【第78話】物語の裏側にいた者たち
岐阜県・揖斐川町、旧春日村。
日本で最も有名な『さざれ石』の産地。
国歌『君が代』で詠まれている、あの巌が発見された地である。
かつてこの地を離れたふたりの男が、里帰りを果たしていた。
彼らは、さざれ石にまつわる“時を超える”という古い伝承を知る、数少ない旧村の血を引く者たちだった。
周囲を穏やかな原生林に囲まれた、ぽっかりと開けた空間。
そこに、その特大の『さざれ石』はあった。
まさに千代に八千代にという時を経て、小さな石たちが結集し、苔が生え、巌となった姿。
その霊石の前に立つ、ふたりの男。
“零の会”と、警察や公安が呼称する団体の構成員。
二階堂 と 三篠 である。
沈黙を破ったのは、二階堂の淡々とした声だった。
「失敗しましたね……」
三篠は、まるで行きずりの挨拶でも返すかのように、短く応じる。
「そうですね」
その態度は、あまりにあっけらかんとしていた。
普段は温厚そのものの佇まいを見せる二階堂だが、その指先には微かな震えがある。
二階堂は特徴的な黒縁眼鏡を一度外し、ハンカチでレンズを執拗に拭き上げた。
胸の内に溜まった苛立ちを、強引に押し殺すための儀式のように。
「……三篠さん。何故、裏切るような真似をしたんですか?」
二階堂の問いかけには、言葉の端々に抑えきれない棘がある。
三篠はすぐには答えない。
静かに佇んでいる。
まるで周囲の木々がささやく音や、木漏れ日の揺らぎと同化するように。
この静謐な森の中では、感情を必死に堪える二階堂の方が、“異物”として浮き上がっていた。
構わず、二階堂は声を絞り出すように再び問う。
「……何故、『黒書』を、わざわざ宮中に返したりしたんですか?」
『黒書』
明治から大正にかけて、政府と宮内省が“万世一系の正当性を補強するため”に総力を挙げて行った調査の産物。
しかし、その過程で掘り当ててしまったのは、正当性を裏付けるどころか、皇統の出自に関する決定的かつ致命的な矛盾だった。
表沙汰にできぬまま、闇へと葬られたはずの超極秘の禁断書。
万世一系という国の根幹を、根底から覆す“絶対的な証拠”をその手に掴みながら、なぜこの男は手放したのか。
なじるような二階堂の視線を浴びてもなお、三篠は動じない。
彼はただ、目の前にそびえ立つ巨大なさざれ石を見上げていた。
まるで、石の隙間に堆積した気の遠くなるような時の流れを、ひとつひとつ吟味するかのように。
やがて三篠は、風のささやきに似た静かな声で語りだした。
「戦前の日本、とりわけ明治維新からアジア太平洋戦争に至るまで。天皇は国家神道の下で『現人神』として神格化されていました。天皇は神の子孫であり、その祖先は天照大神であるという神話。それが皇室の正統性を支えていたわけです」
だから何だというのだ?
二階堂は喉元まで声が出かかっていたが、辛うじてそれを飲み込んだ。
三篠の独白に耳を傾ける。
「日本神話には、神の誕生や起源に関する記述が豊富にあります。しかし――」
三篠の視線が、さざれ石の表面に付いた苔の、さらに奥を射抜く。
「神話そのものには、我々一般の日本人の誕生や起源については、驚くほど記述が欠落しているんです。神々については饒舌に語られているのに。民衆がどこから来てどう生まれたかという明確な描写は、ほとんどありません。まぁ……“神話”ですからね……」
それでも、神話という壮大な設計図の構成員として、民は欠かせない。
だが、その“日本人”の誕生と起源が欠如している。
間接的に、そこに“既に存在しているもの”として扱われるのみだ。
「敗戦の翌年に、天皇陛下は仰いました。『私は神ではない、人間である』と。
あの“人間宣言”によって、天皇は『神』の座を降り、『人間』になられた」
そこで三篠は笑顔を浮かべて、隣の二階堂を向いた。
「人間宣言後の天皇を、神話の系譜を引き継ぎながら、同時に“民衆・日本人の起源”を補完する存在として位置づけることはできませんか?」
「は……?」
乾いた声が漏れた。理解が追いつかない。
二階堂は呆然と立ち尽くす。
対象的に三篠の顔は、子供のようにハツラツとしていた。
「戦後の天皇は、神話を背負ったまま、現実の人間として国民と共にあります。これにより、神話における最大の欠落……つまり『神と人の間の空白』が埋まるんです! 天皇こそが、神話と現代を繋ぐ、唯一無二の“生きた接点”になる!」
三篠の言葉は加速し、熱を帯びていく。
「かつて神であった天皇が人間になった。その劇的な転換と特別な存在が! 日本人全体の誕生と起源、存在意義を神話に繋いでくれるのです!」
三篠の瞳の奥には、確信に満ちた光が宿っていた。
この男は――
