【第79話】弟と姉
皇居ではすでに宮内庁も皇宮警察も、皇太子帰還の報を受けており、大混乱に陥っていた。
庁舎と皇宮警察本部では、幹部職員たちが慌ただしく廊下を行き交う。
各部署への連絡が絶え間なく飛んでいた。
その中心に立つ宮内庁長官。
的確に、矢継ぎ早に指示を飛ばしていく。
こんなときに限って次長が不在。
それだけではない。
“腕利き”として知られる数名の職員とも、連絡がつかないのだ。
長官の胸中に、苛立ちが募る。
(あ~! やんなっちゃう!!)
内心では悲鳴をあげていた。
皇太子殿下の第一聴取内容は、すでにこちらにも共有されている。
無事に帰還された、それ自体は吉報だ。
しかし、発見現場で警察官から所在を問われた殿下が、口にした言葉。
『戦時下の日本へタイムスリップしていた』
(なんじゃそりゃ!? 説明どうすんだこれ)
陛下にも皇后陛下にも、そのままお伝えできるはずがない。
まして記録文書に残すなど、論外!
(どう整理する!? どう体裁を保つ!?)
宮内庁長官は、天を仰いだ。
(あ~ん! 私が“失踪”したいよ~!!)
陽仁を乗せた皇室用公用車は、半蔵門を抜けて皇居内へと滑り込む。
門内にはすでに、皇宮警察本部長の雨宮をはじめ、宮内庁の幹部数名が待機している。
その顔ぶれには安堵が浮かんでいたが、同時に拭いきれない困惑も滲んでいた。
車が止まり、後部ドアが開く。
陽仁が姿を現した。
雨宮が深く頭を下げる。
「殿下、ご無事で何よりでございます」
宮内庁の幹部たちも続けて言葉をかける。
「お怪我はございませんか」
「ご気分は優れますか」
どれも丁寧で、温かな言葉。
けれどその胸中は、穏やかではない。
同じ服装、体格の変化なし、衣服の乱れも、汚れもない。
失踪から帰還した人間の状態としては、あまりにも不自然。
事前報告の通りだった。
失踪時と、まるで同じ。
やはり、気になってしまう。
雨宮が慎重に問いかけた。
「……殿下、何があったのでしょうか?」
陽仁は、その場にいる大人たちの空気を敏感に察した。
“頼むから理解不能なことは、言わないで”
言葉にされずとも、心の声が聞こえてくる。
だから陽仁は、答えを選んだ。
「説明が難しい経験をしました。ですが国家にも皇室にも、危険が及ぶようなことではありません。どうか安心してください」
その返答は、年齢に似合わぬほどの配慮が満ちている。
むしろ大人たちの方が、その気遣いに申し訳なく思ってしまった。
「ひとまず……」
雨宮は一歩前に出て、陽仁に促す。
「殿下のお身体の確認を最優先いたします。御料病室へご案内しますので、こちらへ」
陽仁は小さくうなずき、歩き出した。
皇居内の通路を進む。
すれ違う職員たちは、一様に足を止めて頭を下げた。
「ご無事で本当に……」
「お戻りになられて、安心いたしました」
陽仁は、その一人ひとりに会釈で応じる。
謝意と、迷惑をかけたことへのお詫びを込めて。
だが、それと同じだけ。
背後や通路の端で、ヒソヒソ話が聞こえる。
内容は聞き取れないが、陽仁の耳に妙に残った。
担当の侍医が、陽仁の身体検査を終えた。
事前に共有されていた報告は、誇張でも錯誤でもなかった。
失踪から発見までの時間を考えれば、本来なら何かしら身体に残っていて当然の痕跡が、何一つ見当たらない。
(どうなってんの……)
医学的に説明がつかない。
しかし診断記録に、『説明不能』とは書けない。
端末に表示されたカルテ画面へ、躊躇しながらも文字を打ち込む。
――異常なし。
陽仁が身体検査を終えて、御料病室を出ると。
広々とした静かなフロアには、先ほどまで付き添っていた雨宮に代わり、侍従長の天海が待っていた。
そして――
その隣には――
姉(皇女)の逢子の姿。
天海が一礼する。
「陽仁様、ご無事で何よりです。お疲れのところ恐縮ですが――」
