【第80話】わだつみの国
皇居内の書陵棟。
皇室の歴史と記録を守る、沈静とした場所。
歴代天皇に関する古文書、系譜、御製、儀式の記録、写真資料、陵墓に関する史料まで。
まさに蓄積された、記憶庫だった。
書庫棟のさらに奥深く。
厳重に管理された書架が幾重にも並ぶ最深部の一角。
そこに『黒書』が、人知れず仕舞われていた。
まるで――
『黒書』そのものが、この場所こそ自分の居場所に相応しいと、身を委ねているかのように。
一階のエントランスホールは、静かな回廊空間になっていた。
高い天井、磨き込まれた床、柔らかな照明。
壁面には、歴代天皇や皇族の歩みを示す写真、儀礼の絵画が整然と展示されている。
皇室の時間が、視覚として連なっているかのように。
さながら、美術館か歴史資料館のギャラリーのようだ。
その回廊の一角で、和仁天皇が腕を後ろに組み、静かに展示物を見つめながら立っていた。
やがて――
入口の自動ドアが、静かな作動音とともに開く。
和仁天皇が、ゆっくりと振り返る。
そこには侍従長の天海と……
――陽仁。
天海がそっと一礼する。
陽仁は、入口に立ったまま動けなかった。
父と目が合う。
ただ、一言。
「ごめんなさい」
そう言って、立ち尽くす。
覚悟していた。
数秒の静寂。
和仁天皇は、予想に反して厳しい言葉をかけることはなかった。
その表情に浮かんでいたのは、穏やかな微笑み。
ただ、一言。
「おかえりなさい」
と、言った。
陽仁は、その場で肩を震わせた。
表情を歪ませ、うつむく。
和仁天皇はそれを見て、困ったように笑う。
(そんな顔をさせるつもりは、なかったのだけれど……)
誰も動かない。
まるで静止した絵画のように。
だがそれは、決して気まずい沈黙ではなかった。
壁面に並ぶ皇室の歴史画や写真。
歴代の時間に見守られるように、今この瞬間もまた、皇室の一頁として刻まれているのだろう。
和仁天皇が、柔らかく言った。
「こっちへ来なさい」
その声は、温かさしかなかった。
陽仁は後ろめたさを感じつつも、静かに歩み寄る。
その姿を見て、侍従長の天海がほっとしたように微笑んだ。
そして深く一礼する。
“この再会に、自分は不要”
そう言わんばかりに気配を消し、静かに入口の外へ下がっていく。
広いエントランスには、父と子だけが残された。
壁面の絵画と写真たちが、無言でふたりを見守っている。
和仁天皇が、短く尋ねた。
「何があった?」
責める響きはない。
ただ、知ろうとする声だった。
陽仁は視線を落とす。
長い数秒の後、ようやく意を決したように口を開く。
「……戦時下の日本へ、行ってきました」
その言葉は、しんとしたホールに吸い込まれるように響いた。
和仁天皇は驚かなかった。
眉をひそめることもない。
否定せずに、ただ息子の顔を見つめた。
頬が、赤く腫れている。
和仁天皇はそっと息を吐いた。
「そうか……」
短い一言。
けれどその中には、父の寛容があった。
和仁天皇の視線が、すぐそばの展示物へ移る。
そこには戦後、全国を巡幸した昭和天皇の写真。
焼け跡に立つ人々へ歩み入り、言葉を交わし、頭を垂れるその姿。
和仁天皇は、その写真を見つめたまま静かに問う。
「祖父には、会ってきたかい?」
陽仁は、はっきりと頷いた。
「はい。お会いすることができました」
本当なら、話したいことは山ほどある。
しかし、それらを今ここで語り尽くすことはできない。
時間が、圧倒的に足りない。
もうすぐ、宮内庁と皇宮警察による“事情聴取”が始まる。
和仁天皇もそれは分かっていた。
和仁天皇は、優しい眼差しを陽仁に向ける。
国として、皇太子が無事に戻ってきてくれた。
父として、息子が無事に帰ってきてくれた。
それだけで、今は十分だった。
「ついておいで」
陽仁はそう言われ、小さく頷き、父の後ろを歩き出す。
ふたりはゆっくりと、ギャラリー回廊を巡っていく。
左右の壁面には、絵画や写真が連なっている。
皇室の歴史、その歩み、壮大な時の流れ。
古代から中世――
神話の系譜に連なる存在として、神聖化された天皇。
政治権力との距離は、時代によって変化。
ある画には、白装束の祭祀。
ある画には、玉座から政を見守る姿。
明治以降――
