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黒猫と夏  作者: 雫石
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夏と学校

私の通っている日向小学校は小高い丘の上に建っている。晴れた日などは校名の通り、校舎全体が陽光で包まれる。私が低学年だった頃は、まるでお空の上に住んでいる神様が私を祝福しているみたい、なんて恥ずかしいにも程があるメルヘンチックな会話を同級生としたものだけれど、今でもたまさかそう思う事がある。

特に今日みたいな雲一つない快晴の日なんかは。

学校への道程は小学生女子の体力から考えれば、かなり厳しいものがある。

なんせ、ずっと坂道なのだ。学校に着く頃にはヘトヘトになってしまって、一時限目から睡魔に襲われるなんて事は、高学年の今でもよくある話で、いつも先生に怒られる。

でも怒られるのは慣れっこなんだ、私は。


坂道は小学校に向かう子供たちで溢れている。いつもは気怠げな雰囲気が流れているのだが、今日は皆浮き足立ってそわそわしているみだいだ。

まぁそれもそうか、と私は内心で一人納得する。今日は新学期なのだ。一ヶ月会えなかった友人たちとの久々の出会いに一喜一憂するのは当たり前の話だと思う。だって私たちは小学生なのだから。


息が上がってきた頃、突然後ろから声を掛けられて、私は自分でも驚く程の声にもならない声をあげてしまった。

「なっちゃん、何今の声。すごい変だったよ」私の眼前に回り込んだみっちゃんが、蜜柑ようなオレンジ色の笑顔でそう言った。

勿論の事ながら、ミッちゃんと言うのはあだ名で本名は川代三葉といい、ツインテールが良く似合う可愛らしい女の子で私が唯一の友達と思っている女の子でもある。

「誰だって驚くよ、あんな事されたらさ…」

みっちゃんの頭を軽く小突く。

「いったーい」とみっちゃんは、まるでイカしたギャルのような言い方で私を批難の目を向けてくる。軽くしたつもりなのだけれど。

みっちゃんにはこう言う面があるのだ。

何でもかんでも大袈裟に捉えて、事態を益々悪化させると言う何の得にもならない能力。それがみっちゃんという女の子。そして私の友達。

ふと思う。そう言えば、私とみっちゃんは六年間同じクラスなのだなと。

縁とは不思議なものなんだなと、年甲斐もない思案に耽っていると、突然みっちゃんが私の顔を覗き込んだ。

「黙っちゃってどうしたの? 考え事? 駄目だよ、若いんだからさぁ。もっと楽に行こうよ!」

みっちゃんも十分若いでしょと内心で突っ込みを入れながら、私は再び学校に向かって歩みを進めた。

「あ、今無視したぁ! 待ってよぉ!」

小走りで追いかけてくるみっちゃんを見ていると、今朝のお母さんの姿と重なって、ちょっと吹き出しそうになってしまった。

みっちゃんがお母さんだったら、きっと私がしっかり者にならなければならないのだろうなと思ったからだ。うん、想像したくない。


そうこうしている内に、校舎が見えてきた。

とは言っても見えてきたのは校舎の上層部分。大きな時計の上に白い旗が付いている。

丘の上に建っているということもあり風は強く吹く。風にそよぐ白い旗と永遠に時を刻む大時計。

今日からまた学校が始まるんだ。

そう思った時、何処かから、聞き覚えのある鈴の音が私の鼓膜を揺らした。

それは刹那の内に風によって掻き消えた。

今の音って…

「また、考え事〜。皺々のお婆ちゃんになっても知らないからね!」

「あ、うん。ごめん…」完全に生返事だ。

「ほら、行くよ。さすがに遅刻しちゃうって!」

そう言うと、みっちゃんは有無を言わさぬと言った感じで私の手を掴んで、強引に引っ張るように坂道を登り始めた。

抵抗する事もなく、私はみっちゃんに身体を預けながら、音の正体を探していた。


懐かしく、聞いているだけで心が安らぐ鈴の音。単なる聞き違えだったのかもしれない。


だってもう、黒は居ないのだから。


みっちゃんに手を引かれ、坂道を登ること十分。校門を過ぎたあたりで、登校時間五分前を告げる予鈴が学校の敷地内に響き渡った。

「ギリギリだったね」

息を切らせながら、みっちゃんが言う。

本当にギリギリだ。新学期初日から危うく遅刻するところだった。

「そうだね。みっちゃんのせいだよ?」

「えぇ、なっちゃんがぼうっとしてたからじゃん」

「いや、どう考えてもみっちゃんのせいだよ。そもそもみっちゃんに会わなければ、もっと早く着けた筈だもん」

口に出してから、さすがにこれは言い過ぎたかと少し不安になった。

「ひどーい、なっちゃん! そんな酷い事を言うなっちゃんは嫌い!」

不安は見事に的中し、みっちゃんは私に背を向け、一目散に校舎へ走り去ってしまった。

見慣れた光景である。

みっちゃんは昔からこうなのだ。一度頭に血が昇ると、脇目も振らずに一目散で何処かへ走り去ってしまう。

まぁ今回は全面的に私が悪かったから、教室に着いたら、謝って仲直りしよう。

熱しやすいが冷めやすい。

これがみっちゃんと言う女の子なのだ。


一際強い一陣の風が私の髪を撫ぜた。

夏に吹く風はとても気持ちいい。

校門には私以外誰も居らず、まるでこの世界には私一人だけが存在しているような気分になる。それもいいかもしれないな、と私は胸中で一人呟き、校舎に向かって歩き出す。


六の二と書かれた教室に足を踏み入れた瞬間、それを見計らっていたかのように本鈴が鳴り響いた。クラスメイトたちは既に所定の席に腰を下ろしている。

久し振りに会った友達と夏休みの思い出話に花を咲かせている者。既に眠りの体制に入っている者。ランドセルの中身を机上にぶちまけている者。これこそ正にカオスだと、私はこの夏休みに覚えたばかりの言葉を胸中で呟いた。