その言葉を遮るように、逢子が一歩前へ出た。
どっしりと立ち、陽仁を真正面から見据える。
「どこへ行っていたの?」
その口調には、安堵がある。
だがそれ以上の、怒気。
心配した時間の長さが、そのまま怒りへと変わっていた。
陽仁は、しばらく黙り込む。
短い思考の逡巡を経て、正直に口を開いた。
「……戦時下の日本に、タイムスリップしてました」
『――バチンッ!!』
乾いた音が、広いフロアに鋭く響いた。
一切、手加減のない一撃。
逢子の平手が、陽仁の頬を打っていた。
侍従長の天海ですら、息を飲むほどの強さ。
陽仁の目に、じわりと涙が浮かぶ。
頬の痛みだけではない。
ようやく――叱られた。
逢子の声が、張り詰めた空気を裂く。
「この期に及んで、ふざけているの? どれだけ多くの人を心配させて、迷惑をかけたと思ってるの?」
弟の目に、涙が浮かんでいる。
その程度の涙じゃ、今回の騒動、全然帳尻が合わない。
「あなたの身勝手な行為が、どれだけの人を巻き込んだと思ってるの? 皇室の信用はガタ落ちよ!」
陽仁は、赤く腫れた頬を押さえたまま、うなだれる。
「日本国憲法第一条。
“天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴。その地位は主権の存する日本国民の総意に基づく”
つまり、私たちは国民の信頼によって支えられているの!」
逢子の突き刺すような視線が、陽仁の胸を貫く。
「その立場にいるあなたが! 国民を失望させるような軽率な行動をしてどうするの? いい加減にしなさいっ!!」
今回の一件、結果として表には出なかった。
皇太子は休養という名目で、何とか乗り切った。
しかし、逢子は許せない。
侍従長の天海が、陽仁を庇うように一歩前へ出る。
「逢子様」
深々と頭を下げた。
「そもそもの発端は、陽仁様が公用車から飛び出すほどに、そこまで追い詰められていたことを、私どもが気づけなかったからです。
侍従長として、深くお詫び申し上げます」
それでも構わず、逢子は言い放つ。
「陽仁。あなたのせいで宮内庁も警察も、体制の見直し、配置転換・業務改善という名で大規模な人事異動してるわよ!
よくもまあ、ここまでこの国を引っかき回してくれたものね!」
実質、多くの者がキャリアを終了させられた。
陽仁失踪当時、警護にあたっていたSPたちは、更迭。
公用車の運転手だった者にいたっては、懲戒免職。
ほとぼりが冷めるまでは待機状態にあるが。
陽仁は、何も言い返せなかった。
頬の熱よりも、胸の奥の痛みの方が、はるかに強かった。
逢子が、なおも陽仁を責め立てる。
「あなたが失踪していた間、周りからなんて言われていたと思う?」
一瞬の間。
「“問題児”よ!」
「なんと!?」
思わず声をあげたのは天海だった。
陽仁は何も言い返さない。
その評価を、否定せずに受け止めている。
「当然よね。行動は軽率。独断的。周囲を顧みない。将来を不安視されて当たり前だわ!」
「逢子様――」
その天海の声には、明確に制止の意図がある。
陽仁への配慮が滲んでいた。
「陽仁様、申し訳ございません」
天海は再び深く頭を下げた。
「そのような言い方をした者たちには、私から厳しく申し伝えておきます」
陽仁は崩れ落ちるように、うなだれたままだ。
沈黙。
弟の打ちひしがれた姿を見て、逢子の熱くなっていたものが、少しだけ静まった。
そこで初めて、気づく。
(……違う)
目の前にいる陽仁は、以前の弟とは、どこか違っていた。
幼さは、そのまま。
それでも、その奥に“重み”がある。
何かを見てきた者の沈黙。
何かを知ってしまった者の静けさ。
今、私の目の前に立っているのは――
“何かを背負って帰ってきた者”の姿。
(この子は本当に……『別の時間』を生きてきた……?)
