黒と廃屋。
夏の夕暮れ特有の涼しげな風が髭を揺らす。
僕はとある廃屋で、まるで車に轢かれた猫の死体のように、ぐったりと横になっていた。
石のように重たくなった身体に喝を入れ、無理に立ち上がる。初めてと言っても過言ではない程の勢いで走った所為か、身体全体が痛む。
首を回し、辺りを見回す。
見覚えのない空間。一体此処は何処なのだろう。数時間前、烏の野郎から逃げる為に、僕は無我夢中で街中を走っていた。
陽が傾き始めた時になって僕はこの廃屋に到着したんだ。後ろを振り返ってみると、烏の姿は何処にも見当たらなかった。おそらく、あいつの言うところの縄張りの外に僕が出たため、追うのを止めたんだろう。と言うのは希望的観測かな?
兎に角僕は、烏から逃げ果せる事に成功したわけだ。代償は大きかったけどね。本当にもう身体中ボロボロだよ。気が滅入るどころの話じゃないね。
それに今僕が居るのは見知らぬ廃墟ときたもんだ。幾ら根無し草の野良猫とは言え、単身で見知らぬ土地に足を踏み入れると言うのは精神衛生上よくないんだよ。全くもって本当に。
ここでちょっと、この廃屋について説明しておこうと思う。果たして説明がいるのかどうか怪しいところだけど、まぁ聞いてほしい。
この廃墟には外壁と言うものがなく、四方の柱と中央に柱があるだけで、屋根はボロボロで今にも僕の明晰な頭目掛けて崩れ落ちてきそうなくらいに朽ち果てている。
床も床で朽ち果てている。コンクリートは所々がヒビ割れていて、雑草があちこちから顔を出している。こいつらときたら、全くもって節操がないんだ。所構わず、まるで空気を読まずに生えてくる。邪魔で仕方がないよね。そうは思わないかい?
それにしても、どの位放置されていたんだろうね、この廃屋は。
人間や時代から忘れ去られた、可哀想な廃屋。まるで僕みたいじゃないか、などと若干感傷に浸っていると、空気を読まずに腹の虫が鳴き出した。
あんなに走ったんだ。腹が減るのも頷ける。
身体は痛いが、空腹には逆らえない。
僕は、重い身体を引きずるようにして、廃屋の外に出た。身体を撫でるように吹き付ける風が心地良い。夜になればもっと心地良い風が吹くのを僕たち猫は知っている。
後一時間もしないうちに、世界は星々に包まれ、人間たちは眠りに就き、僕たちの時間がやってくる。
さて、狩に出掛けるとしよう。
今日は何を食べるとしようか。まぁいつものように鼠辺りかな。
それから数時間、僕は夜の帳が降りた街を延々と飯を探して彷徨っていた。
未だに今夜の飯は見つかっていない。
そして今は何をやっているかと言うと、偶然通りがかった公園の滑り台の天辺に寝そべって夜空に煌めく星たちを眺めていた。
夜は好きだ。時に僕たちを轢き殺す車は走っていないし、憎たらしい烏の姿もない。
世界には僕ただ一匹だけが存在しているのではないかという気分にさせられる。とても良い気分だ。でも偶さか淋しくなるんだ。
こんな良い夜にはね、よくあの女の子の事を思い出す。飼い主の娘の事だ。
あの家の中で彼女は一番僕に良くしてくれた。彼女のベッドに潜り込んでも一切怒らないし、部屋で粗相をしてしまっても、彼女は怒るどころか、笑っていたくらいだ。
そんな事を思い出していると、僕は無性に彼女に会いたくなってきた。
そう言えば、名前は何て言ったっけ?
