黒と白
闇夜に支配された廃屋の中、僕と白猫は御飯を食べていた。高価なキャットフードである。朽ちた廃屋には似つかわしくないそれが、何故ここにあり僕たちが空腹を満たせているかと言うと、それは至極単純な話で、僕の目前でキャットフードを粛々と黙々と食べている白い毛並みのお嬢さんの功績があっての事らしい。
お嬢さんの話を鵜呑みにして解説すると、お嬢さん曰く「私の美貌に目が眩んだ人間がたまに置いて行ってくれるのよ」だそうだ。
自信満々のお嬢様。可愛げはあるが、少し癪に障る。
そして何故僕のような薄汚い黒猫がお嬢さんの夕食にご同席を許されたのかと言うと、それは少しばかり話を巻き戻して説明しなければならないから、君たちにとっては退屈な話でしかないと思うのだけれど、それでもいいなら聞いてほしい。先に言っておく事があるとすれば、本当に大した話ではなく、ちょっとした閑話であるからご容赦を。
では時を少しばかり遡るとしよう。
野良の黒猫にはとっても便利な能力が満載なんだぜ。嘘だけどな。
同族である僕を敵呼ばわりした白猫は、その美しい体躯を微動だにする事なく、鋭い眼光を僕の瞳に向けている。
「僕が敵だって? そんな馬鹿な話があるもんか。第一僕たちは猫同士じゃないか」
臆する事なく白猫を睨み返す。
かと言って白猫も臆する気配は見せず、眼圧は更に凄みを増す。
「ここは私の家。あなたは勝手に私の家に入った。俗に言う不法侵入と言うやつよ。仮にあなたが人間だとしたら確実に臭い飯を食う事になるわ」
不法侵入?
臭い飯?
野良猫の分際で何でそんな言葉を知っているんだ? 実に解さない話じゃないか。いやまぁ僕も今は野良猫なのだから、この白猫をとやかく言える立場ではないのだけれど。
「笑わせてくれるね、君は。ここが君の家だって? そんなの誰が決めたんだ? 」
「馬鹿なの、あなた? 随分低脳な猫なのね。
こんなのが同族なんて、考えるだけで鳥肌ものだわ。私がここを家にすると決めたのよ?
それが答えであって全てじゃない」
何て傲慢な白猫なんだろう!
しかもこの口調とこの声音。完全に雌猫じゃないか。雌と言うのは往々にして淑やかなものと相場は決まっているんじゃないのか?
少なくとも今までの僕はそう思っていた。
それが僕という猫の理想だった。その理想は見事に綺麗さっぱり跡形もない程に瓦解してしまった。
「どうしたの、黙っちゃって?」
理想を失った僕の心と耳には最早何も届かない。これが俗に言う馬の耳に念仏というやつなのだろうか? いや、おそらく意味合いは違うだろう。うん、確実にそうだ。
僕は他の有象無象の猫たちに比べれば語彙は堪能な方だと自負している。しかしながら、言葉を知っているからと言って、言葉の意味まで完全に理解しているとは限らない。
僕の飼い主の娘も色々な言葉を口に出していたが、果たしてどこまで、その言葉の持つ意味を理解していたのだろう。きっと半分も理解していなかった筈だ。何と滑稽でいて恥ずべきことだろう。あの娘は将来、過去を振り返った時に必ず頭を抱える事になるだろう。
今の内に気付いてくれる事を祈るばかりだ。
ふと顔の近くで気配を感じた。
白猫が僕の顔を覗き込んでいる。
ビクッとして、瞬間的に後ろに飛び退く。
「あなた大丈夫? ずっと黙ったままで。具合でも悪いわけ?」
この高慢ちきな白い雌猫が僕の事を心配している⁉
驚くべきことだ。それ程僕は深刻な表情をしていたのだろうか?
「いや、具合は悪くないよ。悪いどころか快調過ぎて怖いくらいだよ」
「そう。ならいいわ。そう言えばあなた名前はあるの? 首の飾りを見る限り野良猫には見えないけれど」
首の飾り? 何の事を言っているのだろう。
僕の首に飾りなんて。そう思い、確かめようと首を動かした瞬間、涼やかでいて懐かしい音が僕の耳に響いた。
「あれ、これは…」
「これはって…あなたもしかして、自分の首に鈴が付いてる事を知らなかったって言うの? 私と取っ組み合いをしている時だって、ずっと音が鳴ってたじゃない。耳障りなくらいに」
何か憎たらしい事をのたまっているようだが、先程とは違う意味で僕の耳にその声は届かなかった。
過去の記憶に思考を巡らせる。
この鈴は確か…
その刹那、僕の腹の虫が盛大に鳴いた。
張り巡らせた思考の糸が散り散りになり、頭の中で霧散していく。
「お腹空いてるのね」
白猫が口元を緩め、くすりと微笑を漏らす。
「実はそうなんだ…今朝から何も食べてなくてね。今になって限界がきたみたいだ」
会話の間にも腹の虫は鳴き続ける。
何とも空気の読めない腹である。
「だったら御飯にしましょうか。会ったばかりの素性も知れない雄猫に御飯を恵んであげるなんて本来なら絶対しないんだけど、空腹は耐え難い苦痛だものね…私もよく知ってる。だから今回は特別恵んであげる事にするわ。感謝することね、この低脳猫」
そこまで一息に言って、嘲笑した後、ふっと白猫の表情が緩んだ。
「だから名前を教えなさいよ」
光が皆無な闇に満たされたこの廃屋で白猫の見せた笑顔は光そのものように僕には見えた。正直ずるいと思う。これが雌が持つ、雄を骨抜きにする最大の武器なのかもしれない。
「黒。僕の名前は黒だ。君の名前は?」
笑顔が更に破顔し、一際大きい哄笑が廃屋に響く。
「く、黒って…そのままじゃないの。あなたの飼い主のセンスを疑わざるを得ないわね」
笑うばかりでは足りないのか、転げ回って笑っている。そんなに可笑しな名前だろうか。
ともあれ、ここまで自分の名前を馬鹿にされるのは気分が悪い。
「それで君の名前は何なんだよ? そりゃあもうセンスの良い名前なんだろうね?」
白猫の動きと哄笑が止まる。
姿勢を立て直した白猫は何やらモジモジと身体を捻ったり、目を宙空に泳がせたりしている。
あからさまに怪しい。これは何かあるに違いない。猫としての動物的直感がそれを僕に告げていた。
再び尋ねる。
「白よ…」今にも消え入りそうな声で白猫はそう言った。
「白って… そのまんまじゃないか! よく僕の名前を聞いて笑えたもんだよ!」
「うるさいわね! あの娘が悪いのよ、あの娘が! こんなありきたりな名前を付けたあの娘が!」
あの娘? はて、それは一体誰の事なのか?
