【第43話】大和・陽仁編⑧日本の綻びに巣くう者
火の海と化した町の彼方から、大和の悲痛な叫び声が聞こえた気がした。
「……大和っ!」
陽仁は外苑の方を振り向く。
吹き荒れる熱風は激しく、本当に聞こえたのか、それとも幻聴だったのか。
定かではない。
大和たちが炎の中で悶え苦しみ、焼かれている悲惨な場面を想像してしまう。
(そんな……そんなことが、あっていいはずがない!)
居ても立ってもいられなくなった陽仁は、思わず来た道を引き返そうとする。
その瞬間だった。
「――アッハッハッハッハ!!」
絶望を切り裂いたのは、あまりにも場違いで、冷酷な響きを持った笑い声だった。
この惨劇を、地獄を、燃え盛る町そのものを、嘲笑うかのような邪悪さを感じさせる。
振り返った陽仁の視界に、ゆらゆらと闇から人影が姿を現す。
「……三篠さん?」
陽仁は、戸惑いながら恐る恐る声をかけた。
不敵な笑みを浮かべて佇むその姿。
もはや陽仁の知る“隣組の三篠”ではなかった。
「やったぞ! ついに、ついに手に入れた!!」
三篠は、恍惚とした声で高らかに叫んだ。
内苑の静謐な空気が、一気に歪む。
狂気すら滲ませる、その禍々しさに陽仁の肌が粟立つ。
――そして、気づく。
三篠の手に握られている、一冊の本。
それは、異様な存在感を放つ黒い書物だった。
「三篠さん! 急にどうしたんですか? 様子がおかしいですよ! その手に持っている本は……?」
一瞬、三篠は我に返ったような素振りを見せた。
「……ああ、失敬。取り乱してしまった」
そう言って、にんまりと笑う。
「この“黒書”のことかい?」
その視線は、慈しむように黒書へと落ちる。
「この書物はね、近代日本が“形作られる過程”で、闇に葬られた――『確固たる断絶の記録』だよ」
陽仁の背筋に、悪寒が走る。
「陽仁くんにも……関係のある話だ」
その言葉は、まるで魔法のように。
得体の知れない不安に苛まれ、陽仁は金縛りにあったように身体が硬直した。
三篠は淡々と、だが愉悦を隠しきれない声で続ける。
「明治政府が行った“整理”。それは単に天皇の歴史を清算して整えたわけじゃない。
“ある特定の血筋を正統と定め、それ以外を排除、あるいは格下げする”極めて政治的な選択だった」
そう言って、黒書の表紙を指でなぞる。
「天皇の血筋の断絶を疑わせる学説や史料はいくらでもある。
だがそれは事実上禁句。明治政府は、『ずっと一本の糸で繋がっている』という部分だけを強調した。
ふふ、っと鼻で笑う。
「まぁ……“採用されなかった史実”と言ってもいい。
この国最大の禁忌、ありとあらゆる理論や見解を凌駕する、その絶対的な《証拠》が、この“黒書”なのだよ」
陽仁は、目眩に襲われていた。
「何を……言ってるの……?」
三篠は黒書を高々と持ち上げた。
「天皇の血脈。《万世一系》という“建前”を、根底から覆すもの。我々が信じ込まされてきた『神国』など――
虚偽の妄想、幻想に過ぎないのだ。
この“綻び”を突きつければ、人々の信仰も、国家の団結も、砂の城のように崩れ去るだろう」
陽仁には、目の前で悦に浸る三篠が、もはや同じ人間とは思えなかった。
燃え盛る外苑の炎を背に、黒書を愛おしげに撫でるその姿は、人の弱みに付け入り、魂を蝕む――悪魔そのものに見えた。
だが、三篠はただ狂気に飲まれているわけではない。
彼なりの打算が、静かに回転していた。
「本当なら、今すぐにでも国内外問わず。この“黒書”を解き放ってしまいたい」
淡々とした声だった。
「だが、一度にすべてをさらけ出せばどうなる? 国家は動くだろう。疑惑のすり替え、強力な偽装工作、徹底した隠蔽。
そして何より――真実を“信じたくない”大衆の反発だ」
三篠はわずかに口角を上げた。
「だから段階的に、解体する。毒を盛るように、少しずつ。あらゆる場所に疑念の種を蒔き、時間をかけて育てる。
神話は、叩き壊すものではない。内側から腐らせるものだ。
万世一系、その“魔法”が解けた時、天皇制は骨抜きとなった権威となり、中身のない、文字通り、ただの“ごっこ遊び”となる」
「やめて……下さい……何ですか、それ……?