張り詰めていた空気が緩んでいた。
陽仁はふと、違和感に気づく。
いや、違和感というより、今さらのように思い出したのだ。
本来なら、こういう場面で真っ先に駆けつけてくれるはずの人がいない。
自分の教育係であり、皇居での日々を支え続けてくれた侍従。
“あの人”の姿が、どこにもない。
陽仁は、逢子の怒りの余韻を縫うように、小さく口を開いた。
「……どこへ?」
短い問い。
だがその意味を、逢子と天海は理解した。
ほんの一瞬だけ、ふたりは視線を交わした。
言いづらい。
その空気が、はっきり伝わってくる。
やがて逢子が、静かに答えた。
「病院よ」
「え……?」
陽仁の顔から、血の気が引く。
逢子の目が、遠くを見た。
彼女にとっても、その人物は近しい存在だった。
天海は顔を背けている。
「東大病院に入院しているわ」
その病院名が、かえって異様だった。
宮内庁病院でない。
それはつまり、皇居内で対応しきれない状態。
あるいは、宮中の外で処理すべき事情があるということ。
逢子も、侍従長も、その核心には触れない。
その沈黙が重かった。
「お見舞いに――」
陽仁が反射的に、そう言いかけた。
それを即座に、侍従長が制する。
「陽仁様」
穏やかな声だった。
「すぐに駆けつけたいお気持ちは、痛いほど分かります。ですが、たとえ陽仁様であっても、現在は“面会謝絶”でございます」
陽仁は、その一言で予感してしまう。
(――もう、あの人は……自分の前に現れないのかもしれない)
天海がさらに続ける。
「それに――陽仁様には、今、他に果たしていただくことがございます」
陽仁は、唇をきつく噛みしめるしかなかった。
「陽仁様。お戻りになられたばかりのところ、誠に恐縮ですが――これより"安全確認"をさせていただくことになります」
安全確認という名の、“事情聴取”。
絶対に避けられないことだった。
陽仁も黙って頷く。
天海は憂色の眼差しで言葉を紡ぐ。
「……おそらく、長くなります」
少しだけ視線を落とす。
「……非常に、長い時間になるでしょう」
少しだけ声を柔らかくして。
「ですからその前に、ご家族にお会いください。まずは陛下に『ただいま』を、お伝えになってください」
天海は、後ろめたそうに続ける。
「皇后陛下は……陽仁様のご帰還の報に、安堵なさいました。
その……安堵があまりに大きく、張り詰めておられたお気持ちが一気にほどけてしまわれたのでしょう。嬉しさのあまり、お倒れになり、現在はお休みになっておられます」
陽仁の胸が、きゅっと締めつけられる。
逢子も辛そうに俯いていた。
天海がそっと、背中を押すように言った。
「……ですので、まずは陛下のもとへ。書陵棟にてお待ちでございます。私がお供いたします」
逢子は弟をまっすぐ見つめ、見送る。
「お父様にも、きちんと謝るのよ」
「はい」
陽仁は、素直に答えた。
「いい? 陽仁」
姉のその声に、もう怒気は無い。
「信頼を取り戻すのは、とても大変なこと。皇室は、国民の"信頼"によって成り立っている。国民が皇室を信じなくなったとき、私たちの立場はあっという間に失われる。
私たちは"権力"を持たない。それでも“見えない力”で国民を支え、導いていかなければならない。それだけは覚えておきなさい」
陽仁は、深くうなずいた。
陽仁は侍従長とともに歩き出す。
その背を見送ったあと。
逢子は、ようやく深く息を吐いた。
瞳が潤んでいる。
ぼそりと、呟いた。
「……無事で、本当に良かった」




