夏の憂鬱。
古びた扇風機の上げる騒音が耳に障り私は目を覚ました。寝ぼけ眼のままフラフラとした足取りでベッドから降り、涼しげな新緑色のカーテンを開く。瞬間、目が眩んだ。
太陽が窓越しに燦々と照りつけ、反射した陽光が私の目に入ってきたのだ。
あまりの眩しさに目を閉じながらも私は思う。何て良い朝なのだと。そして、もし私のベッド脇に彼が寝てくれていれば、これ以上の最高の朝を迎えられるのではないかと。
ふとべっどに視線が動く。わかり切っていたことだがベッドに彼の姿はない。
私の寝相の所為で乱れたシーツと一枚の掛け布団があるだけ。他には何も無い。
先程までの清々しい気持ちはなりを潜め、今私のの中にあるのは、私の中になんか何も無い。強いて言うなら空虚だけ。
あの日を境にして、私の日常は本当につまらない無機物になってしまった。
部屋の外から誰かが私を呼んでいるのだが、意識がまだ完全に覚醒したわけではないらしく、誰が私を呼んだのか、何を言ったのかが理解出来ないまま、私はとりあえず大声で返事を返した。
「ご飯よー、起きなさーい」
今度ははっきりと聞き取ることが出来た。
これは母親の声で、どうやら朝ご飯の支度が整ったらしい。
生返事を返し、私はパジャマを脱ぎ、クローゼットを開け、適当な私服を取り出し、私の身長と同じ高さの鏡の前に経つ。
手が自然と胸を掴む。どうやら今朝も大きさは変わっていないらしい。特に落胆する事もなく、何処ぞの外人の顔が描かれたシャツを着て、少し短めのスカートを履いて最後にお気に入りのピンクのパーカーを外人の顔の上に羽織り、無慈悲にファスナーを首元まで上げる。何処ぞの外人さんごめんなさいと思ってもいない謝罪を心の中で済ませ、勉強机の上に既に用意万端という感じで鎮座している赤いランドセルを手に部屋を出る。
階段を降り一階に着くと、鼻腔に香ばしい匂いが漂ってきた。リビングへ続く扉を開けるとその匂いは私の空腹中枢を一層刺激した。
リビングに置かれた、どこかのホームセンターで買ってきた安物の机の上にトーストとジャム類、珈琲の入ったカップが三つ置かれていた。いつもの朝の風景。
私の父親である男、一之介は朝食になんて一切興味が無いと言わんばかりに朝食の置かれた机の上に何処ぞの新聞を広げ、まるで新聞ぎ親の仇でもあるような目をしながら見入っている。朝っぱらから、そんな姿を見せられる私の身にもなってほしいものだ。気が滅入って仕方がない。
一つ溜息を吐きながら、自分の席に腰を下ろす。
「なんだ、夏海。父さんに挨拶は無しか?」
新聞に夢中で私がリビングに入ってきたのにも気付かなかった男の台詞かよ、と思ったのだが、間違ってもそんな事を口にしてはならない。この一之介という父親は一度癇癪を起こしたら、当分手が付けられなくなるのだ。
具体的に言うと、あれだ。
昔の父親なんかはよくやったんじゃないのかな? 卓袱台を思いっきり引っくり返す例のやつ。そういうキャラクターってステレオタイプって言うんだよね、私知ってる。
兎に角この父親はそういうステレオタイプな昔堅気の老害なのだ。
だから私はこう言う。
「あ、ごめんなさい、お父さん。新聞を読んでいたみたいだから、邪魔しちゃ悪いかなって思って」しかも上目遣いでだ。大体の男子はこれで落ちる、確実に。いや根拠はないよ。
「そうか、ならいい。おはよう、夏海」
「うん、おはよう」
ほらね、簡単でしょ? 大人をあしらうのって意外と簡単なんだよ。
トーストにピーナッツバターを塗っていると、片付けを終えたお母さんがエプロン姿のままキッキンから出てきた。
「おはよう、お母さん!」
満面の笑みでお母さんにおはようを言う。
私はお母さんが大好きなのだ。一之介は大が付く程嫌いだが、お母さんの可奈子の事は大好きだ。心の底からそう思える。
「おはよう、夏海。今日からまた学校頑張りなさいね」私と同じように満面の笑みで応えてくれるお母さん。顔の造形もさることながら、お母さんは性格からして可愛いのだ。私が男の子だったら絶対好きになっているし、目の前で机の上にパン屑をボロボロと零しながら、トーストを齧っている老害なんかには絶対渡さないと思う。その位お母さんは可愛いのだ。こんな男には持ったいない女なんだ。
兎に角私の父親は最低なんだ。
一年程前にお父さんが一匹の黒猫を我が家に招き入れた。その時の事はよく覚えていて、その黒猫は兎に角疲れ切っていて今にも死んでしまいそうな風だった。辛うじて息はしていたけれど、長くは保たないだろうとお父さんもお母さん両者ともに口を揃えて言っていた。
私は二人と一緒に寝ないで黒猫の看病をした。暖かい毛布でその小さな身体を包んでやり、お父さんが速攻で買ってきたミルクを飲ませた。最初は一口も飲もうとしなかったのだけれど、段々と飲むようになり、最後には箍が外れたみたいに哺乳瓶に食らいつくようにして飲んでいた。
その黒猫にはそのまんま黒という名前を付けた。黒はどんどん元気になって家中を駆け回るようになっていた。やんちゃ盛りというやつだ。
