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【第75話】人と象徴のはざまで

挿絵(By みてみん)


天皇制を存続させるか、否か。

前代未聞の国民投票の実施が決定した、その日の夜。

宮内省庁舎の一室に、陽仁(はるひと)と“その男”はいた。


窓際に立ち、虚ろな目でぼんやりと外を見つめている。

その背中には、纏っていたはずの風格が跡形もなく消え失せており、どこまでも小さく、老いていた。


「……もしかしたら私は、マッカーサーという男に一杯食わされたのかもしれません」


男は呆けたように、独白ともつかぬ声を漏らす。


「民の意思で選ばれた皇室は、史実よりも強力な正当性を得ることでしょう……」


そしてぽつりと、未練がましく言った。


「殿下は……“普通の男の子”になりたかったのでは?」


小さい声だったが、陽仁の耳には驚くほど明瞭に届いた。


(ああ、やっぱり……)


陽仁は確信した。

この人は、自分と同じ――

現代からタイムスリップした――



陽仁は静かに歩み寄り、男の隣に並んで立った。

窓から、湿り気を含んだ涼しげな風が吹き込んでくる。

灯火管制のなくなった夜は、穏やかだ。


「本物のひいおじいちゃんは、どこ?」


陽仁の問いに、男は視線を外へ向けたまま、深く重い吐息をしてから答えた。


「陛下は……安全な場所におられます」


「……そう。それなら、良かった」


ふたりの間に流れる空気は、もはや敵対する“偽の昭和天皇”と“令和の皇太子”のものではなかった。

静謐で奇妙な、和解のような空気。


陽仁は尋ねる。


「でも、どうしてこんなことを?」


男は観念した様子で、がくりと肩を落とす。


「殿下。私は、皇族の方々を、《根本》から救って差し上げたかったのです」


「どういう意味?」


「戦後の日本国憲法と皇室典範の関係については、殿下も既にご存知でしょう?」


陽仁は小さく頷く。

戦後に制定された日本国憲法と、皇族の身位を定める皇室典範。

宮内庁による初等教育で、すでに叩き込まれていた。


「日本国憲法は日本の“最高法規”であり、皇室典範はその下位に属します。つまり、日本国憲法が優先されるのです」


「うん」


「日本国憲法は、すべての者に“基本的人権”を保障しています。法の頂点がそれを定めている以上、皇族であっても等しく『人権』を享受して然るべきです」


そこで男は、熱を帯びた言葉を一度冷ますように、短く息を吐いた。


「しかし、現実は違います。日本国憲法は、皇族の人権という難問を事実上、丸投げにしている。《象徴》というあまりに特殊な立場に置かれているからです。ひとりの人間であると同時に、《象徴》であることを強要される……」


男は今度こそ、深い嘆息を漏らした。


「そう。あなた方は、“宙吊り”状態なのです」


陽仁は、思わず息を飲んだ。


「皇室の者に『基本的人権』を認めようとすれば、《象徴》としての制約と激しく衝突する。法律上は人権を語ることが正しくとも、実態としては象徴という役割がそれを許さない。

……いわば法そのものが、殿下に“矛盾”を強いているのです。人としての感情を持ちながら、象徴であり続けろと。それが、現代における皇室という名の檻の正体です」


男は寂しげな目で、陽仁を見下ろした。

陽仁は、短く同意する。


「そう……だね……」


男の言う通りだった。

日本国の象徴という存在そのものであるがゆえに、『公』を完遂するために『私』を犠牲にする。

個人の人生を差し出し、国家制度の一部となる。

人と象徴の狭間で引き裂かれ続ける存在。


「人間であることを削り続け、象徴であり続ける。そうやって生きていく。それは極めて危険な状態です。

人間らしく振る舞えば振る舞うほど、象徴としての純度は揺らぐ。反対に、完璧な象徴に徹しようとすればするほど、人間の部分は死んでいく」


男の声の端々に、込み上げる感情が混じり始めていた。


「この矛盾を『間違いだ』と叫ぶことさえ、あなた方は許されません。歪さを認めた瞬間、積み上げてきた伝統は形骸化し、儀礼は空虚となり、象徴は内部から崩れるでしょう」


陽仁は何も言い返せず、ただ深く顔を伏せた。

構わず、男は続ける。


「やがて行き着く先は、精緻な象徴へと成り果てるか、その人間が壊れるか。

あなた方はロボットではない。血も涙もある――人間だ。

ですが、制度はそれを強要し続ける。

……殿下。これ以上の地獄が、この世にあると思いますか?」


陽仁の返答は、沈黙だった。


「だからこそ……私は、あなた方を救いたかったのです」


――私は、私である。

――しかし、私は象徴である。

――だが、象徴は、私ではない。

――それでも、それを担っているのは、紛れもなく私だ。


この循環論法を、逃げ場のない螺旋を、一生をかけて下り続ける。

己の立場を理解できてしまうが故に、自己を完全には生きられない。

もはや、生ける矛盾そのもの。


「これは紛れもない――『不幸』です」


「……不幸?」


「ええ、そうです」


「ぼくは……ぼくは皇族として、この大きな役割に誇りを持つ。受け入れるって、決めたんだ……」


男は静かに頷いた。


「いいでしょう。その心意気は実に健気です。しかし、私はこの目で見てきました。半生を皇居で過ごし、この矛盾にもがき苦しむ方々の姿を、誰よりも近くで……。

公表こそされてはいませんが、過酷な日々の果てに感情の訴えではなく、象徴機能の限界を自ら申告せざるを得なかった先人もおいでです。人間としての限界を示された方もいらっしゃいました」


男はそこで一度言葉を切り、夜の静寂を噛み締めるように間を置いた。



「……だから、私はすべてを終わらせたかった。そのタイミングは、この終戦の時期をおいて他にはなかった」


深い溜息が、部屋の空気を重くする。


「神話とともに育まれた日本の歴史。その軌跡を絶やすことは、あまりにも惜しいことです。罪深いことなのかもしれません。

ですが――時代が変われば、制度もまた新しく塗り替えられるのが摂理。そしてどんな時も、皇室は『祈り』そのものであるべきなのです。この戦時下の惨状に身を置かれた殿下なら、それが分かるはずです。

……もし、万が一にもその『祈り』が、『呪い』に変わってしまう危険があるのならば、いっそ……」


男はそこで、沈黙した。

しんと静まり返る部屋。



やがて――


小さな、しかし凛とした声が、静寂を裂く。


「ぼくは……」


陽仁が、ゆっくりと顔を上げて。

男の方を振り向く。


「ぼくは……」


「ぼくは『不幸』じゃないよ……」


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