【第74話】未来投票・日本の行方
まるで、その場所だけが歴史の奔流から切り離されたかのように――
まるで、時間そのものが止まってしまったかのように――
誰も動けなかった。
ただひとり、少年の漏らす嗚咽の音だけが、この空間を現実に繋ぎ止めていた。
必死に耐えようと喉を鳴らすたび、それは皮肉にも反動となって一層深い慟哭となって部屋に響いた。
拒絶し続けてきた宿命を、ついにその小さな背中に背負った陽仁。
もしかしたらその嗚咽は、生まれ変わった彼の、決意の産声なのかもしれない。
マッカーサーも、昭和天皇も、陽仁から目を逸らすことができなかった。
少年が放った覚悟の言葉。
その裏側にある、語り尽くせぬほどの“業”。
ふたりの大人はそれを感じ取り、圧倒されていた。
昭和天皇が、苦悶を浮かべる。
その顔は、見るも無惨に歪んでいく。
少年を助ける為に、この舞台を整えたはずだった。
少年を救う為に、不敬ながら装い、演じてきたはずだった。
――しかし、裏目にでた。
結果として少年に過酷な結論を、苛烈な覚悟を強いてしまった。
本当は――
少年を、宿命という名の檻から逃がしてあげたかった。
『パチパチパチ……』
マッカーサーは唐突に手を打ち鳴らした。
「素晴らしい。これは見事な、史上稀に見る名演技だ。あまりに出来が良すぎて、“実在”の皇太子でなければ不可能な芸当だ」
マッカーサーはあえて陽気に笑い飛ばそうとした。
でもその茶化しも長くは続かない。
再び、重く、粘りつくような沈黙が部屋を支配する。
やがて、マッカーサーは己の指先に違和感を覚えた。
手にしているパイプに、火が灯っていない。
そのことに、ようやく気がついた。
マッカーサーはおもむろに、パイプに火をつけた。
白い煙がゆったりと立ち昇り、重苦しい空気を中和するように溶けていく。
煙が透明な虚無へと消えていくのを、見送りながら。
(未来からやってきたという皇太子。到底、信じられるものではない)
(だが――この少年の『覚悟』だけは、“本物”だ。それだけは信じられる)
老将は、少年の深淵をどこまで読み取ったのだろうか。
やがて目を細めると、声音を一段低くして告げた。
「わかった。君を――“本物”として扱おう」
陽仁の嗚咽を鎮めるような、穏やかな眼差しで。
「未来の皇太子殿。君の背負おうとしている覚悟を、私は確かに受け取った」
隣でその言葉を聞いた昭和天皇は、弾かれたような勢いでマッカーサーの方を振り返る。
「正気ですか? このような子供の戯言を信じるというのですか?)
驚愕に固まる昭和天皇に、マッカーサーは悠然とした視線を向ける。
その動揺を愉しむように続けた。
「陛下。どうでしょう? この国の行く末を、国民自身に投票させ、選ばせてみては?」
「は?」
唐突に投げかけられた、突拍子もない提案。
昭和天皇の顔が、引きつっている。
「な、何を?」
「陛下……あなたの成そうとしていることは、実に素晴らしい。国家元首の地位にありながら、自ら敗戦の責任を正面から引き受け、幕を引こうとしている。自らの地位、いや命を賭けて、裁きを受けてでも過去を清算せんとするその意志。
実に見事な、歴史への献身だ」
マッカーサーはそこで言葉を切ると、その瞳に静かな冷気を宿した。
「しかし、あなたの“玉音放送”だけが、唯一の正解ではないのかもしれません」
「何を……! 何を仰るのかっ!!」
昭和天皇は椅子から立ち上がり、身を乗り出した。
隠しきれない焦りと憤怒が、その姿から滲み出ている。
「国民は既に私の言葉を信じ、自らの足で歩み始めているのです! 今さら私が前言を翻すなど!
