【第44話】大和・陽仁編⑨託された未来と平和
燃えている。
全てが、燃え上がっている。
人も、町も、生活も、文化も。
日々の営みも、情緒的だった情景も。
あらゆるものが真っ黒に、ただの灰へと姿を変えていく。
視界の端から端まで、火の海だった。
地を這う炎が地上を焼き尽くし、空さえも黒みを帯びた朱色で満たされる。
その凄惨な光景が、大和の脳裏にある記憶を呼び起こした。
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――夏休みの、冷房の効いた市立図書館。
自由研究でアジア太平洋戦争を調べていた大和は、無造作に資料本をパラパラとめくっていた。
そこに載っていた、炭のように真っ黒になった遺体の写真。
『うわぁ!黒焦げだ。本物かよ? オバケみたいで怖ぇ~!』
『死体って不気味だよな~!』
大和にとって、その写真はただの“気持ち悪い資料”に過ぎなかった。
そこに命があったこと、彼らがどれほどの苦しみの中で死んでいったかなど、1ミリも想像しなかった。
ただ、死体の写真を物珍しさと好奇心の対象として、面白おかしく茶化していたのだ。
『大和、あんたねぇ! そんなこと言ってると、いつか"罰"が当たるんだから!』
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あのとき確か、真澄に咎められたっけ。
あの写真に写っていた“真っ黒な塊”に、今度はオレがなるのか。
これが――"罰"だというのか。
大和は顔をクシャクシャに歪ませ、目の前の火の海を凝視した。
(いやだ、いやだいやだ、死にたくない……!!)
資料本の中で見たあの無残な死体。
今、大和が置かれている状況の、末路そのもの。
(あと数分もすれば…オレも、そばにいる清さんと泉美さんも…)
かつて図書館で『オバケみたいだ』と揶揄した、あの真っ黒な残骸に成り果ててしまう。
「あんなこと言って……ごめんなさい……っ」
絞り出すように、謝罪の言葉が、大和の口から漏れる。
頬を伝う熱い涙が、周囲を覆う熱風によって蒸発していく。
大和が戦争の資料本で読んだ、かつての犠牲者たち。
彼らが味わった恐怖と苦痛が、歴史の体現という名を借りて、今まさに大和を飲み込もうとしていた。
「おいっ! 大和、しっかりしろ!」
鼓膜を突き破るような清の怒鳴り声に、大和は弾かれたように我に返った。
しかし、目の前に広がるのは何一つ変わらない、視界を埋め尽くす業火。
逃げ道など、どこにもない。
背後からは燃え盛る炎の牙が、獲物を追い詰める飢えた獣のように、じりじりと迫っている。
「清さん……泉美さん……」
大和は、清のボロボロになった上着を掴み、震えることしかできなかった。
「大和、聞け」
清は突如、大和の肩を砕かんばかりに強く掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめる。
その表情は、周囲の状況とはあまりに対象的なほど、落ち着いたものだった。
「あそこが見えるか? 家屋の隙間……あそこだけ、まだ火勢が弱い。体が小さいお前なら、今ならあそこを走り抜けられる」
「えっ? そんな、無理だよ! それにふたりは? 清さんと泉美さんはどうするんだよ!」
「……俺たちは、もういい」
清は、腕の中でぐったりと横たわる泉美の手を、そっと握りしめた。
泉美は熱風に肺を焼かれ、もはや声を出す気力さえ残っていない。
それでも、苦痛に顔を歪ませながら、大和を射抜くような強い眼差しで見つめ、静かに一点の迷いもなく頷いた。
泉美は震える手で自らの防空頭巾を脱ぐと、ゆっくりとした動作で、大和の頭にそっと被せた。
続いて清が水筒の蓋を開け、最後の一滴まで、中の水を大和の頭上から一気に浴びせかける。
焼き付くような熱気の中で、その冷たさは残酷なほどに鮮烈だった。
皮膚を刺すその冷たさが、大和の心を熱く、激しく焦がす。
「さぁ……行け」
清が、穏やかな表情で繰り返した。
「嫌だ! なにやってんだよ! ふたりとも、ここで死ぬ気なのかよ!?」
必死に叫ぶ大和を見て、泉美は優しく微笑んだ。
その微笑みが、かえって大和の心をえぐる。
「そんな優しそうな目で見るのはやめてくれよ! 置いていけるわけないだろっ!」
「命に軽重はないなんて綺麗事は言わん。だがな、やはり子供の命の方が重いんだ」
「何を言ってんだよ!?」