戦前の神格と戦後の人間性の両方を併せ持つ天皇が、『神話で語られなかった日本人の存在や起源を補完できる』と言いたいのか。
神格を失ったにもかかわらず、神話的なバックボーンを持ったまま人間になった天皇は《象徴以上》の役割を持つ、と。
二階堂は、深く辟易してしまう。
天皇は神話で描かれなかった、“日本人の存在意義を埋める生きた補完者”だと。
戦前の神格と戦後の人間性の両方を併せ持つが故の、“神話と現実を繋ぐ者”だと。
三篠のその理屈は、二階堂の理解の範疇を越え、彼を怒りと虚脱感で激しく震えさせた。
「だから三篠さんは……天皇制を呪い、廃止を目論んでいた立場から一転して、それを肯定する側に回ったと……」
森林を、穏やかな風が吹き抜けた。
木々が優しくざわめく。
だが、その柔らかな自然の旋律も、二階堂の激情を鎮めるは至らない。
「そんなもの! どうだっていいでしょう! そんなものがなくたって、人間は生きていけます! そんな! そんな目に見えもしない唯心的なものが! 一体、現実の何の役に立つというんですか!!」
二階堂にとって、三篠の理屈は到底納得のいくものではなかった。
三篠は怯むことなく、かといって二階堂の激昂を否定する素振りも見せない。
ただ、この男には形而上の理屈は一生理解できないのだろうなと。
慈しみでも、哀れみでもない、乾いた笑みを浮かべるだけ。
それが二階堂の癪に障った。
「我々は! 甚大な、あまりに甚大な人損を出したんですよ! 事実上、組織は再起不能だ!」
木々のざわめきを切り裂くような、悲鳴に近い声だった。
「一条さんは今どこで、どうなっているのかも分からない。いや、あんな男はどうだっていい! あなたと同じ、裏切り者だ!」
二階堂は声を荒らげる。
「ですが、六角さんは! 伍代さんは! 四乃さんは!
まるで運命に切り捨てられたように、帰ってこれなかった!!
子どもたちは運命に見放されず、生かされ、現代へと帰り着いたというのにっ!!」
二階堂の悲痛な叫びは、もはや聞くに堪えない憐憫を帯びている。
「そして“あの方”も! おそらくもう、危篤の状態ですよ!!」
各々の理由は違えど、目的を同じくした同志たち。
天皇制を終わらせるために命を賭した彼ら。
三篠は何も言い返さなかった。
森林が風に揺れ、木の葉がささやき合う。
流れるような波の音は、ふたりの間を絶え間なく通り過ぎていく。
それは決して、傷ついた者への励ましなどではなく。
諸行無常の詩を歌い上げている。
まるで森林は、広大な大海原のように。
それがふたりにとっての、《わだつみ》であった。
やがて風が凪ぎ、大海原の波が引き去ったあと。
二階堂は静かに尋ねる。
そこにはもう、先ほどまでの激情の名残はない。
「三篠さんは彼らに……どう詫びるつもりですか?」
三篠は、遠くを眺めるような眼差しで応えた。
「これから考えます。この国の行く末を見守りながら……」
二階堂は、黒縁眼鏡を外す。
ハンカチを取り出すと、レンズを、湿った顔を拭う。
涙の痕跡は綺麗に拭き取られた。
丁寧にハンカチを折りたたんで、胸元のポケットに仕舞う。
それが、いつもの彼に戻る合図だった。
「私はそんな悠長なことは言っていられません。“本職”もありますし、東京へ帰ります」
その言葉に嫌味はない。
二階堂の口調はただ潔く、澄み渡った諦念だけが響いていた。
まるで目の前の巨大なさざれ石が、二階堂の奥底に溜まった悲しき念を、千代に八千代に時をかけて吸い尽くしてくれたかのように。
「……お元気で」
二階堂は、一度も振り返ることなく静かに立ち去った。
三篠はその場に取り残される。
不意に、また風が吹き抜けた。
森林がさらさらと囁き、梢の間から降り注ぐ木漏れ日が、綺麗だ。
さて、自分はどうしようか。
この辺りは、温泉に恵まれている。
少しばかりこの故郷に残って、休養するのも悪くない。
最後に三篠は、目の前の巨大なさざれ石を見据える。
石が刻んできた悠久の時の中で、ひとりの男の影を追う。
明治の聖上。
“万世一系”も“現人神”も。
言葉自体は古くから存在していたが、絶対的な国家の柱としての意味を持ったのは、明治時代からだ。
激変する時代の中で、神格を持たされ、突如担ぎ上げられた。
三篠の脳裏に浮かぶ、『黒書』の最後の1ページ。
万世一系を否定する決定的証拠を集約させた、その末尾に。
明治天皇みずからが、存続を願う一文を記していたとは。
『自らの正統性が不安定であることを知りながら、その物語を演じ切ることで国民を守り抜く、最も高貴な嘘つき』
三篠はそれを、凄まじいまでの“孤独な決断”・“自己犠牲”と受け取った。
風が止み、木々のざわめきが落ち着く。
森は深い静寂に包まれる。
三篠は目の前のさざれ石に対し、深い一礼を捧げた。
そして静かに、その場を後にした。