恩人の名前を忘れるなんて、僕はなんて恩知らずな猫なんだろう。
明日にでも久しぶりに会いに行ってみようかな。
今日はどうやら、夕食には有り付けそうにない。大人しくあの寂れた廃屋に帰るとしよう。ふと、思った。何故僕はあの廃屋に帰ろうだなんて思ったのだろう。幾ら考えても分からない。あえて理由をこじ付けるとするのなら、あの廃屋と僕が似ているから、という事になるのだろうな。
星空の下を歩く事、一時間。
僕は朽ちた廃屋へと帰ってきた。
帰りの道中でも夕食を見つける事は出来なかった。運が悪い日というのは、その日一日運が悪いと相場が決まっているんだ。
それにしても今日と言う日は驚く事ばかりだ。廃屋の中へ一歩足を踏み入れた瞬間、僕は何者かに飛び掛かられた。見えなかったわけではない。あまりに突然の事で、反応する事が出来なかったんだ。
僕と得体の知れない何者かはもつれ合うようにして雑草が生えたコンクリートの上を転がった。
僕は暗闇から現れた突然の襲撃者に人間が言うところの猫パンチをお見舞いしてやった。
それはもう我武者羅で滅茶苦茶な猫パンチだったよ。当たっているのかどうかも判然としない、まるで出鱈目なパンチ。
正直言ってしまうと、その時僕は心の底から動転していたんだよ。だってそりゃあそうさ。暗闇から、突然飛び掛かられるんだぜ?
人間だってきっと僕のように動転する筈だよ。
猫パンチが功を奏したのか、襲撃者は僕の身体からひょいと自らの身体を離し、一m程距離をとった。僕も同じように距離をとる。
結果、襲撃者と僕の間には、かなりの距離が空いた。
夜目に襲撃者の姿が映る。
朽ちた天井から覗く月明かりがそれの姿を露わにする。僕は又もや驚いた。晴天ではなく夜半だけれど、これぞまさに青天の霹靂だ。
鳥頭との一件が霞んでしまう程の驚きだった。
眼前にいるのは真っ白い猫。詰まる所同族である。白い毛並が月明かりに照らされ、まるで銀が混じっているかのような輝きを帯びている。
何故だかは解らないが身体はプルプルと断続的に震えている。まるで猫畜無害な僕を恐れているように。
そう言えば、僕が何故そこまで驚いたのかを説明していなかったね。何を隠そう、僕は生まれてこの方白猫という猫をこの目で見た事がなかったんだよ。勿論知識では知っていたよ。僕のような真っ黒い猫が存在しているように真っ白い猫が存在していても何も不思議じゃない。それは当たり前の事でしかない。
でもね、それだけじゃ僕はそこまで驚かない。そんなに頻繁に驚いていたら、猫の矮小な心臓なんて幾らあっても足りないよ、きっとね。
とても綺麗だったんだ。
この世の猫とは思えない程、目の前にいる白猫は綺麗だった。月並みな表現だと思うかい? でも僕は思うんだよ。心の底から感動を覚えた時って言うのはさ、往々にして月並みな表現や感想しか出てこないものなんだよ。
上手い事説明出来ないのだけど、兎に角そういう事なんだよ。
どれ位沈黙が続いていたのかよく覚えていないのだけど、ふつ気付くと白猫はその場で未だに震えていた。
何かしら声をかけなければならないだろうと僕は思った。でも何と声をかければいいのだろう。第一声さえ上手く決める事が出来れば、まるで蛇口を捻った水道のように言葉は溢れ出してくるのだろうけれど、どうやら僕の蛇口は錆び付いているようで中々回ってくれない。
二匹の色違いの猫の間に流れる沈黙は尚も続く。
均衡が破れたのはそれから、10分以上も後のことだった。
白猫の身体から震えが消えるのと同時に白猫が初めて口を開き声らしい音を発したのだ。
それは今が僕たちの時間だからこそ辛うじて聞き取れるような弱々しい声だった。
「ここは私の家…あなた敵?」
それは沈黙の均衡が破られると同時に、僕の蛇口から錆びが落ちる瞬間であった。