「御飯にするわよ、御飯! お腹減ってるんでしょ⁉」
どうやら名前の話題はこれで終わりなようだ。一連の会話の中で、僕は白の性質を大分知る事が出来たような気がする。
傲慢で高慢ちきだが、時折羞恥に身を悶え、次の瞬間には癇癪を起こす、ころころと表情が変わる厄介でいて面白い猫。
白はお嬢様なのだ。確かに一城の主と言っても間違いではないのかもしれない。
世界から忘れ去られ退廃的な臭いが満ちる廃屋に佇む一匹の白猫。うん、実に絵になる光景じゃないか。
「お腹は減ってるけど、御飯なんてどこにあるんだい? こんなところに御飯があるなんて思えないよ」
僕がそう言うと、白は口元を歪め、得意気な顔をしてこう返してきた。
「ふん、私を誰だと思ってるの? 私はこの廃屋の主にして、王様なのよ」キメ顔で同じような意味の言葉を繰り返す白に僕は若干の辟易を覚えてしまった。
白は僕の事を馬鹿だとのたまったが、本当は彼女こそが真性の馬鹿なのかもしれない。
でも、不思議な事に嫌悪感は一切湧いてこないのだ。それは白が生粋のお嬢様だからなのかもしれない。よくはわからないけど、たぶんきっとそうだ。
いや、そもそもの話、これから御飯を恵んでくれようとしている白に対して嫌悪感を抱くなんて事があっていい筈はないのだ。
幾ら自由奔放でいて豪放磊落な僕と言えど、そんな道理は通らないのだ。
そんなこんなで回想シーンは終わり、時間軸は現在へ戻る。
どうだったろうか?
本当に大した事のない話だっただろう?
個人的にはさ、閑話にしても酷くつまらない話だったと思うんだよ。
暇で退屈で劇的な事なんて何一つ起きない。
それが僕たちの生きる現実。
人間も僕と同じような事を考えるのかな。
猫である僕にはよく分からないけど、そう言えば確かあの娘も、時折退屈そうな表情をしていた事があったな。
「あぁ、お腹一杯!」
白はそう言って、仰向けに倒れた。
食って直ぐ横になると豚のように太るんだぞと一言言ってやりたい気持ちに駆られたが、食後の余韻に浸っているお嬢様の機嫌を損ねるような事を言えば、後でどうなるか容易に想像が付いたので、すんでの所で思い留まった。
と言うか、その体勢は果たしてどうなのだろう。仮にも僕は雄であるわけだし、何と言うか、目のやり場に困る。
そもそも、このお嬢様には恥じらいというものがないのだろうか?
「美味しかった?」
僕が視線を右往左往させていると、体勢を立て直した白がそう言った。
「うん、美味しかったよ。いつも、こんなに美味しい御飯を食べているの?」
「たまさかに決まってるじゃない。今日は特別なのよ。お客人に対して、粗末なものを出すわけにもいかないでしょう?」
流石はお嬢様。おもてなしの心をしっかりと分かっていらっしゃる。日本猫の鑑のような猫だな、白は。と僕は思った。
ここで一つの疑問が持ち上がった。本当に白は野良猫なのだろうか? もしかしたら、僕のように元々は人間に飼われていて、その後捨てられた捨て猫なのかもしれない。
聞いてみたい気持ちに駆られたが、思い留まった。何せ僕と白はまだ出会って間もない間柄なのだ。そんな彼女の心に対して、土足でズカズカと踏み入るには、相当の勇気を要する。下手をしたら、出会いそのものが無かったことになってしまうかもしれないのだ。
僕にとってそれはどうしても避けたい事柄だった。
あの家族に捨てられてからの一年近くを僕はたった一人で孤独に生きてきた。
かと言って別に寂しかったというわけではない。これは断じて虚勢などではなく、僕の本心だ。一人で過ごす時間は楽しい。何人もその時間を侵してはならない、聖域のようなもの。一人の時間とは、それ程に尊いもので守られなければならないものなのだ。
それに、そもそも猫というのは基本的に群れない種族なのだから。
でも今の僕は、自由気ままに生きた一年よりも、白と過ごしたこの数時間の方が遥かに尊いものだと感じている。
たった数時間、話を交わし、食を共にしただそれだけのことなのに、僕の心は形容のし難い暖かなもので満ちている。
この時間を大切にしたい、失いたくないと僕は暗闇の中に浮かぶ、純白の毛並みを見てそう思った。