私を……私を、世界一の嘘つきに仕立て上げるつもりかっ!!」
見開かれた昭和天皇の目は、自身の描いた“シナリオ”の崩壊を恐れ、揺れている。
陽仁もまた、この成り行きに、ただ驚愕して目を見開いていた。
マッカーサーは、深く、深くパイプを吸い、そしてゆっくりと、白煙を吐き出す。
「我々は日本に対し、無条件降伏を求めました。日本国が受諾したポツダム宣言には、簡潔に述べると
『日本は民主的な政治体制になるべきだ』
という内容が記されています。言論や宗教、思想の自由、そして基本的人権の尊重。その為に政治は、国民の自由な意思によって決定されるべきだ、とね」
「人権…」
昭和天皇が、何か言いたそうに唇を噛んだ。
それに気づく様子もなく、マッカーサーは盛大に笑い飛ばす。
「ハッハッハ! 今こそ民主主義の第一歩として、格好の機会だ。この国の再出発を、国民自らの手で決める。まさに真の国民主権への舵切り。日本が自由主義国家として新生するに相応しい、これ以上ない絶好のタイミングですな。ハッハッハ!」
実のところ、アメリカの対日政策において、天皇制の"廃止"と"維持"は、どちらも一長一短のメリットとリスクを孕んでいた。
だが、この歴史の転換点において、マッカーサーが求めたものは――
よりドラマチックな方向。
「さあ、日本の行く末を、国民に委ね投票で決めてもらいましょう。天皇制を未来に残すか否か。もし存続が決まったならば、陛下……あなたの権限は、自由主義・民主主義の理念に合致した《象徴》という新たな形に改めていただくことになりますが……」
このあまりに突拍子もない展開に、昭和天皇は感情が臨界点に達し、振り切れて虚無になっていた。
そんな昭和天皇を慮ってか、マッカーサーは柔和な声色でフォローを入れる。
「案ずることはありません。『国民に選ばせる』とは言っても、すでに民意は陛下の発した玉音放送によって、強力に、かつ強制的に方向付けられてしまっている。勝負はあなたの方が圧倒的に有利だ。私自身、そう確信している。だがね……」
マッカーサーは、陽仁の方を向いた。
「私は、これほどまでに見たこともない覚悟と勇気を見せてくれたこの少年に、一縷のチャンスを与えたい」
陽仁は衝撃を受けていたが、目の前に一筋の活路が開かれたことを確信した。
身体はなおも震えていたが、改めて姿勢を正し、マッカーサーに向かって深く、頭を下げる。
だがマッカーサーは、少年に釘を刺すことも忘れない。
「皇太子殿。君が掲げる道は、陛下が掲げた“幕引き”よりも、遥かに過酷な道かもしれない。戦争責任の所在も、存続していく皇室が置かれる立場も。……その覚悟が、できているのだね?」
「……はい! それを引き受けるために……ぼくはここにいます!」
陽仁の返事に、昭和天皇は思い出したように取り乱した。
「そんな、軽々しく返答すべき事柄ではない! これは重大で深刻な――!」
「陛下、落ち着いて下さい」
マッカーサーは昭和天皇の言葉を遮った。
なだめるような口調で。
「もし本当に、この国が『民主主義』を始めるというのなら、まずはあなたという絶対的な存在から距離を置くことです。
国民が自ら考え、自ら決断し、そしてその結果に自ら責任を取る。それができて初めて、この国は自立する」
マッカーサーは再びパイプを深々と味わい、遠く宙を見つめるような眼差しで、引導を渡す一言を放った。
「大事なのは、『この国が、自分のことを自分で決めること』
――つまり、私が示したのは、制度の選択ではなく、"自由の責任"です」
昭和天皇が、その場に崩れ落ちる。
戦勝国の老将、未来から来た幼き皇太子、そして歴史を偽ろうとした男。
この奇妙な三者会談が辿り着いた結末は――
《日本の行く末を決める、国民による“未来投票”》
昭和天皇は、床に拳を叩きつけ、恨めしげに。
「ああ……そんな……『私』の贖罪で終えようとした顛末が!」
そして、自らが装って演じている身であることも忘れ、悲痛に叫んだ。
「茶番だぁぁあああああ゛――っ!!!!」