そんなこと、言わないで……違う……そんなはず、ない……!」
陽仁の声は震えていた。
辛うじて言葉になったそれは、今にも消え入りそうだった。
三篠の言っていることが、ただただ気味が悪く、おぞましかった。
その時だった。
轟音とともに、上空から焼夷弾が降り注いだ。
今まで空襲の被害がなかった内苑が、無慈悲にも引き裂かれる。
明治殿をはじめとする木造建築が、瞬く間に紅蓮の炎に包まれていった。
火の粉が舞い、三篠が黒書を取ってきた文書保管庫もまた、激しい火柱を上げる。
「……間に合ってよかった。灰になる前に手中に収められたのだから」
心底から安堵するとともに、感慨ともつかない声をあげる三篠。
「巧妙に仕組まれた《消失》だとは思わないか?」
「……え?」
燃え盛る文書保管庫を見つめながら、三篠は満足げに深く息を吐いた。
三篠は知っていた。
たとえ宮城がアメリカ軍の直接の標的でなくとも、結果的に内苑の木造建築も被害を受け焼失することを。
「本来であれば、これほどまでに重要な“黒書”は、堅牢な地下壕である御文庫へ、真っ先に移されるべきものだ。
だが、そうはされなかった。
あえて――地上の、燃えやすい場所に残されていた」
三篠は想いを馳せるように、そっと目を閉じた。
「……侍従の誰かが、わざと残しておいたな。しかし、その者の思考は、手に取るようにわかる」
そして、確信したように頷く。
「体制の内部に、この『神国』の綻びを、闇に葬ろうとした者がいた。
天皇の血筋に関する真実は、単なる資料ではない。
それは“禁忌”であり、“絶対に世に出してはいけない代物”
例え、神の声に等しい勅命、抗うことのできぬ天啓を受けたとしても――
もし黒書を自分の手で燃やしてしまえば、我が身や一族に神罰が下るのではないか。
この黒書は、この国において、最も神聖な、そして最も冒涜的な“聖遺物”だ。
理屈を超えた、原始的な恐怖は想像に容易い」
三篠は目を開き、口元を歪ませて冷笑した。
「消したい。だが、消せない。だから賭けたのだ。空襲という不可抗力に。その矛盾が、炎を選ばせた。
自分で燃やすのではない。敵の爆弾で焼けるのを、ただ見届ける。
それなら罪はない。少なくとも、そう思える。
消そうとした意志と、残ってしまう偶然。
それが今夜、ぶつかり合った。
その結果、誰にも気づかれぬうちに、私はその隙間から“それ”を手に入れた。
いやはや……感慨深い」
「もう止めて下さいっ!!」
陽仁の叫びが、内苑に響き渡る。
「あなたは! あなたはさっきから何を言ってるんですかっ!!」
どうしようもなかった、叫ばずにはいられなかった。
燃え盛る炎の熱気と、目の前で繰り広げられる狂気。
あまりの衝撃に、陽仁は成す術無く、ただ抗う為に声を荒げるしかなかった。
その怯えを見透かしたように、三篠はゆっくりと腰を落とす。
まるで子どもをあやす大人のように、陽仁と視線の高さを揃えた。
先ほどまでの狂気は影を潜め、その瞳には、どこか憐れみすら宿っている。
三篠は理解していた。
目の前の少年が、令和の時代において“皇太子”という重責を背負う運命にあることを。
そして、その血筋の当事者であることを。
「陽仁くん……ごめんね。私が怖く見えただろう?」
声は驚くほど穏やかだった。
「だが、決して君を脅そうとしたわけじゃない。私は皇族を憎んでいるわけではないんだ」
三篠は静かに言葉を選ぶ。
「天皇も、その息子である君も、国家体裁の犠牲者だ。
嘘の上に立たされ、偽りの歴史を背負わされてきた。
血筋という名の役割、その重みに苦しめられてきた被害者だ」
その声には、演技ではない同情が滲んでいた。
「私はね、解放してあげたいんだ」
三篠は、そっと胸元に手を当てる。
「この黒書は、君を縛り付けてきた空虚な義務から解き放つ鍵にもなる。
“皇太子”である前に、ただの一人の人間として、生きられるように。
でもね――」
そう言い終えると、三篠はゆっくりと立ち上がった。
炎を背に、その姿はもはや一人の人間の枠を超えている。
皇族を審判せし者。
いや、日本の運命そのものを弄ぶ存在。
自らを裁く者と信じて疑わない。
しかしその姿に、哀愁が伴っているのは何故だろうか。
一瞬だけ、三篠は顔をしかめた。
まるで、何かに背く覚悟を固めたように。
「……この書は、私の手元に置いておこうと思う」
静かな声だった。
「いつ、どこで、どう使うか。それは今後の皇室と、日本という国家の在り方次第だ」
三篠は炎の向こうを見つめる。
「もし私の目にかなうのであれば――いや、許容できる範囲で、“お飾り”を続けるなら、それでもいい。
しかし、もし私を失望させるようなことがあれば――」
三篠はあえて、言葉をそこで途切れさせた。
続くはずだった次の言葉を、陽仁は想像できた。
「だから、忘れないでほしい」
三篠は薄く笑い、黒書を懐深く仕舞い込んだ。
「現人神から“人”になったとはいえ、国家神道という名残の中で、神のように扱われる皇室。
その更に上に立つ存在、監視者がいうことを――!」
ふふっ、と喉を鳴らし、次の瞬間、堰を切ったように笑い出した。
「アーッハッハッハ!!」
三篠のその言葉は、日本という国家の喉元に刃を突きつける宣告だった。
弱みを握り、生殺与奪の握る悦びに浸りながら、三篠は燃え盛る火の粉に背を向ける。
「さようなら、陽仁くん」
一拍置いて、低く告げた。
「未来で……」
その姿は、渦巻く黒煙と炎の闇に溶けるように消えていった。
あとに残されたのは――
灼熱の轟音と、内苑の木造建築が崩れ落ちる断末魔。
そして――
何か取り返しのつかないことが起きてしまったと。
本能的に理解し、絶望に頭が真っ白になってしまった皇室の人間。
呆然と立ち尽くす陽仁だけだった。