「短い間だったが……死んだ息子たちが帰ってきたみたいで、楽しかったぜ。懐かしい家族暮らしをさせてもらった」
死を悟り、それを受け入れている清と泉美の覚悟を、大和はどうしても認めることができない。
「そんな、諦めるなよ! 頼むから……」
「勘違いするな。俺たちは生きることを諦めたんじゃねぇ。代わりに、お前に『生きること』を託したんだ」
「勝手に託すなよ! 託されるこっちは、重たいんだよ~っ!」
「早く行け!! 炎がさらに強くなるぞ!」
「嫌だ! みんなで、最後まで助かる方法を考えようよ!」
大和が叫んだ、その時だった。
背後で凄まじい轟音が響き、焼けた電柱が根元から崩れ落ちた。
周囲に火の粉と瓦礫が激しく弾け飛ぶ。
もう、言葉を交わしている猶予などない。
炎の包囲網が、容赦なく3人の生存圏を狭めていく。
清の雰囲気が、まるでスイッチを切り替えたように変わった。
火の粉が舞い狂う宙を仰ぎ見るようにして、かつて見せたことのない透明な笑みを浮かべた。
「大和……畑作り、上手くなったな」
「えっ?」
不意の言葉に、大和は思考が止まる。
「土起こしも、畝作りも……最後の方は、しっかり様になってたぜ」
最後の最後に、清は大和を褒めた。
これまで仕事の場では、器用な陽仁ばかりが褒められ、大和は怒鳴られてばかりだったのに。
それが清なりの、最高の“労い”だった。
「すまねぇ」
清は腕の中の泉美に短く囁くと、そっと彼女を地面へと横たわらせた。
「……俺も最期に、未来への種まきでもするか」
清は鍛えられた太い腕で、大和の体をひょいと持ち上げる。
「ちょ!? 清さん、何すんだよ!?」
狙うは、燃え盛る家屋と家屋の間にわずかに残された、炎の壁の薄い隙間。
清は全身の力を込めて、大和をその炎の輪の外に向かって放り投げた。
「うわあああぁっ!」
炎の囲いを突き抜け、大和は熱風を切り裂いて地面を転がる。
全身を打った痛みも構わず、すぐさま真っ赤な壁の向こうへ振り返る。
「行けーッ!! 大和――ッ!!」
清の魂の咆哮が響いた。
大和は溢れ出す涙で視界を滲ませながら、炎の隙間からわずかに見えるふたりに向かって、喉が潰れるほどの声で叫び返した。
「清さぁぁぁん!! 泉美さぁぁぁん!!」
燃えたぎる火の粉の向こう側、清が泉美の傍らに静かに寄り添うのが見えた。
ふたりの顔は、これから焼け死ぬとは思えないほど、安らかな微笑みを浮かべている。
自分たちが見ることの叶わなかった、まだ見ぬ日本の未来、その行く末を、優しく静かに見送るように。
直後、焼けただれた巨大な梁が、大きな音を立てて崩れ落ちた。
大和は反射的に身を引き、きつく目を閉じる。
再び目を開けたとき――
そこにはもう、荒れ狂う炎の壁しかなかった。
ふたりの姿は、もう見えない。
「……あ、あああああぁぁぁぁっ!!」
大和は、炎に炙られた朱色の夜空に向かって、慟哭した。
溢れ出す涙が大河のように流れ、表情も視界もぐちゃぐちゃだ。
清たちが未来へ託したのは、大和の命だけではない。
この国が、そこに生きる数多の命が、千代に八千代に、いつまでも穏やかに続いていくことへの《祈り》。
“平和な未来”という、あまりに尊く、重すぎるバトンを、大和は手渡されたのだ。
「……ちくしょう……ちくしょう、うぅぅうう……!!」
大和は力強く立ち上がり、爆ぜる火の粉を跳ね除けて地面を蹴った。
巨大な松明のように赤黒く燃え上がる町を駆け抜ける。
目指すは――宮城。
陽仁たちが、逃げ込んでいるはずだ。
(あそこに行けば、また会える……!)
その微かな希望を胸に足を早めた大和だったが、突如として足が止まる。
「くそっ! 行き止まりじゃねーかっ!」
行く手は、天を穿つほどの火柱によって完全に封鎖されていた。
宮城の方角を見れば、そこもまた燃え盛る炎が夜空を焦がしている。
陽仁の安否が心配だ。
けれども、今は立ち止まる1秒さえもが命取りだ。
死を賭して逃がしてくれた、清さんと泉美さんの想い。
『生きろ』と言われた。
だから、何が何でも生き延びなければならない。
自分は、あのふたりの《祈り》を託された生者なのだ。
その使命を、全うする!
「……生きる。オレは、絶対に生き延びてやる……!!」
大和は断腸の思いで宮城に背を向けた。
血走った眼差しで周囲を見渡す。
炎が獣のような咆哮を上げ、町を食い荒らしている。
だが――まだだ。
まだ、生き延びるための“道”はある!