だけど、それを良しとしない鬼のような人間が家には存在した。お父さんである。老害である。死ねばいいのに(冗談ではなく当時本当にそう思った。私の年齢? それは後程)
お父さんは黒が何かやらかす度に怒鳴りつけては、暴力を振るった。きっと会社なんかでのストレスを黒で発散していたんだろう。
そりゃあ、万年平社員じゃストレスが膨らむのも小学生の私にも少しは理解出来るけど、何も子猫ちゃんでストレスを発散しなくてもいいだろうに。弱い者苛めをする方が弱い者なのだと学校で教わらなかったのだろうか。
全くもって恥ずかしい親だ。よくお母さんと結婚出来たものだと心底思う。
そしてついに、お父さんのストレスという活火山が爆発する日がやってきた。
その日は雲一つない快晴で、あぁ良い一日だなぁなんて思いながら、階段を降りリビングに入ったんだ。
瞬間、私は呆然としてその場に立ち尽くしてしまった。リビングの有様は形容するのも憚られるほど惨憺たるものだった。
机や椅子は倒れ、机に置かれていたであろうお母さんが丹精込めて作った朝食はフローリングの床に落ちて無残な姿を晒していた。
お母さんは茫然自失と言った感じで、キッチンの隅で体育座りの格好で震えていた。
すかさずお母さんへ駆け寄り、震えた身体を抱きしめる。私の目からは自然と涙が溢れてきた。
「何があったの、お母さん」
声が震えていた所為で語尾辺りはお母さんは聞き取れなかったかもしれない。
私の声に気付いたようで、お母さんが顔を上げた。そこには今にも消え入りそうな母の精一杯の笑顔があった。泣きじゃくっていたのであろう。目は真赤だし鼻水は垂れ流し状態。それでもお母さんは笑っていた。
「お父さんがね、く、黒の事怒っちゃって、黒を、つ、連れて出て行っちゃったの」
途切れ途切れにお母さんはそう言った。
「お母さんは何もされなかったの?」
お母さんの身体を観察する。目立った傷は無いようだが果たしてどうか。
「大丈夫よ。お父さんは私と夏海にだけは絶対手をあげないから」
私は、私の中から怒りが沸き上がってくるのを感じた。お父さんに対して、こんなに怒りが沸いたのはこの日が初めてだったかもしれない。
お母さんや私に手を出さなければ全てが許されるのだろうか。そんな筈はない、絶対に。
私たち家族の大切な場所をお父さんは滅茶苦茶にした。そして何よりお母さんを泣かせた。あんなに可愛いお母さんを泣かせたんだ。
それに黒も連れて行った。たぶん黒はもうこの家には戻ってこない。ふざけるな、老害。
私の怒りは頂点に達していた。
その時玄関の扉が開いた。
お父さんが帰ってきたのだ。
足音で分かる。そう言うものだよね、家族って?
知らず知らずのうちに私は包丁を手にしていた。刃渡り二十センチの出刃包丁。
確か昨日の夕飯は刺身だった。包丁の切先から微かに生臭い臭いがする。
お母さんはそんな私を見て、まるで子供のように嗚咽を上げて震えていた。
リビングへ近づいてくる足音が次第に大きくなっていくのと呼応するように私の心臓の鼓動も大きくなっていった。
足音が止まり、扉が開かれようとしたその刹那、私の手にさっきまであった筈の包丁が跡形も無く消え去っていた。
「部屋を片付けるぞ」
お父さんは無感情にそう言って、一人片付けを始めた。私の隣でへたり込んでいたお母さんが立ち上がる。その手にはさっきまで私が持っていた包丁が握られていた。
私はハッとした。お母さんの手から血が吹き出しているのに気付いたからだ。そしてもう一つ必然的に気付いた事がある。
私から包丁を奪った際、お母さんは刃の部分を握っていたことに。
私はこの時、人間の流す血と言うものを生まれて初めて凝視した。
その後の事は何一つ覚えていない。
後でお母さんから聞いた話によると私は突然気を失い倒れたのだそうだ。実に情けない話だ。実の父親を殺そうとまで思っていたのにお母さんの血を見ただけで、気を失って倒れてしまうなんて、こう言うの滑稽って言うんだっけ?
結局その後、黒は戻ってこなかった。
そして現在に至るわけだ。
昨日で夏休みが終わって今日から新学期が始まる。ちなみに宿題は終わっていない。怒られるのは慣れっこなのだ。
朝から憂鬱な気分になってしまったため、一瞬サボりたい気持ちに駆られたが、そうも言っていられない。さすがに初日からサボるわけにはいかないからね。
二人に行ってきますと声をかけ、玄関に向かう。すると直ぐにお母さんが小走りでやってきた。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃないでしょう、全く。ほら、名札忘れてるわよ」
パーカーの左胸部分に視線を落とすと、確かに名札が付いていなかった。
名札を受け取り安全ピンに注意しながら、パーカーに取り付ける。
「じゃあ行ってくるね!」
そう言って私は家を出た。
そう言えばちゃんとした自己紹介をまだしていなかったね。
私の名前は月白夏海。小学六年生。
陽光の眩しさに目が眩みながらも、私は軽い足取りで学校に向かう。
完全に人間が出てしまいましたが気にせず続きを書いていきます。