全くもって無関係な話なのだけれど、私は本を読むのが大好きで、覚えたばかりの言葉をみっちゃんに自慢するのが今の私の生き甲斐と言っても過言ではない。

これが将来的に黒歴史という負の遺産になるのだという事を今の私はまだ知る由もない。


みっちゃんの席は窓側に位置していた。

俗に言う窓際族と言うやつだ。

たぶん言葉の使い方は間違っているかもしれないけれど、私のお父さんは一時期、会社で窓際族だったらしい。真偽の程は定かではないが、お父さんは酔っ払うといつも何の脈絡も無しに「俺は窓際族だ!」と声を高々にして私とお母さんに、まるで意味不明な台詞を小一時間に渡って聞かせるのだった。

今思うと不快以外の何物でもなくて、本当に吐きそうになる。それ位私はお父さんの事が嫌いなのだ。


窓際で不貞腐れているみっちゃんの隣の席が何を隠そう私の席なのだ。いや、特に隠し立てする事でもないのだけど、こう言う時何て言えばいいのだろう?

コンプライアンスとでも言えばいいのかな?


何はともあれ、本鈴が鳴ったからには私も席に着かなければならない。幾ら怒られ慣れている私と言えど、大勢の前で恥を晒すのは嫌なのだ。私はそこまでドMではない。

ちなみに小学生が何故こんな下品な言葉を知っているかと言えば、まぁそれは秘密である。言う機会があるとすれば、私が成人を迎えてからになるだろう。


私は席に腰を下ろした。

みっちゃんは相変わらず私には一切目をくれる事なく窓の外を見ている。

ランドセルを机の脇に提げ、いつ謝ろうかと機会を伺っていると、タイミング悪く先生が教室に入ってきた。本当にタイミングが悪い。このKY教師め! と胸中で呪詛を唱えるが如く呟く。

長く艶のある黒髪と赤いセクシー眼鏡がチャームポイントの私たちの担任こと桜庭艶子先生が教壇に降り立つ。

クラス委員の男子が起立と号令を掛けたのを合図にクラスメイト全員が立ち上がる。

その際、気怠そうに立ち上がるみっちゃんの姿が視界に入った。

皆が先生に挨拶をしているが、私の頭の中ではみっちゃんへの謝罪の言葉がグルグルとまるで螺旋を描くかのように回り続けていた。

「はい、おはよう」

何とも気怠げな挨拶を返す先生。

先生は年がら年中、朝は決まって低血圧なのだ。目の下に隈まで作って、折角の美人が台無しだ。

「皆、夏休みはどうだった? ちなみに先生は毎日寝てたわ」

この人の事だから、きっと本当に毎日寝ていたのだろう。そうに違いない。だって授業中に立ちながら寝ている時があるくらいなのだから。

そんな教師に、少し居眠りをしていただけで怒られるのは中々どうして釈然としないものがある。この人こそ、糾弾されるべきではないだろうか? 例えば校長先生辺りの偉い人に。

「じゃあ今日一日の流れを説明するから、よく聞いてね。今から体育館で始業式があります。終わったら教室に帰ってきて、帰りの会をして帰ります。以上」

これが俗に言う説明台詞乙と言うやつだ。それにしても少し適当過ぎやしないだろうか。夏休み以前はもう少し真面な先生だった筈なのに、一体どんな災難に見舞われたら、こんな適当な人間に変われるのだろう。甚だ疑問である。

兎にも角にも今日は午前で学校が終わる。

午後の空いた時間は、みっちゃんとの仲直りに使わせて貰おうと思ったその矢先に、艶子先生が私が今迄忘れていた、いや、忘れようとしていた事実を無理矢理思い出させるような…そう、まるで罪人に対して死刑を言い渡す裁判官のような口振りで言い放った。

「明日は朝一で夏休み中に出ていた宿題を一つ残らず回収するから、仮に…まぁそんな人は私のクラスには居ないでしょうけれど、宿題をやっていない、なんて人が仮に居るのだとしたら、覚悟しておきなさいね」

艶子先生の口元がニヤリと歪み、セクシー眼鏡がキラリと光った。眼鏡の件は決して比喩ではない。本当に光ったのだ、キラリと。


いやいや、今はそんなどうでもいい事を考えている暇なんて私にはない。完全に失念していた。今朝家を出る段階ではしっかりと覚えていたのに…私とした事が、みっちゃんの事で頭が一杯になって、本来一番に考えなければならない事を失念するなんて、何て馬鹿な女の子なのだ、私は。

今朝は余裕ぶっていた私も、事ここに至って急に焦りが生じてきた。既に幾つかの宿題を済ませているのら、先生としても情状酌量し、刑を軽くしてくれるかもしれない。

しかし私は、宿題という全ての宿題に一切手を付けていないのだ。国語のワークや算数のワーク。そしてその他諸々のワークが今も私の勉強机の中で、まるで厳重な封印が施された閲覧禁止書のように眠りに就いている。

月並みだが、夏休み以前に戻れるのだとしたら、夏休み中延々と惰眠を貪り続けようと、にやけ顔で計画を練っている私に言ってやりたい。

「宿題をしろ。さもなく場、貴様はセクシー眼鏡の手によって抹殺されることになる」と。


ため息を一つ吐き、隣の席のみっちゃんを見やる。相も変わらずそっぽを向いたままだ。

「ごめん、みっちゃん。どうやら今日は謝れそうにないよ」心の中でそう呟き、私はみっちゃんと同様に、窓越しに広がる青一色の空を仰いだ。

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