大和が選んだのは、火の手が最も激しかった“焼け跡”への逆走だった。
正気の沙汰とは思えない賭け。
火災旋風が通り過ぎたあとの道は、すべてが焼き尽くされ、皮肉にもこれ以上燃えるものが残っていない。
酸素を奪われ、肺を焼くような熱気に耐えながら、今なお燻り続ける炭火の上を駆け抜けるしかない!
圧倒的な生存本能が、大和の足を突き動かす――
「最後まで諦めてたまるかよ! うおおおおおーっ!!」
力強く地を蹴り、火の粉の中を突っ走る。
靴底は焦げ、熱で溶け出し、足裏から耐え難い痛みが伝わってくる。
道端には、かつて本に載っていた写真で見た“黒焦げの塊”がいくつも転がっていた。
しかし、今の大和はそれを『オバケ』なんて、微塵も思わない。
その横を通り過ぎる瞬間、心の中で、かつてないほど真剣に、弔いの念を捧げた。
(ごめん……オレ、行くよ。あんたたちの分まで、絶対に生きるから!)
(こんな酷い、命が粗末に奪われる世界じゃない! 死んでいったあんたたちが報われるような、胸を張れるような平和な未来を、きっと築いてみせるから!)
崩落する家屋を間一髪で避け、飛び散る焼夷弾の油を躱し、真っ赤に熱せられた瓦礫の山を飛び越える。
怯むことなく、ただひたすら前へ!
どこまでも、どこまでも駆け抜ける!
「うおおおおおおおおおおおおお!!」
煤で全身は真っ黒になり、至るところに火傷を負って。
けれど、命の炎を燃え上がらせる大和の勢いは止まらない。
戦時下で懸命に生きてきた日本人たちの、不屈の執念がその身に宿ったかのように――!
やがて――
大和は――
この世の終わりのような、町全体を包み込んでいた灼熱の包囲網を、突破した。
1945年5月26日、早朝。
空が白み始める。
大勢の命を飲み込んだ地獄の夜が、明けた。
あれほど夜空を蹂躙していたB-29の姿は、もうどこにもない。
代わりに、太陽が昇る。
それは生き残った者たちに、あまりに残酷な一日の始まりを告げる光だった。
その陽光は、隠すことなく地上の全容を照らす。
変わり果てた町の光景。
かつての面影など微塵も残っていない。
“消滅都市”
たった一晩で、世界はここまで変わり果ててしまうのか。
辺り一面は黒ずみ、まるで灰色の砂漠のよう。
煙がそこかしこで立ち昇り、消え残った火が弱々しく揺れている。
かつて緑豊かで、粛然と建物が点在していた宮城もまた、焦げ臭い煙と、空から降り注ぐ黒い煤に支配されていた。
陽仁は、焼け焦げた芝生の上に、腰を抜かしたように座り込んでいた。
目の前では、かつて威容を誇っていたはずの明治宮殿が、無惨な骨組みを晒して燻っている。
石垣の向こう側、町はどうなっているだろうか。
大和は無事だろうか。清さんと泉美さんは。
陽仁は、もう何も分からない。
遠くの燃え残った木材がパチリと爆ぜ、虚しく響いた。
陽仁は恐怖と、孤独と、喪失感と……罪悪感に苛まれていた。
身体の震えが、止まらない。
ザッ、ザッ、ザッ……。
複数の足音が近づいてくる。
それは、軍服を着た将校や、侍従たちの一団だった。
ゆっくりと、陽仁の方へ近づいてくる。
「……あそこに、子供がいるぞ」
誰かが、そう言った。
「何故こんなところに……避難民か? 門は閉ざされていたはずだが」
陽仁は、動けなかった。
煤に汚れた自分の手を見つめて、震え続けている。
やがて一団の中から一人の人物が抜け出し、真っ直ぐに陽仁の方へと歩み寄ってきた。
「陛下? お、お待ちください!」
背後から制止の声が飛ぶが、その人物は歩みを止めない。
陽仁のすぐ目の前で、ぴたりと止まる。
周囲の空気の密度が変わった気がした。
陽仁は恐る恐る、ゆっくりと顔を上げた。
「あ、あ……あなたは……」
そこに立っていた人物は、深い悲しみを湛えた瞳で、目の前に座り込む陽仁を見下ろしていた。
その瞳。その佇まい。
教科書や古い写真の中で見てきた、遠い歴史上の人物としての面影ではなく。
令和の御所で、父から、そして祖父から聞かされていた“家族”の面影。
「……ひい、おじいちゃん……?」