近代国家の成立と国家神道。
宗教的権威と政治権威が一つに結びつけられた時代。
ある画には、教育勅語を奉読する学童の姿。
ある画には、軍旗と御真影。
そして、戦後――
焼け跡と巡幸。
人々の中へ歩み入る、昭和の御代。
人間宣言を経て、象徴天皇制へ移行した時代。
神格は失われても、国民と共に歩む存在として新たに位置づけられていく。
ふいに――
風が吹いた気がした。
どこから流れてきたのか分からない。
ふと、陽仁の意識が遠のいた。
立ちくらみがして、思わず目を閉じる。
意識が、水の底へ沈むように静かに落ちていった。
そして再び目を開けたとき――
そこはもう、書陵棟の回廊ではなかった。
“時間”そのものが満ちている。
その薄暗い空間に、幾重にも重なった気配が漂っている。
それは人の声の残響。
祈りの余韻。
誰かの、言葉にならなかった想いの影。
遠くで、衣擦れの音がした。
振り向いても、人影はない。
それでも、誰かが通り過ぎていく。
幾百年も前の、装束をまとった影。
さらにその後ろを、また別の影。
戦の知らせを受けた朝の、重い足取り。
儀式の夜に漂う、張り詰めた静寂。
敗戦の痛みを胸に抱えながら、それでも前を向こうとした呼吸。
それらは過去ではなかった。
この空間では、すべてが同時に存在している。
光の粒となって、漂っている。
陽仁は、理解した。
ここは歴史ではない。
年表でもない。
長い年月をかけて堆積した、“存在そのもの”の層。
背後には、皇統の足跡。
前には、まだ誰も見ぬ未来。
歩みは止まらない。
この空間で、ただ一つだけ確かなことがある。
――『祈り』は、途切れていない。
「……ひと」
誰かが、呼んでいる。
陽仁は、その声のした方へそっと手を伸ばす。
だが、指先は何にも触れられない。
空気すら掴めない。
それでも、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、何か大きなものに包まれているかのような、微かな安堵があった。
無数の光が、通り過ぎていく。
その一つひとつが、陽仁のすぐそばをかすめ、消えずにどこかへと繋がっていく。
やがて陽仁は気づく。
それらの流れが、一本の大きな流れとなっていることに。
果てから果てへ。
始まりも終わりも見えない、ただ続いているもの。
その末端に――
“自分”がいる。
「陽仁」
今度は、はっきりした声だった。
父の声。
陽仁は、はっと息を飲む。
視界が戻ると、そこは書陵棟のギャラリー回廊だった。
いま見ていたものは、幻だったのか。
陽仁は、一枚の絵画の前に立ち尽くしていた。
息子の様子に気づき、和仁天皇が静かに横へ歩み寄る。
何も言わず、陽仁の隣に並ぶ。
父と子で、同じ絵を見る。
描かれていたのは、大海原だった。
そして、中心には――太陽。
ぶれない軸、静かな中心のようだった。
海全体を照らしている。
まるで、“寄り添う”ように。
そこに――『在る』。
しかし、その絵の名札に、“太陽”という文字はなかった。
そこに記されていたタイトルは――
『わだつみ』
描かれている果てしなく広がる海を見て、陽仁には、それが空間ではなく“時間”に感じられた。
まるで悠久、永遠を示唆するように。
時の波の音が、聞こえてくる気がした。
それは――わだつみの詩
陽仁は、絵を見つめたまま、小さく呟いた。
「ねぇ、お父さん」
和仁天皇が、静かに聞き返す。
「なんだい?」
ギャラリー回廊は、息を潜めたように静まり返っていた。
その静寂にそっと息を吹き込むように。
陽仁の口から、独り言のような、本音がこぼれ落ちる。
「……重たいよ」
“何が”重たいのか。
主語のないその言葉でも、父親には伝わった。
陽仁はさらに、小さな声で。
回廊に並ぶ祖先たちの肖像画にも届かないほど、小さな声で。
隣に立つ父親だけに届く声で、呟いた。
「……押し潰されそう」
和仁天皇は、しばらく何も言わなかった。
やがて、和仁天皇はそっと、陽仁の肩に手を置く。
重さを取り除くためではない。
それはきっと、一緒に背負うために。
そして――
和仁天皇も、息子の陽仁だけにしか聞こえない小さな声で、そっと呟いた。
「実はね、お父さんもなんだ……」




