【第76話】寄り添うということ
“ぼくは『不幸』じゃないよ……”
震える声だった。
表情も強張っている。
けれど――確かな一言。
男は悟った。
目の前の少年は、もう自分の手の届かない場所へ行ってしまったのだと。
だが、どうだろう?
少年の引きつった口元に浮かべた笑み。
その小さい身体が、小刻みに揺れているではないか。
危なっかしい。
精一杯の覚悟と、痛々しいほどの強がり。
少年の行く末が――心配だ。
男は静かに口を開いた。
「……殿下。最後に、不肖ながらあなたの教育係として、一つだけ……よろしいでしょうか」
「え?」
陽仁は不意を突かれたように、尋ね返した。
男は背筋を正し、慈しみを込めて語りかける。
「殿下。もし今後、心が壊れそうなほど辛い瞬間に見舞われたなら。どうか無理をなさらず、“何もしない”でいてください」
「“何もしない”……?」
「はい、そうです。公務も、国民への呼びかけも、すべて休んで結構です」
陽仁は意表を突かれ、目を丸くしてぽかんとした表情で男を見上げた。
「心身を削ってまで、何かを成そうとしないでください。……ただ、“そこに居て”下さい。
それもまた、『国民に寄り添う』ということです」
陽仁は、眉をひそめて首を傾げた。
どうも言葉の真意が、掴めない。
「どういうことなのか、分からないよ」
男は少しだけ、表情を崩した。
「殿下は……『国民に寄り添う』とは、どういうことだと思われますか?」
“国民に寄り添う”
皇室が果たすべき務めの代名詞として、幾度となく耳にしてきた言葉。
「それは国民を慈しんだり、案じたり、共に耐えたりすること。思いを寄せて、苦しみに心を寄せて、共感して励ますことでしょ?」
男は笑わなかった。
否定もしなかった。
ただ、静かに問いを重ねる。
「手を握ることだと思っていますか?」
「……うん」
「声をかけることだとも?」
「……それも」
男はゆっくりと首を振った。
「それも大事でしょう。ですが、それは家族、あるいは親しい友人が代わりを務めることのできる『寄り添い』です」
「……えっと、皇室だからこそ、ぼくだからこそできる『寄り添い』があるっていうの?」
男は深く頷くと、窓の外、夜の闇に沈む広大な庭園の、その一角を指差した。
「では、あそこに立っている灯火は、何の為にありますか?」
陽仁も男の隣で、窓の外を見据えた。
深い闇の中に、ぽつんと一つ、古びた外灯が淡い光を放っている。
「……夜でも、道が分かるように?」
「ええ。あの灯火は自ら歩き出すことはしません。誰かを追いかけて慰めることもしません。一緒に泣くこともしない」
男の声が、夜風に乗って陽仁の耳へと伝う。
「ですが、あの光は消えません。激しい雨の日も、凍える風の日も。誰かに責められても、石を投げられても。
ただ黙って――“そこに在る”。 さて、それは何故でしょう?」
陽仁は、暗闇の中に立つ一点の光をじっと見つめ、やがて呟いた。
「……いつでも明かりを灯し、迷わずに帰ってこられるように?」
「その通りです」
男は少しだけ、声を落とした。
「国民に近づくことだけが、『寄り添う』ことではありません」
一拍の、沈黙。
「国民が道に迷ったとき。ふと顔を上げたその先に、変わらずにそこにある、戻ってこれる『場所』であり続けることです」
夜風が、再びふたりの間を吹き抜けた。
窓の外で、外灯の光が心細げに一度だけ揺れた。
けれど、消えなかった。
陽仁はその光を見つめながら、ようやく、その真意に触れた気がした。
――寄り添う、とは。
――ただ、そこに“在り続ける”こと。
国民が迷子になっても、この国との縁は切れていない、そう感じられる“心の定点”であるということ。
「殿下、手を握りに行かなくて結構です。代わりに手を差し出し続けてください。
人は苦しいとき、解決より先に、『自分は見捨てられていない』と感じたいものなのです」
陽仁は、小さく息を飲んだ。
「どうか逃げないでください。勝手に“飛び出さないで”ください。あなたは、そこに居てくださるだけでいい。それだけで、この国のすべての民に対して、
『この国は、貴方を忘れていない』
『貴方は一人ではない』
という無言の、けれど揺るぎない態度を示すことになります」
男は諭すように、祈るように言葉を重ねる。
「陽仁さまは、そういう立場の人間です。時に沈黙が、国民に起きた出来事を『この国の出来事』として引き受けているという、メッセージになることを覚えておいてください」
立ち尽くす陽仁に対し、男はふっと笑ってみせた。
その笑顔――
陽仁の大好きな笑顔だった。
両親が公務で多忙を極め、自分のそばに居られない日々。
寂しかった心の隙間を埋めてくれたのは、この穏やかな微笑みだった。
男は、ハッとして我に返った。
(……私は、何を言っているのだ)
天皇制を終わらせ、皇室を宿命から解放する為にここまで来たはず。
だというのに、今しがた授けた言葉は、何だ?
男は失笑してしまう。
抑えきれない親心のようなものか。
男は自らの揺らぎを振り払うように、表情を正した。
「……私は、まだ諦めてはおりません。国民投票の結果がどう転ぶかなど、分かりはしないのです。私は現人神として、すでに玉音放送をもって国民に終焉を告げました。それは国民に対して遺言にも等しい、最期の厳命です。
もし国民がその命に背くというのなら、それは至上の不敬。天皇の最後の願いを袖にするという、国民側の“拒絶”を意味するのです。その罪悪感を背負ってまで、なお天皇制を存続させるなど……果たして、戦火に疲弊した民にその勇気があるでしょうか」
陽仁は気を引き締め、口元を結ぶ。
何故か、胸の奥は不思議と温かかった。
ふたりは並んで、無言で窓の外の景色を眺め続けた。
夜空には、星々が広がっている。
煌めく無数の光は、まるで国民一人ひとりの輝きのように。
やがて――
運命の時がやってくる。
前代未聞の国民投票。
天皇制を、残すか、残さないか。
国民が選んだ将来は――
日本が決めた未来は――




