押し出すと、柴田のほうに向きなおり、言った。
「とにかく信じて」柴田を見つめた。彼女はこんなに真剣に彼を見つめたのは初めてのような気がした。
「・・・・・」柴田は何も言わなかった。
その夜3人で食事をした。柴田は何も言わずに食事をしている母親に、取りあえず聞いてみた。
「お母さんはおいくつですか」恐る恐る聞いた。
「今年、70になります」そう柴田を見ずに答えた。
「どちらから来たのですか」なおも聞いた。
「釧路です」さりげない返答だ。とっさに柴田は圭子が釧路で生まれ育ったのだと思った。
そして核心の問題に触れるまで何とか話題をつなげようと努力した。
「釧路はタンチョウヅルがきれいでしょう。天然記念物ですものね。」彼がそう言って何とか話が途切れないように続けた。ここで話が途切れるとまた沈黙に陥ってしまう気がした。
「鹿もいるのですよね。かわいいでしょ」柴田が言った
「邪魔なだけですよ」憮然とした表情で母が答える。どこか物の言いようが圭子と似ているような気がしてきた。気の強そうな人だ。そこで圭子が急に口を挟んだ。
「お母さん今度の土曜日、一緒に街に出ましょう」
「いいね」それまでの母の暗く沈んだ表情が、飴玉をもらった子供のように輝いた。
それ以上柴田は何も言えず、結局、聞きたいことは聞き出せなかった。ご飯を食べてTVを見て8時頃に母は寝た。二人はいつも11時頃に寝る。6時頃におきて7時頃には家を出る。一日の睡眠時間は二人ともに7時間程度である。
その夜、柴田は圭子に聞いてみた。
「お母さんは何のために来たの」圭子は聞かれることは覚悟していた。全部ほんとのことを話すつもりでいた。
「病院に診断を受けに行くためよ」圭子は素直に答えた。
「病院・・・・」柴田は少し混乱した。
「少し認知症が始まっているみたいで、検査を受けに行くの」
「認知症って。お母さん釧路で誰と暮らしているのだい」
「一人暮らし」圭子は諦めるような口ぶりだ。
「一人暮らしって。もし、認知症が進んでいったらどうするつもりなの」柴田は少し恐怖感を感じていた。
「まだ考えていないわ。実は私、姉妹がいるの。みんな札幌にいるわ」
「親戚づきあいはないというのも嘘なのかい」柴田は僅かにほっとしたものを感じていた。
「ええ。姉とはたまに連絡も取るし、会っている」
「お母さんの事は話し合っているのかい」柴田は完全にほっとしていた。
「まだ考えてないの。これからよ」圭子が答えた。
「これからって、現にお母さんは僕らを頼ってうちに来ているじゃないか。助けを必要としているじゃないか。このまま認知症の診断が下されて、介護が必要ですということになったらどうするつもりなの」柴田は激しく問い詰めた。
「安心して、私達に面倒なことにならないようにする」圭子はすがり付く様に言った。
「面倒なことって。君のお母さんじゃないか・・・」柴田は混乱していた。
二人はその日はそのまま寝た。
次の日は、お母さんが留守番をし、2人はいつも通り会社に出かけた。柴田はどうしても圭子から聞いた認知症という言葉が気になり、会社でも落ち着かず、仕事が手につかなかった。
「どうした、柴田。具合でも悪いのか」部長が声をかけてきた。
「あ、いいえ。大丈夫です」柴田は言った。
「ならいいけど。プロジェクトが終わったばかりだ。無理せんでもいいからな」部長が言った。柴田はだったらほっといてくれ、そう思いつつ部署内にある20円コーヒを飲みに立ち上がった。そこへ前川が寄ってきた。
「悩みがあるなら聞くぞ。今日のお前、明らかにおかしいぞ」彼が言った。
「ああ。実はな・・・。会議室へ行かないか」柴田は彼ならと思い、相談することにした。
二人は会議室へ向かった。この時間帯どの会議室も使われていないようだった。柴田はそんな長い話にはならないと思った。
「女房の母親が認知症らしくてな。昨日、釧路から家にやってきたんだ。検査を受けるらしい。しかし釧路で一人暮らしらしくて、いずれ面倒を見なきゃならない事にもなりそうなんだ。まあ当然と言われればそれまで何だが、俺は女房から母親も父親も死んだと聞かされていたもんで、いきなり認知症の母の面倒を見てくれと言われて、ちょっと困ってるんだ」柴田は前川に言った。
「そりゃ、当然だな。まあ、落ち着いて考えれば方法はいくらでもある。家で面倒見れなきゃそれなりの施設は一杯ある。お前だって金がないわけじゃないだろう。金を出せばホテル並みの老人施設が今はあるそうだ。お袋さんに介護が必要になったときに真剣に調べてみろ」前川がいとも簡単に彼の問題を解決してくれた。柴田はほっとした、そう介護が必要になったときに圭子と話してみよう。金は十分ある。
そして仕事が終わりいつも通り部屋に帰ると、お母さんが料理を作って待っていた。
「今日は肉じゃがだよ」そう言ってお母さんが出来立ての肉じゃがをテーブルに出した。美味しい。柴田は久しぶりにできたての手料理を食べた気がした。その時、柴田は圭子の手作りの料理を口にしたことがない事に気が付いた。
その週はお母さんの手料理で過ごし、そして1週間後、お母さんは帰っていった、ひとりの家に。柴田は圭子に何も言わなかった。圭子は柴田が何かを言ってくれないか期待していた。しかし柴田は無言のまま母を見送った。
その3日後圭子の携帯に母から電話が入った。
「どうしてるんだい」母が言った、明らかに心配そうに、泣き入りそうな声だった。
「元気にしてるわよ」そう答えた圭子の声では元気にしてると思えないだろう。
「仕事はまだ見つからないのかい」母の声からは表情が読み取れた。圭子は咄嗟におかしいと感じたがとりあえず話を合わせることにした。
「大丈夫。生活には困っていない」圭子は素直に言った。実際に困ってはいないのだ。
「金に困ってるんじゃないのかい」彼女は3日前、母を一人で釧路に返したことを後悔した。あのまま「母の面倒を見てくれ」と言えば柴田はいやとは言わなかったはずだ。
「大丈夫」
「大丈夫ってお前、収入もなしに・・・」
「大丈夫なの。お母さんに迷惑はかけない」
「何か用があるの」
彼女は腹ただしくなってきて言った。
「いや、今度お前の所に行こうと思っている」母が突然言い出した。彼女は一瞬、迷った。
「何しに来るの。この前来たばかりじゃない」
しかし、圭子は電話に向かって怒鳴りつけた。
「迷惑ってお前」
「とにかく特別何も用が無いなら切るわよ」
彼女はそう言って電話を切った。
まったく、母親からの愛情はこの歳になるとありがたさを超えて怒りになってくる。そして自分に言い聞かせた。「この前の様子だと母は生活には特に困っていないのだ。これでよかったのだ」。




