夏と宿題。
閉ざされた引き出しが私の目の前にあった。
頭の中に巣食うもう一人の自分の囁きが耳元で聞こえる。
「決してその引き出しを開けてはいけない。開けたら最後、君は貴重な午後の時間を全て失う事になる。いや、午後だけじゃない。明日家を出る時間まで、君は自らの机に拘束されることになる。まるで翼をもがれた鳥のように、君はもう何処にも行くことが出来ーー
」
「えぇい! うるさい! 黙らんか、私!」
自らの手で髪の毛を掻き毟り、悪魔の誘惑を打ち払う。掌には無数の髪の毛が絡みついていた。髪は女の命だとよく言うが、今の私にとっては髪が抜けるなど些事以外の何物でもないのだ。
何故なら、私は今から、宿題と言う名の一個大隊と血で血を洗う闘争を行わなければならないのだから。それに比べれば、髪の毛が抜けるなんてのはホントに本当にどうでもいい事でしかない。
額から一筋の汗が流れ頬を伝い木製の机に染みを作る。引き出しへと緩慢な動作で腕を伸ばす。途中で腕の進行が止まる。
本当にいいのか、私?
この先に進んでしまったら、もう後戻りは出来ない。今ならまだ間に合う。何もセクシー眼鏡の説教を数分我慢すればいいだけじゃないか。腹が立ったら、「この貧乳教師!」と逆に罵ってやればいい。
「うるさい!」
両の手で机を思い切り叩きつける。
囁きが霧散していく。
悪魔と言う奴は、弱い心につけ込んでくるのだ。強い心こそが悪魔を退ける最大の武器。
目を閉じる。
悟りを開いた僧のような面持ちで私は引き出しの取っ手に手を掛けたと同時に開け放つ。
刹那、数冊のワークブックが宙を舞った。
私の身長より高く舞い上がったワークブックが、次の瞬間には何事もなかったかのように、フローニング敷きの床に落ちる。
ページが捲れた数冊のワークブックを手に取り、机の上に放り投げ、引き出しの中に視線を向ける。異様な気配を放つ、ラスボスことビニールに包まれた四百字詰の原稿用紙が顔を覗かせている。ぶわっと背中に脂汗が滲むのがわかった。こいつを見たくなかったのだ。私の最大の敵。読書感想文である。
私はクラスメイトたちよりも多くの本を読んでいると自負しているが、何を隠そう、私は文章を書くのが苦手なのだ。まして感想文なんて言ったら、以ての外だ。
私は文章を書くのが苦手だが、感想文を書く方が遥かに苦手なのだ。どんなに面白くて感動する本を読んでも、私の口から出る感想と言うやつは大概が「うん、面白かった」この一言でしかない。小学生にしたってこれは余りにも酷く目に余るものだ。
でも私にはこの一言しか書けないし、これ以上の感想を書こうなんて、毛頭思わない。
だってそうじゃないか。この「うん、面白かった」という短い言葉の中にどれ程の感想が集約されているのか。頭の固い大人には分からないのだ。
だから、私は今年もこの感想を書く。
「うん、面白かった」
ダンジョン一階にしてラスボス撃破である。これは幸先がいい。実にいい。
ここまで要した時間は五分と言った所。
ラスボスさえ倒してしまえば後は楽勝だ。
答えを見て、たまに間違いの答えを書き込みながら進めていけばいい。完璧だ。
刹那頭の中に美しい声音が響く。
「あなたは本当にそれでいいのですか?
あなたは一切本を読まないような学友を、よく馬鹿にして見下していますね。今のあなたはそんな彼らと同じなのではないですか?
明日からあなたは、彼らを無い胸を張って馬鹿にすることが出来ますか? あなたは悪魔を払い除けたのですよ。敵から目を背けてはいけません。あなたなら出来ます」
そう言って、声は霧散していく。
「ふっ。どうやら私にも良心と言うやつが残っていたらしいな」
私はそう呟いて、開き掛けていた答えが書かれている冊子を閉じた。
「さぁ、始めようか…」
そして私は本格的に宿題に取り掛かった。
何とか明日の朝までには終わらせなくては。
明日は朝一でみっちゃんと通学路の坂道で会う約束があるのだ。ちゃんて謝らないといけない。私の大切な親友、みっちゃん。
ペンを握る指に自然と力が篭る。




