第9話 Sorbet I 街角の歪み
翌朝。
宿を出た。
朝食は宿の食堂で軽く済ませた。
パンとスープ。ふつう。
ふつうの朝食っていうのも、たまには悪くないのよね。ずっとご馳走だと舌が油断するし。
街はいつも通りの朝。
ヴェルデンはもう噂を消化したらしい。通りすがる人たちはもうこっちを特別な目で見ない。何人かが軽く会釈をするくらい。噂は流れて、また別の話題に変わっていく。
いい街。飽きの回りが早い。
ハルトが街の南東で待ってた。
約束はしてなかったけど、たぶん来ると思ってたのね。剣を背に、装備まんま。
「あ、ハルト。もう来てたんだ」
「ああ。手が空いてたからな」
「奢る約束、覚えてる?」
「昨日のやつだろ。ちなみに、お前が覚えてるとは思ってなかった」
「失礼な。あたし、食べ物の約束は絶対」
「食べ物の、な。他はどうだか」
「今日の夜。地下茸の煮込み。二年熟成のやつ使うから、期待してていいよ」
「期待は、あまりしないでおく」
「するよ。したくなるから」
ハルトがまた額に手を当てそうな顔をして、寸前で止めた。
——お、寸止め。慣れてきたね、ハルトも。
*
街を歩く。
朝の南東の通りは商業区の縁にあたる。倉庫がいくつか並んでる。搬入が終わったばかりの時間で、荷台が停まって、御者が煙草を吸ってる。商人らしい男たちが伝票を確認してた。
その間をぶらぶら抜けた。
「ハルト」
「何だ」
「あんた、この区画、来たことある?」
「南東の倉庫街か。何度かな。護衛の仕事で」
「ここ、変な感じしない?」
「変って、どこがだ」
「全体」
ハルトはしばらく黙って、それから首を傾けた。周りをぐるっと見回して、もう一回、こっちを見た。
「悪いが、俺には何も分からん。倉庫と荷台と、いつもの南東だ」
「うん。あんたが感じないのは、ふつう」
「それは、慰めか嫌味か、どっちだ」
「褒めてるの。魔道士でも感じない人、ほとんどだもん。あたしがちょっと変なだけ」
「そこは否定しない」
「するとこ、そこじゃないでしょ」
楽しそうに笑った。
*
角をひとつ曲がる。また、ひとつ。
倉庫街を抜けて、商人ギルドの裏手の細い路地に入った。
そして立ち止まる。
「お」
目がわずかに細くなった気がする。
「ハルト」
「何だ」
「ここ、空気がおかしい」
「……路地にしか見えんが」
ハルトが首を傾けた。周囲を見回して、剣帯のバックルに指を軽く添えた。危険を感じたわけじゃない。ただ念のため。ハルトはいつもそう。
路地はふつうの石畳の細い道。両側に商人ギルドの裏壁と、別の倉庫の壁。上は薄暗い空。風はほとんどない。落ち葉も舞ってない。子どもの声も聞こえない。
ただ静か。ふつうの路地。
ふつうの路地にしか見えない。
「ここ、何がおかしいんだ」
「魔力の流れがおかしいの。あのね、ふつう街の中の魔力って、人の動きとか、生き物とか、地脈とかに合わせてゆっくり流れてるの。川みたいに。よどみもあるし、急流もあるし、たまに渦もある。でも、ぜんぶ物質界の理由があるでしょ」
「まあ、そういうものらしいな」
「ここの魔力は、流れるっていうより、引かれてるの。下に。地下に。深いところに」
「引かれてる、か」
「うん。しかも引かれ方がおかしいんだよね。地脈はもっと自然にたわむの。ここは、ぎゅっ、て不自然に一点に集まろうとしてる。角度からいくと、たぶん真下に二百メートルくらい。岩盤の二層目あたり。そこに何かがあって、魔力を吸ってる——ううん、吸ってるっていうより、たぶん半分、漏らしてるんだよね。穴があって、向こう側から空気みたいなものが流れ込んでる。そういう感じ」
「……」
「で、その引きが、街の魔力の動き全体をほんの少しねじってるの。ふつうの人には絶対分からないレベルだけど、何年も続くと、街の地脈そのものを書き換えてる可能性がある」
「それは、まずいのか」
「うん、まずい——って言いたいとこなんだけど、たぶんこれ、街の繁栄に関係してるんだよね」
「は?」
「地脈がちょっと書き換わると、土がちょっとだけ肥えるの。雨の降り方もちょっと安定する。気付かないくらいの変化。だけど何年も続くと、街はゆっくり豊かになっていく。ね、面白いでしょ?」
楽しそうに、早口で話した。
ハルトは長い間、答えなかった。それから軽く頷いた。
「……分かった」
「いま分かったって言ったの、たぶん嘘でしょ」
「……ああ」
「分かったふり?」
「分かったふりだ。お前の言ったことの、最後の三行くらいは、何ひとつ追いつかなかった」
「あー、それくらいでちょうどいいの」
「正直に言って、悪かったか」
「ううん。正直は強いもん」
楽しそうに笑った。
*
「で、お前は、いまどうしたいんだ」
「うーん、もうちょっと近づきたい」
「近づくと、どうなる」
「分からない。分からない方が楽しいでしょ」
「楽しくはない。ちなみに、死なないんだろうな」
「死なないよ。心配してくれてるんだ、ハルト」
「心配は、してない。後始末の心配だ」
「ひどーい」
「本音だ」
ハルトがもう一度額に手を当てた。今度は止まらなかった。
*
路地のいちばん空気の重たいところまで進む。
立ち止まって軽く息を吐いた。
ここから垂直に下。二百メートルくらい。街の中央広場の地下、深いところ。場所はたぶん特定できた。
ただし、まだ確証はない。中央広場の地下って結構広いし。もう少し別の方向からも観察したい。三角測量みたいなことをすれば、もっと絞れるはず。
「これ、面白いなー」
ぽつりと呟いた。
ハルトがその横顔を見て、何かを諦めた顔をした。
——お、また諦めた顔。今日ので三回目。
*
路地を出るところで、ふと視線を感じた。
振り返ると、路地の入口に商人らしい男がひとり立ってた。髪は白髪混じり。歳は四十代後半。服は上等で、靴も磨かれてる。ただし装飾は控えめ。「商業区の責任ある立場の人」がよく着る型。たぶんこの区画の商人ギルドの誰か。
男はこっちと目が合うと軽く会釈をして、何事もなかったかのように別の方向へ歩き去った。
ただし、その歩き方は自然すぎた。ふつう、知らない人と目が合ったら、ほんの少し間が空く。ここで間がなかった。つまり男は最初から、こっちを見てた。
「ハルト」
「何だ」
「いま、見られたね」
「ああ。あの商人か」
「あの人、何者?」
「分からん。顔に見覚えがない。俺は商業区に来た冒険者はだいたい覚えるようにしてるんだが、あの男は記憶にない。最近来た人物か、ふだん表に出ない人物か、どっちかだ」
「お、いいね。ちゃんと見てるんだ、ハルト」
「仕事だからな」
軽く首を傾けた。
——ここ、深く突っ込むと、誰か出てくるね。
たぶん面白い人。たぶんそれなりに頭のいい人。たぶんそれなりに地位のある人。
と、ふと思い出した。昨日ボルドさんが、領主のことを似た形で評してたのよね。
もちろん領主本人じゃない。ただ、つながってるかどうかは、まだ分からない。
「……ま、いっか。ご飯、先」
楽しそうに歩き出した。
路地を抜けた先で、朝の市場のざわめきがまた戻ってきた。
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わんだ




